十一節 鬼哭高らかに(弐)

 イスコ曹長に率いられ、ネスト・ポーターの集団は大階段前基地向かっている。

 ネスト制圧軍団の要塞と化しているその場所が現状一番安全である、安全であって欲しい。それが移動を続けるネスト・ポーターの希望だった。軍用犬が足を止めて脇道の一本に向かって吼えた。

 ネストの軍用犬は異形種の臭いを察知するよう訓練を受けている。

「いっひっ、い、異形種! 中隊、よ、横二列で隊列――!」

 ボルドウ特務少尉が垂れた頬を震わせたが、

「隊列は停止! 脇道へ閃光弾を撃ち込む、顔を背けろ!」

 閃光弾投擲用の短筒を手にとったイスコ曹長が先に行動を起こした。脇道へ閃光弾が打ち込まれると、閃光と一緒に「ヴォ!」と短い咆哮が聞こえる。

 怯えたネスト・ポーターの悲鳴が上がった。

「いるぞ、撃ち込め!」

 イスコ曹長が命令すると、銃歩兵が脇道へ発砲した。遅れて予備役兵も銃を手に取って発砲する。エイシェント・オーク・スカウトが一匹、銃弾を受けながら前進し、大通路へ飛び出てきた。スカウトは強引に銃歩兵の列へ突っ込んでくる。前込めで一発一発銃弾を装填する長銃は装填に時間が必要だ。敵との距離を詰めてしまえば、圧倒的な白兵戦闘能力を持つスカウトに利があった。

「全体は敵の接近を許すな! 下がれ、距離を――あっ!」

 イスコ曹長の命令が驚愕で止まった。スカウトに後方から飛来した白い弾丸が直撃したのだ。

 この弾丸はニーナである。

 ニーナが突き出した突撃盾チャージ・シールドが顔面に食い込んでスカウトは仰け反った。

「――大人しく寝てろ!」

 叫びながら身体を回転させたニーナが、スカウトの側頭部へ突撃盾を使用したバック・ナックルを叩き込む。一応、ニーナは右手に幅広剣を持っている。盾でブン殴るほうが好みのようだ。仰向けに倒れたスカウトへ、ニーナが馬乗りになるような体勢になったニーナは、突撃盾を使い、思い出したように幅広剣を使ってスカウトの顔面を叩き潰した。骨肉の砕ける音がしばらく響くと、スカウトの四肢はぴくりとも動かなくなった。

 ニーナは導式機関仕様重甲冑を返り血で染めてゆっくり立ち上がる。

「しっ、仕留めたか。しかし、噂以上に凄まじいな――」

 イスコ曹長の顔色が悪い。

「あっ、あれが、アウフシュナイダー辺境伯のご令嬢なのか?」

 イシドロ伍長が周辺にいた兵士に硬い声で訊いた。

「ええ、あれが評判の猪令嬢ですよ。スカウトを突撃盾で殴り殺したぞ――」

 中年の銃歩兵が顔を引きつらせた。

「でも、あのひと凄い美人なんだよなあ――」

「あれを嫁にもらうと色々と大変そうだろ?」

「お前の面で、あのご令嬢をモノにするつもりか。馬鹿も休み休みいえよな」

「いったな、テメエ、この野郎!」

 危なげない勝利に安心した兵士が言葉を交わしていると、脇道からまた一体、スカウトが飛び出した。

「まだ、いたの!」

 ニーナが二体目のスカウトの前に立ちはだかった。

 スカウトは身を低くし突っ込み宙を飛んだ。

 ニーナの頭上を飛び越えたのである。

「何を考えて――」

 振り返ったニーナが絶句した。二体目のスカウトが全速力で狙っているのは、背後で事態を見守っていたネスト・ポーター二百名余の集団だった。

「う、撃て、撃てぇえ!」

 ボルドウ特務少尉が垂れた頬を震わせたが、

「止めろ、撃つな撃つな、今撃つと、ネスト・ポーターどもに弾が当たるぞ!」

 横にいたイスコ曹長が制止した。

「奴はそれが狙いでネスト・ポーターほうへ――」

 イシドロ伍長が顔を歪めた。

「みんな、逃げて!」

 ニーナが叫んだ。そういう前に、ネスト・ポーターは怯えて散り散りに逃げ出している。逃げ惑う集団のなかでただ一人、背丈の小さい男がその場に佇んでいた。

 ニーナが顔を青くした。

 迫るスカウトに向けて、ヤマダが弓をつがえている。

 行く手を阻む小男を見とめたスカウトが、身を低くして疾走しながら、腰から二刀の大ナタを引き抜いた。

 スカウトは苛立っている。

 自分の身の丈半分にも満たないような毛のない猿がだ。

 我ら偉大なるウビ・チテムの民に対して、しかも、縫い針を飛ばすような貧弱な弓を持って、何ができるものか――。

 走るスカウトそう思っていた。

 ひどい侮辱を受けた気分だった。

 神話戦争エピック・ウォーの時代、彼らはドラゴニア大陸の絶対王者だった。

 走る勢いで不可視化迷彩服のフードが外れて、スカウトの兜と顔が露になった。兜に面当てはない。目玉が緑色に光り、横に避けた口からは槍の穂先のような牙が上に向かって二本突き出している。

 導式機関弓の照準器に、スカウトの顔を捉えたヤマダは恐怖していた。

 実際、ヤマダの照準が細かく震えている。

 一発目を外せば自分は必ず死ぬ――。

 ヤマダはそう思った。

 以前に一矢を外してヤマダは死にかけた。

 正中正射――。

 ヤマダは自分にいい聞かせて深呼吸をする。そして、照準のブレが止まる瞬間を辛抱強く待った。スカウトが一直腺に迫る。導式機関弓の機動音が「ヴゥン」と唸った。照準が制止した、その瞬間にヤマダは矢を放つ。

 異形殺しの矢がごうと飛ぶ。

 縫い針の矢など、兜が弾いてくれるとスカウトは考えていたのだが――。

「ヴォアォ!」

 スカウトが振るった大ナタは、ヤマダに当たらなかった。ヤマダの矢はスカウトの兜と頭蓋骨を貫き脳髄深くに達している。スカウトはヤマダへ辿りつく一歩手前で前のめりに崩れ落ちた。弓を手に佇むヤマダの三歩手前で路面へ落ちたスカウトは、しばらくの間、長い手足を動かして足掻いたが、やがて、その動きを止めた。

「要求通りか、それ以上の威力で助かった。導式具細工職人のトムさんは金にがめついけれど細工の腕は一流だ――」

 以前にヤマダが観察した通りだった。エイシェント・オーク・スカウトは迷彩服の下に、鎖帷子を着込んでいる。その上、ひとなら動けないような深い手傷を負わせても、この屈強な生き物は戦闘能力がしばらく落ちない。これを一撃で仕留めるには、心臓を破壊するか、頭部を――脳髄を破壊するしかない。エイシェント・オークを相手にする場合、大口径の銃――対物ライフルのような高い火力を持つ兵器を使うのが理想になる。しかし、カントレイア世界でそのような重火器を調達するのは難しい。そこで、ヤマダが大金を投じて製作したのが、異形の兜ごとその頭蓋を貫く威力を持ったこの導式機関弓だ。

 白い弾丸が――ニーナが突っ込んできて、

「大丈夫なの、ヤマさん!」

 ニーナはヤマダの両肩を掴んだ。導式鎧を装備したニーナは力の加減が非常に怪しい。ニーナの手を覆う装甲がヤマダの肩へ食い込んでいる。ヤマダは軽装で特別な防護服を着ていない。

「ん、みぎゃあっ! ニ、ニーナさん、肩がすごく痛いっす! くっ、砕けるう!」

 仰け反ったヤマダの顔が真っ赤になった。

「あっ、ごめん! ごめんね、ヤマさん、怪我はない?」

 ヤマダを傷物にし損ねたニーナは兜の面当てを引き上げて、心の底から心配している表情を見せた。

 ニーナに悪気はない。

 悪気がまったくないだけに性質が悪いともいえる。

「――はっ、はは。な、何とかなったっすね」

 本当に砕けてないか知らん――。

 ヤマダが恐る恐る両肩を回しながら苦笑いで応えた。そうこうしているうちに、ヤマダが仕留めたスカウトの周辺へ、兵士とネスト・ポーターが集まってきた。

「こっちも、死んだか?」

 スカウトの死体の傍らで膝をついたイスコ曹長である。

「これは――導式弓で飛ばした矢ですかね?」

 イシドロ伍長が訊いた。

「兜ごと頭蓋を貫いているな。大した威力だ。ちょうどいい、イシドロ伍長、ここで本営へ通信をしろ。戦況を確認したい」

 イスコ曹長が命令すると、イシドロ伍長が石床に通信機を下ろして、タッチ・パネルを叩いた。蓄積されていた伝令書が排紙口から吐き出される。

 イシドロ伍長が伝令書に目を通しながら、

「イスコ曹長、地下の本営は状況をおおむね把握したようです。現在、本営は大階段前基地南門で防衛線を構築中。本営部隊は異形種の反抗を上がり大階段前で食い止めている最中と――」

 イスコ曹長が訊いた。

「建設予定だった導式エレベーター周辺はどうなってるんだ?」

「ええと、地下八階層のエレベーター・キャンプ建設予定地を防衛していた部隊は、ほぼ全滅した模様。地下七階層で作業していた隊――ヴィクトル中隊とワーラット工兵中隊も、まだ消息が掴めません――あっ、訂正。ヴィクトル中隊の連絡は管理省うえにあったとのこと。ヴィクトル中隊は地下七階層を上がりエレベーター・キャンプに向かって撤退中――良かった、無事だったか――メルモ大将が率いるワーラット工兵中隊は導式通信機を携帯してないので連絡がつきません。うーん、ヴィクトル中隊に追随しているのでしょうかね?」

 イシドロ伍長が伝令書を見比べながら首を捻った。

「ちょっと待て、イシドロ伍長。エレベーターの縦穴を通ったエイシェント・オークが上層へダダ漏れになっているのに、王座本営はまだそっちへ何も手を回していないのか。その伝達はもうだいぶ前にしてあるよな?」

 イスコ曹長がイシドロ伍長を睨みつけた。

「ええ、連絡をしてありますが。王座本営は管理省うえからの増援を待つとだけですね――」

 イシドロ伍長が渋い表情になった。イシドロ伍長が作戦を決定しているわけでもないので、ここで上官から睨まれても困ってしまう。この彼はただの通信兵だ。

「地上からここへ来るのに、最短でも三~四時間かかるぞ、間に合うといいがな。大階段前基地からこちらへの救援は――いっても無理か――」

 イスコ曹長が呟いた。

「イスコ曹長、王座本営へ救援要請を伝えておきますか。大階段前基地に駐屯している部隊を出してくれるかも知れませんよ?」

 イシドロ伍長が提案した。

「――いや、イシドロ伍長、やめておこう。大階段前基地にいる本営が防衛線を構築しているなら時間の無駄だ。本営は完全に陣地内へ引き篭もる。スパルタンが七階層へ上がってきているなら、それが一番手堅いからな。奴らに効くのは大砲くらいだ――」

 イスコ曹長が無精髭の生えた顎を撫でた。

「救援は期待できないですかね?」

 イシドロ伍長が整理した伝令書を肩から下げていた鞄のなかへ突っ込んだ。

「俺たちは、こちらから基地へ逃げ込むしかないだろうな。王座の本営が生きているのを確認できただけでも良しだ。大階段前基地で粘っていれば、地上から来る部隊を使ってエイシェント・オークの軍勢を挟撃できる。この様子だと、エレベーターの縦穴を使って上層へ上がってきた奴らは、補給路を捨てた特攻部隊だ。地上からの増援が来るまで、ネスト制圧軍団おれたちが生きていれば、この戦争は勝ちになる」

 そう語るイスコ曹長の表情には少しの安堵があった。イスコ曹長が率いる(建前上の指揮官はグレゴール・ボルドウ特務少尉)隊と、ネスト・ポーターが今から向かう大階段前基地は、エイシェント・オークの軍勢を正面から相手にできる戦力を保持している上、物資も豊富で長期間の篭城戦にも耐え得る構造なのだ。その基地がまだ活動しているのを、イスコ曹長は確認した。

「きっと管理省うえも、そういう考えでしょうね」

 立ち上がったイシドロ伍長が導式通信機を背負った。

「――どこも正念場だ。救援要請を出したところで、本営が俺たちにかまっている余裕はないだろう。追撃してくる敵がいないのを見ると、隊長が――ギルベルト少尉が後方からくる敵を食い止めるのに成功している筈だ。だから、安全なうちに大階段前基地に辿りつくのを優先させるべきだと俺は思う。どうだ、みんな?」

 イスコ曹長が周辺に集まっていた兵士と予備役兵に同意を求めた。

 無言で兵士たちは頷いた。

「――そうですよね」

 代表してイシドロ伍長が発言した。

 大階段前基地に退避。

 この他の選択肢があると彼らに思えない。兵士を取り囲むように佇むネスト・ポーターも異を唱えるものはいない。できれば、すぐ地上へ帰りたかったが、そこまでの道のりは、おそらくエイシェント・オークが封鎖をしている。

「では、大階段前基地まで移動を続――いや、そこのネスト・ポーター、大した弓の腕前だな」

 全体へ号令しようとしたイスコ曹長がヤマダへ顔を向けた。

 ヤマダは来た道を――ツクシたちが戦っている筈の大通路奥を眺めながら、

「いや、この弓のお陰っすよ。それより、兵隊さん、先を急ぎましょう」

「ああ、そうだな。俺はイスコ・マルチェナ。階級は曹長だ。お前は?」

 イスコ曹長が笑みを見せた。

 こわい無精髭を頬や口周りに生やした男くさい中年男の笑顔だ。

 この男には戦士の貫禄があった。

「じっ、自分は、その――山田孝太郎というものっす、イスコ曹長殿」

 堂々としたイスコ曹長の態度に動揺したのだろうか。

 ヤマダは視線をウロウロさせた。

「そうか、ヤマダ。お前の弓でみんなが助かったぞ。感謝する――よし、ネスト・ポーターども、大階段前基地へ進め、あと少しの辛抱だ!」

 イスコ曹長が声を張り上げた。

「あの兵隊さんのいう通りだ。助かったべ、ヤマさん」

 ジョナタンがヤマダの近くへ寄っていった。

「凄いな、ヤマさんの弓はよゥ、それって導式弓ってやつか!」

 ペーターがヤマダの導式機関弓を見つめた。

「間違いなく命の恩人だ。本当にありがとな、ヤマさん」

 ラモンが頷きながら歩きだした。

「いやいや、そんな、大したことはしてないっすから――」

 頬を赤らめたヤマダは、まだその場に佇んで来た道を見つめていた。

「どうかしたの、ヤマさん?」

 ニーナが声をかけた。

「後ろが気になるっすよ。まだ、ツクシさんたちが見えないな――」

「ツクシ、大丈夫かな。銃声は小さく聞こえるけれど――」

「ニーナさん、平気っす。平気っすよ。もし、ツクシさんたちに何かあったら、後ろから奴らが――エイシェント・オークが追って来る筈ですし」

「ヤマさん、やめてよ、そういう言い方――」

 ニーナが表情を曇らせた。

「あっ、すんません、自分、いつもいつも無神経で――」

 頭を下げて、ヤマダが顔をしかめた。

「ヤマさん、すぐに頭を下げて謝る癖よくないわ。とにかく歩きましょ。集団から離れると危険よ。スカウトの発見は軍用犬の鼻が頼りだし――」

 ニーナが歩きだした。

「あっ、そうっすね、すんません」

 謝りながら、ヤマダがニーナの後を追った。

「ほら、ヤマさん、また謝ってる」

 ニーナが笑った。

 テトが先行した集団に追いついたヤマダをじっと見つめている。

「ん、テトちゃん、どうかしたの?」

 ヤマダが訊いた。

「『ちゃん』は止めろ、ヤマ」

 テトの返事である。

「――テトさん?」

 ヤマダはフラットな表情だ。普段からあまり表情の変わらない男なので、発言が冗談なのか本気なのか、よくわからないときがある。

「『さん』もいらないよ。ヤマ、凄いなと思って。見直した」

 テトは無表情なヤマダを睨むように見つめた。

「ああ、この弓のこと?」

 ヤマダが自分の背にある導式機関弓を見やった。

「うん」

 頷いたテトもヤマダの弓へ視線を移した。

「この弓の元の持ち主――チムールさんは、もっと、ずっと凄い腕前だったよ。自分なんてとても及ばないから――」

 ヤマダは屍鬼の頭を次々と射抜くチムールの弓さばきを思い出している。

「ヤマさん、謙遜しすぎもダメ。見事だったわ」

 ニーナが褒めると、

「へっへっ。癖になってるっすね。他人ひとから褒められると隠れたくなるっす――」

 ヤマダが|頭の鹿撃ち帽子ディア・ストーカーへ手をやって、クシャクシャとそれを丸めた。

「威張るよりずっといいよ」

 テトが笑った。靴墨で顔を汚して少年を装っているテトは、いつも口元を緊張させている、あまり笑わない女の子なのだが、これが頬をゆるめると実に魅力的な笑顔になる。若い女子の涼し気な笑顔だ。ヤマダは、へえ、テトちゃんは本当に美少女なんだなと表情を変えずに感心をした。百戦錬磨の娼婦に夜な夜な骨抜きにされている今のヤマダは、テトに対してそれ以上の感情を抱くことはなかった。

 ヤマダは女性に対する好みが渋いようである。

「――そうね、テトのいうことも一理あるわ」

 ニーナはテトの微笑みを無駄にしたくなかったので妥協した。

「いやいや、僕なんかより、リカルドさんがいれば、もっと心強かったんすけどね」

 ヤマダがニーナの横顔を見やった。

「私が心配だわ。お父様は年齢も年齢だし――」

 ニーナはうつむいて笑わずに応えた。

「あの、ニーナさん」

 ヤマダが呼びかけた。

「――ん?」

 ニーナが顔を上げた。

「――ううん、ツクシさん、すごく心配してたっすよ」

 ヤマダは自分がいっていいものかなと迷ったのだが結局は伝えた。

「お父様の病気のこと?」

 ニーナがヤマダをじっと見つめた。

「そうっす」

 ヤマダが深く頷いた。

「――私には何もいってくれない男性ひとだから」

 ニーナが瞳を伏せた。

「ツ、ツクシさんはそういう男っす。『沈黙はきん、雄弁は銀』って。今はもう死語かもしれないっすけどね――」

 ツクシに非がある。

 ヤマダにもそう思えた。

 だが、それでもヤマダはツクシを擁護した。

「沈黙は金、ね。それはヤマさんの故郷の――ニホンの格言なの?」

 ニーナは小さな溜息と一緒に訊いた。

「エライ学者さんの言葉っすよ。思想家かな。カーライルってひとっすね」

 ヤマダがいった。ヤマダは日本で名の通った大学を卒業したのでそれなりの学がある。

 ただ、学校を出て最初の就職で大失敗してしまったが――。

「――死語? 今は違うの?」

 ニーナが小首を傾げた。

「価値観は時代と一緒に移り変わるっす。不変はこの世界に存在しない――」

 ヤマダがハードボイルドな表情を見せた。

「そうよね、時代と一緒に変われないのは、本人の要領が悪いのよ――お父様もツクシも不器用だから損をするの――」

 ニーナが小さく笑った。

「でも、格好悪いっすよ」

 ヤマダは噛み締めるようにいった。

「要領が悪いのが?」

 ニーナが訊いた。

「いや、風向きに合わせて方向を変える風見鶏みたいな生き方っす。これは、格好が悪い男の生き方っす」

 ヤマダが珍しく断定的な物言いをした。

「でも、変化する時勢に迎合しないと本人が損をするだけよ」

 ニーナは柔らかい口調で反論した。

「――損でも、男はそれでいいんす」

 ヤマダが唸るように応えた。

「損をするのは、よくないわよ」

 ニーナは赤い唇に笑みを浮かせた。

「――よくなくても、それで、いいんす」

 ヤマダが呟くようにいった。

 ヤマダはニーナを説き伏せたいわけではない。

 ツクシの頑迷さを否定したくないのだ。

 ヤマダは思う。

 あの生き方は、きっと、ものすごく、くたびれる。

 誰にでもは、できない――。

「ニホンから来たサムライ・ナイトって、みんな石頭なのね――」

 ニーナがわざとらしく肩を竦めた。

「じっ、自分は違うっすよ、サムライ・ナイトじゃあないっす!」

 きっと顔を上げたヤマダが語気を強めた。

「あら、そうなの?」

 ニーナが必死になったヤマダを見て笑った。

「そうっす! それはそうと基地まで後一時間ってとこっすかね――」

 焦ったヤマダが話題を変えた。

「かな――」

 ニーナが笑顔を消した。

「ヤマさん、ちょっといいべか?」

 ヤマダの横を歩いていたジョナタンが声をかけた。

「はい? 何すか、ジョナタンさん?」

 ヤマダが顔を向けた。

「大階段前基地は本当に安全なんだべか? もうそうとう近くまで来た筈だべ。それでも異形種がウロウロしてるみたいだけんども――」

 脇道をジョナタンが不安そうに見やった。

「――今は、安全だと信じて歩くしかないっすね」

 少し考えたあとで、ヤマダがニヒルな返事をした。ネスト・ポーターと護衛の部隊が作る隊列は遠くに銃声が聞こえる大通路を北へ進み続けた。

 このまま滞りなく歩けば一時間で大階段前基地に到着する。

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