十節 闇からいずる竜人(壱)
探索データはネスト内部の導式灯を伝って、大アトラスと小アトラスの間で伝達される。しかし、ネストの外に出てしまうと大アトラスと小アトラスの間で行われるデータのやり取りは途切れる。ネスト内部の最新情報はネスト内部でしか得られないという話である。
場所はネスト地下八階層の不夜城、王座の街。
ネスト管理省大天幕前の広場中央にある『
その雑踏のなか、ツクシは巨大なネストの立体地図を睨んで、
「クソ、マジかよ!」
「ああよォ、困ったなァ、どうすんだ、これよォ――」
ゴロウは困り顔である。
「地下九階層の未探索区域は、もう北西方面の一部だけなんすか!」
黒ぶち眼鏡のつるをつまんだヤマダの手が震えていた。
「まだ下り階段は誰も発見をしていないようだが――」
リュウも厳しい表情だ。
「それがせめてもの救いですね」
頷いたフィージャが舌を引っ込めた。
「こうしてはおれん。すぐにでも出発じゃ! さあ、行くぞえ、ツクシ! あれ? ツクシ? ツクシはどこなのじゃ?」
表情を引き締めたシャオシンが出発を宣言したがツクシがいない。きょろきょろしたシャオシンが背後まで顔を向けると、少し離れたところで、ツクシは三人のネスト探索者を相手に不機嫌をぐらぐらと煮沸させていた。
「――まあ、オッサン。そういわれても無理だ、諦めろ」
若い男がいった。使い込んだ焦げ茶色の
「オッサンの探索者団ってのは、あのメスガキ連れだろ? 獣人はとにかくな、他は貧弱な連中に見えるぜ。あの面子で地下九階層の北西区に手を出しても死ぬだけだろうよ」
爪楊枝を咥えた小男がシャオシンをじろじろ眺めた。
「悪いことをいわねえから、大人しく
鎖帷子を着込んだ中年男がせせら笑った。鎖帷子の男の背丈は大きくないが、体形は横に太く、その手に斧槍を携えて厳つい感じだ。ツクシと対峙しているのは三者三様だが、いずれも冒険者崩れのネスト探索者といった容姿だった。
「
ツクシは鎖帷子の首元をひっ掴むと顔を近づけて
物凄い睨みの利かせ方である。
「おっ、おい、いきなりなんだよ!」
若い男が声を荒げた。
爪楊枝を咥えた男がツクシの肩に手をかけて、
「オッサン、俺たちを誰だと思って――あぎゃっ!」
無言で飛んできたツクシの右拳が爪楊枝の男の鼻面を叩き潰した。
仰向けに倒れた爪楊枝男は鼻血で顔を塗らしている。
「
ツクシが胸倉を掴んでいた鎖帷子の男を大外刈りの要領でブン投げた。
「ちょ、こっ、こいつ、なにを!」
若い男が顔色を変えたが、それにツクシが疾風のごとく殴りかかった。
手当たり次第、問答無用。
ネスト管理省天幕前の広場は突発した喧嘩騒ぎで賑やかになった。他人の喧嘩を見物するのは楽しいものである。特にネスト探索者はそのほとんどが気の荒い男だから、たいていのひとは、ツクシの喧嘩三昧を見てやんややんや騒ぎ立てていた。
ゴロウは倒れた冒険者崩れへしつこく蹴りをぶち込みながら、カリカリイライラ憤るツクシを見やって、
「あの馬鹿は見ず知らずの兄さんに八つ当たりかよォ――」
「見たまま、チンピラじゃのう――」
シャオシンは冷ややかな視線でツクシを侮蔑した。
「ああ、この上なく見苦しい男だな――」
顔をしかめたリュウの本音である。
「ああいう行動は本当に良くないですね――」
獣耳を折ってフィージャがうなだれた。
「――すんません、すんません、この通りっす! ひとまずは矛を収めてくれませんか?」
頭を低くして突撃し、ツクシの喧嘩に割って入ったのはヤマダだった。
東西南北に頭を下げるヤマダは平身低頭の平謝りである。
石床の上に尻を置いていた爪楊枝を咥えていた男(爪楊枝は唇の端から飛んでいったので過去形だ)が、血の止まらない鼻先を抑えながら、
「あんだ、この眼鏡チビ。はあ、そうやって頭を下げるだけかよ。俺たちは一方的に殴られたんだ。侘び賃をぶら下げてこ――ぎゃっ!」
そう凄んでいる最中、また仰向けにぶっ倒れた。
ツクシは座り込んで戦意を喪失していた喧嘩相手の顔面へ前蹴りをぶちこんで、
「おい、
ツクシの足元は黒いアーミー・ブーツである。底が厚くてとても硬い。ツクシは相手への警告を事後に行うのだ。石床が元爪楊枝の男の顔面から飛んだ血で濡れている。
倒れた喧嘩相手にまだ蹴りを叩き込もうとするツクシを、
「ツ、ツクシさん、落ち着いてください、自分ならいいんす、いいっすから、気にしないで!」
顔を赤くしたヤマダが背後からの羽交い絞めで何とか食い止めた。
「た、ただで済むと思うなよ、この野郎――」
ツクシにブン投げられて床で伸びていた鎖帷子の中年男が立ち上がって斧槍を構えたところで、
「おい、いい加減にしろ! ツクシ、馬鹿なのか、おめェは!」
ゴロウも喧嘩に割って入った。割って入る際、得物を構えた鎖帷子の中年男を危険だと考えたゴロウは、その胸元を突き飛ばした。ぽいーん、と宙をぶっ飛んだ鎖帷子の冒険者崩れはそのまま背中を石床にうちつけて起き上がってこない。鎖帷子の重さも相まって落下はかなりの衝撃だったようだ。気絶している。
「――おい、この赤髭! お前はこの狂犬野郎のお仲間か? どうやってこの落とし前をつけてくれるんだ!」
若者がゴロウの肩口をひっ掴んで泣き喚いた。謝罪と賠償を要求しても誰しもが納得できるくらい、その顔がボコボコだった。
「わかった、今からこの馬鹿に謝らせるから、少し黙ってろ!」
ゴロウが手を振り払うと、その手が若者の顎でパカーンと音を立てた。
「あがっ――」
若者はくりんと白目を剥いて膝から崩れ落ちた。
これは完全に意識を失ったひとの倒れ方だ。
「ああっ、ゴロウさん――」
ヤマダが変な笑顔になった。
「おう、ゴロウ、いいパンチだな」
ゴロウに胸倉を掴まれたままツクシが感心している。
「あァ、すまねえ、わ、わざとじゃあねえんだ、わかるだろォ?」
髭面を固めたゴロウは謝ったが、石床にぐにゃりと潰れた若者には意識がなかったし、その謝罪はもう遅すぎた。
「――手前ら、うちの団に喧嘩を売ってるのかあ!」
そんなことを口々に喚きながら、三者三様に伸びている冒険者崩れのお仲間が、ネスト管理省天幕前の広場へ駆けつけてくる。
その数はざっと見ただけでも三十人以上いた。
「今頃になって気づいたのかよ、この大マヌケどもめ、ククッ!」
ツクシは口角をぐにゃりと歪めて見せた。
ツクシとゴロウが叩きのめした冒険者崩れの仲間が現場に到着すると、ネスト管理省天幕前の広場は大乱闘会場になった。ツクシ、ゴロウ、ヤマダを取り囲み、腰の刃物に手をかけた冒険者崩れを見て、リュウが飛び入りで参加する。祖国で
顔色を青くしたシャオシンは、その場にずっと佇んでいた。
そのうち、王座の街に常駐しているネスト管理省所属の治安維持警備隊の大よそ三百名が暴動の現場に隊列を組んで突入した。彼らも彼らで、ひとを打ちのめす目的で作られた硬い棒きれなどをブンブンと振り回して非常に暴力的だ。
最終的に、この騒ぎを起こした主犯格は全員、警備隊の活躍で確保された。
ツクシたちは逮捕されたのである。
§
場所は天幕の酒場宿ヤマサンの壁際にある丸テーブル席だ。ヤマサンは天幕で作られた簡易な構造なので、これは『幕際』とでもいったほうが正しいのかも知れない。ともあれ、ツクシたちがいる場所は天幕の酒場宿ヤマサンの丸テーブル席である。
「貴様らが見せた好戦的な態度、個人的には大いに評価したい。しかし、貴様らの不祥事を揉み消すのは私の仕事でないのだぞ?」
オリガはダイキリが注がれた杯から唇を離して苦言を呈した。
「すんません。ほんと、すんませんでした、オリガさん――」
警棒の乱打を浴びて顔を青紫色に腫らしたヤマダは平謝りをしながらうなだれた。
「すまん、無用な手間をかけた――」
その横でリュウも視線を落としている。
「申し訳ありません――」
フィージャが獣耳と頭を垂れた。
「ツクシが悪いのじゃ!」
椅子から腰を浮かせたシャオシが、ツクシを睨んでギャンと吼えた。
「オリガに喧嘩の尻拭いなんて頼んでねェぜ」
ツクシは崩れた態度と崩れた姿勢を周囲へ見せつけながら真横を向いて座っている。
「ああよォ、ツクシ、ここは素直に騎士の姐さんへ頭を下げておけよォ――」
ゴロウは大きな身体を小さく丸めていった――。
「もう、こいつら、断首刑。みーんな、断首刑。今すぐだ!」
紺色の王国陸軍服を着てチョビ髭を生やした、気の短そうな小太りの警備大隊長は、捕縛されたツクシたちを眺めながら甲高い声で憤った。タラリオン王国では犯罪者に対しての刑罰が現場の軽い判断で執行される。丈夫な縄一本あれば事足りる絞首刑がお手軽なので地上ではこれが人気なのだが、王座の街には罪人の亡骸を吊るして見せしめにする適当な樹木がない。なので、ここではのこぎりを使って生きたまま罪人の首を切り落とすのが一般的な処刑方法だ。必要以上の苦悶のうちに死んだ罪人のなま首を路上に並べて晒すのも、なかなかに犯罪抑止力が高いと判断されているらしい。
荒縄でぐるぐると拘束されて、広場の石床の上で正座させれていたツクシたちを、
「警備大隊長、こいつらは、私から直々に訓戒しておく」
そういって開放したのはオリガだった。ツクシたちが大騒ぎを起こしたのは、ネスト管理省天幕の前だ。表の大騒ぎに気づいて、管理省の天幕から出てきたオリガは、ツクシが始めた喧嘩を最初から見物していた――。
「――ゴロウが手加減抜きであの若造をブン殴ったから、あんな面倒なことになったんだぜ。くおっ!」
ツクシがジョナタン特製じゃがいも酒を口に含んで顔を歪めた。派手に殴り合いを繰り返したツクシも顔に色がついている。悪くて強い酒は口中の傷によく
「まあ、しかし、不幸中の幸いっすかね――」
ヤマダはスタウトをごくごく飲んだ。普段は舐めるようにして杯を干すヤマダも、今日は喉が渇いている。
「騎士オリガ、地下九階層の北西区に向かっている探索者団は本当にいないのか?」
リュウはエールの杯に口をつけた。
「年末はともかく、年始は探索がまったく進まなかったのだ」
オリガはグラスに半分残ったダイキリを揺すってくるくる回した。
「盆暮れ正月はタラリオンでも国民の休日なのか、あぁん?」
ツクシの不機嫌な唸り声だ。
「ネストに休日はないのだがな。ツクシ、今から地下九階層北西区のデータを取ってこい。競争相手もいないし、いい機会だろう」
オリガが唇の端を反らして見せた。
「そこにエイシェント・オークが集まってるのか?」
益々不機嫌な態度でツクシが訊いた。
「――いい機会だぞ?」
オリガは語尾を繰り返して益々唇の端を反らした。そのルージュは鮮血のような色合いで、獰猛さを感じる微笑みだ。
「――オリガ、正直にいえ」
獰猛な笑顔を睨むツクシの顔は凶悪である。
「まあ、その、何だ。敵の残存兵力が地下九階層の北西区に結集しているらしいな、うん――」
オリガは唇を尖らせて視線を斜めに落としながら白状をした。
「さっき冒険者崩れどもから、そんな話を聞いてる最中に、俺は奴らから喧嘩を売られたんだ。それ見ろ、やっぱり問題があるじゃねェか。探索者死亡事故数のカウンターだって新年早々、えらい数字だったぜ」
ツクシはじゃがいも酒の杯に口をつけてまた顔を歪めた。発言中、それとなく責任転嫁しているが、喧嘩の押し売りしていたのは間違いなくツクシのほうである。
「ああ、気づいていたか。まあ、ツクシ、そういうことだ」
オリガが獰猛な色の唇へダイキリのグラスを寄せた。
「それで大勢の冒険者崩れが
ゴロウが赤ワインの杯を一気に干して唸った。
「命知らずを自慢するような連中が尻込みするとなると、かなりの数のエイシェント・オークが北西区に結集しているのだな」
リュウは空になったタンブラーを見つめている。
「厄介ですね」
フィージャが両手で抱えているのは水のグラスだ。長い間放置されていた生活排水やら工業排水の問題(近年では改善されつつあるようだが)で、地下水の質が極端に悪くなっている地上とは違って、地下深くにあるネストは綺麗な地下水がふんだんに沸く。ここでの飲料水は
「ちょっと待ってください。敵の場所が判明しているのなら、王国軍と生活圏防衛軍で片付ければいいんじゃないっすか。メルモさんの部隊にはストーム・エンカウンターもあるわけですし。精鋭なんすよね、メルモさん配下の銃歩兵隊」
ヤマダがいうと、その横で
「うん、ヤマ、私はそうしたいのだが――」
オリガは手元のグラスの縁についた自分の口紅を眺めている。
「だが、何だ?」
ツクシが不機嫌に話を促したが、オリガの返答はない。
「またダンマリか。お前らはいつもそれだな――」
乱暴に杯を呷ったツクシが悪い酒の刺激でまた顔を歪めた。
「――むう。探索者から提供されたデータを見ると、どうやらその北西区に地下十階層へ続く下り階段があるらしいのだがな」
オリガはそれでも強引に話を続けた。
「オリガ、奴らは動いてるのか?」
不承不承、ツクシが訊いた。ネストの情報は生死に直結する問題だ。ツクシたちはいつも腹に一物を抱えて訪ねてくるこの女性騎士から、なるべく多くの情報を引き出すしかない。
「奴らというと、エイシェント・オークどもか?」
オリガがツクシへ目を向けた。
「ああ」
ツクシが頷いた。
「それがな、ツクシ。地下九階層の北西区から、奴らはまったく動かんのだ」
オリガが眉間にシワを作った。
「動かないだと? 下りのほうの階段周辺からか? 上がりの階段ではなくてか?」
ツクシは眉根を寄せた。
エイシェント・オークの軍勢は以前まで地上を目指して進撃していたのだが――。
「――動かん。その理由がよくわからん」
オリガがツクシの不機嫌な顔をじっと見つめた。
「理由がわからんから、軍でも警戒をして動けないのか?」
ツクシが不機嫌に訊いた。
「――まあ、それもある」
オリガはツクシの不機嫌な顔からぷいっと視線を外した。
「あのな、オリガ。お前、やっぱり何かを隠してるだろ? それをはっきりといえ。こっちは命懸けだぞ?」
面倒になってきたツクシがストレートな物言いでオリガに詰め寄ると、
「ツ・ク・シ」
意図をもって甘えた声色が、その左耳の近くで聞こえた。
「何だ、テト、金銭のおねだりならお断りだぜ」
ツクシが唸った。真横で唇の先に右の拳を押し当て細身の身体をクネクネさせているのは、酒場宿ヤマサンの看板娘テトである。
「ふぅん、ツクシはそういう態度なの。じゃ、やーめた!」
邪険な扱いに不満を示したテトがプイと横を向いた。
「何だよ、気になるじゃねェか。ほれ」
財布からコインをひとつ取り出したツクシがそれを指で弾いた。
「――銀貨一枚とか。ツクシのケチ!」
テトは宙を飛んできた銀貨を右手で受けた。
「小娘、贅沢をいうんじゃあねェ」
テトは唸るツクシの左耳をひょいと指でつまむと、それに唇を寄せて、
「ヴァンキッシュ冒険者団が中心になって結成した
ツクシの耳へ熱い吐息と一緒にテトの垂れ込みが侵入する。
「――バンキッチュ? レイド? テト、何のことだそれ?」
ツクシが怪訝な顔で訊いた。テトが柑橘系の色気と一緒に耳打ちしても、これでは無駄骨である。身体を起こして腰に右手を置いたテトは不満気な顔でツクシを見つめていた。ツクシは怪訝な顔のままである。探索する予定の未探索区が他のネスト探索者の集団とかぶると、どちらかの探索者団はネスト管理省から報酬がもらえない。それなので、ツクシたちは王座の街の酒場宿で働いていて各探索者団の動向に明るいテトから、情報の提供を受けていた。しかし、テトもなかなかしっかりものだから、ツクシたちの他にも情報を流して、小遣い稼ぎをしてるのかも知れない。
「ツクシ、ヴァンキッシュは地下九階層から大量の探索データを持って帰ってきた冒険者団だ。地下九階層の地図はほとんど奴らが作ったよ。初日は馬を連れ込んできてマヌケだったが、どうしてなかなか仕事はできる連中だったな。そうか、ようやく北西区に向けて出発するか。私にとって朗報だ。ではテト、もう一杯、ダイキリをもらおう」
オリガは上機嫌でお代わりを注文した。
「別々の冒険者団が協力して大きな仕事をすることを、タラリオンでは『
テトが伝票に注文を書き入れながらツクシに教えた。
「テト、そいつらの人数はどのくらいだ?」
ツクシは手元の杯の中身が空になっていることに気づいてカッと殺気立った。
「今回の
殺気立つツクシを見て、テトが笑いながらいった。この「スペシャル」とは酒場宿ヤマサンの店主ジョナタンがこっそり造っているじゃがいも酒を差す隠語である。これは密造酒である。酒税逃れで非合法の品なのである。この密造酒は悪酔いにはもってこいの酒精強い安酒で味はすこぶる不味い。笑顔のテトに不機嫌な顔を向けたツクシは頷いて、スペシャルを注文した。
「テト、俺には赤をもう一杯くれ。そうかァ、五百人ときたかァ――」
空の杯を手でもてあそんでいたゴロウも追加の酒を注文した。
「ゴロウ、ボトルにしとく?」
テトが微笑みながら顔を傾けた。涼やかな美貌をこんな調子で使いこなし、余分な酒を客に飲ませるのがテトの仕事だ。
「いや、テト、一杯だけでいい。今回はネストの探索で稼ぎが出るかどうか、わからねえしなァ、北西区だけで五百人が競争相手かァ。どうすんだよ、これ、困ったなァ――」
吝嗇家のゴロウにテトの誘惑は通用しなかった。
「――
申し訳ていどの膨らみがある胸のうちで、「ちっ!」と鋭い舌打ちをしたテトは、ヤマダへ顔を向けた。
「――うーん。そうだね。テトちゃん、もう一杯もらうよ」
ちょっと考えたあと、ヤマダが返事をした。
「ああ、テト、俺は――も、もう一杯くらい、いいではないか!」
空の杯を掲げながら追加の酒を注文をしようとしたリュウの手を獣毛で覆われた手が横からガッシと掴んだ。
「リュウ、だめですよ。お酒は一日に二杯までという約束です」
リュウの注文を阻止したのはフィージャだ。
「だめじゃだめじゃ」
シャオシンがフィージャの手に自分の手を重ねた。リュウは腕に力を込めて抵抗しているが、シャオシンはともかく、フィージャの腕力はとても強い。酒を口にしないフィージャとシャオシンは、リュウの酒代を無駄な出費だと考えている。実際、酔って覚めれば頭痛をお釣りにして消える酒代は、酒を飲まない、飲めないひとから見ると見返りのない出費の極地だ。ドタバタやりだした三人娘をちょっと眺めたあと、テトが「ご注文は以上でよろしいですか?」と確認した。リュウの手を獣人の豪腕で押さえこんだフィージャと、リュウの口を両手で塞いだシャオシンが深く頷いた。リュウは顔を赤くして抵抗している。
テトはくすくす笑いながら裏手の厨房へ消えた。
「しかし、元冒険者が五百人もっすか。その大人数だと階段発見の賞金が狙いっすかね?」
酒場全体に視線を走らせながら、ヤマダがいった。時刻は夕方の四時。席には六割程度の客がついている。時間帯のわりに悪くない客の入りだ。
地下九階層で再結集を始めたらしいエイシェント・オークを警戒して、王座の街に留まっている探索者が本当に多いみたいだな――。
ヤマダはそう考えた。
「下り階段発見の報奨金は白金貨四十枚(※金貨百=白金貨一)だ。大所帯でも元は取れる。まあ、階段を発見できなければ赤字だろうがな」
オリガが唇の端を反らした。管理省がネスト探索に新しい手法――ネスト探索者制度を導入してから、ネスト制圧軍団の被害は最小限に抑えられている。最も危険な任務を民間に丸投げしているのだから当然といえば当然の話だ。満足気な笑みを見せるオリガの顔へ、怪訝な顔のツクシが視線を送っていた。
王座の街周辺に敷かれた過剰なまでの防衛網を見るにつけ、ネスト管理省はネストの下層へ積極的に進撃する気がないのではないかとツクシは勘繰っている。しかし、その意図が正確に読めない。目の前にいるオリガは、この防衛線を指揮する立場にいるのだが、『タラリオンの赤い狂犬』と渾名されるような超好戦的な司令官であるし、実際、ツクシはその苛烈な戦いぶりを目にしてもいる。オリガは要塞に安穏と引き篭もることを選択するような人格ではないのだ。つい先ほど、オリガが発言中に黙殺した箇所が恐らくネスト管理省の――タラリオン王国軍の本音だろう。
王座の街に引き篭もって、タラリオン王国軍に何の得がある――。
胡乱な視線を察知して顔を横へ向けたオリガを、しつこく睨み続けるツクシへ、
「おい、ツクシ、このあとはどうする? 探索をやるなら、すぐに備品を揃えなきゃならんが――」
ゴロウが声をかけた。王座の街には探索者相手に商売するものがたくさんいるので必要な備品はたいていここで揃う。最優先されるのは、ランプ油だの、保存食だの、飲み物だのと探索中に消耗される品だ。備品を調達するのは一応の班長であるゴロウの役割になっている。
「ふご、ふぐっ、はぶっ――シャオシン、わかったから手を放せ、喋れんではないか! ――ふう。ツクシ、俺たちもその
リュウが背中に取り付いていたシャオシンを振り払った。
「リュウさんの意見も一策っすけどね。でも、さっき喧嘩したの、たぶん、その
ヤマダは顔面ボコボコの苦笑いだ。
「あの連中と共同作戦ですか?」
フィージャは乗り気ではなさそうだ
「わらわはイヤじゃな。何かそれはイヤじゃな――」
先ほどの騒ぎの最中、じろじろ視線を送ってきた冒険者崩れの目つきを思い出して、シャオシンはうつむけた顔を弱々しく振った。
「おう、シャオシン。あの数だけは多い腰抜けどもと協力とかな、俺だって死んでもお断りだぜ。マヌケどもがいくら集まったところでマヌケの事実に変わりはねェ。そもそも、人数が多くなったら分け前が減るだろ。だが、五百人もいれば、いい
ツクシが口角をぐにゃりと歪めた。思いつくことはそのたいていが悪事であるツクシの悪い笑顔を丸テーブル席にいた全員が見つめている。
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