十五節 女王の行進曲(参)

 決闘の終焉を見届けたツクシたちのいるほうだ。

 乱れた髪を手で整えながら、フロゥラがしゃなりしゃなりと歩み寄ってくる。その途中でフロゥラの紐編み上げサンダルの細くて高いヒールが折れた。こういう形状のものは戦闘に向いてない。

「――くぬっ!」

 女王様は豪快にすっ転んだ。尻餅をついて脚を大きく開いているので、スカートの下にあるお召し物が見える。大通路の壁際に並び女王様のお召し物を眺めていた下僕たちが、少し間を空けたあとで、「ああ、フロゥラ様!」と、異口同音に叫んで駆け寄った。

「――このピン・ヒールのサンダル、気に入っていたのだが。ええい、おぬしら、やっかましい! どこも怪我なんぞしとらん! ああ、買ったばかりのワンピも裾が破けてるし! あっ、私の帽子はどこへいった、あれもお気に入り!」

 次々差し出される下僕の手を振り払いながら、キャンキャン喚く女王様は、たいそうご立腹の様子である。

 ツクシは適度にむっちり脂肪のついたふとももの隙間から見えるフロゥラの下着を真っ正面から睨んで唸った。

「へえ、パンティはやはり白かよ。薄手の服だと色が透けるからな。まあ、白は妥当なセンだが、見ているほうは少し期待外れだぜ――!」

 恥じらいも迷いも一切ない。

 その眼光はぬめぬめ非常に鋭いものだ。

「ツクシ、あのよォ、おめェはよォ――」

 ゴロウが節操のないツクシの横顔を呆れて眺めている。

 透けたレース生地が表面積をほとんど占拠する、扇情的な女性用下着の色と形状を黒ぶち眼鏡のレンズへ焼きつけたあと、

「――ぅふう! さて、どうしますか?」

 ヤマダがいった。

「これはいい目の保養になった」

 ゴードン兵長が苦く笑いながら腰の水筒を手にとった。

「あははっ!」

 横でロッシ一等兵が笑った。

「良し、帰るか」

 ツクシも口角を歪めた。

「――あ、おめェら、ちょっと待ってろ!」

 ゴロウがエミールの亡骸へ歩み寄った。エミールの死相デスマスクは肉が削ぎとられ、その下にある白い骨が露出していた。眼球もまぶたも消えた眼窩は己の魂が堕ちた冥府の闇と同じ色で満ちている。堕天の骨骸はボロ切れのようだった。引き裂かれた鎧の奥からエミール本人の骨骸が見える。

 エミール・エウタナシオは死んだ。

 それでも、エミールの死相は何かを叫んでいた。死して尚、エミールは聖十字剣――野望を握り締め、死して尚、エミールは野望を叫んでいる。

 ゴロウは片膝をついて己の心臓の上に右の手を置いた。

 黙祷――。

「――律儀だな」

 ツクシが戻ってきたゴロウを出迎えた。

「ああよォ、昔のエミールは、あそこまで狂った奴じゃなかった。確かに、エミールは畜生だったかも知れねえ。だが、不運な巡り合せだってある。エミールもカレラも、まさか、こんな場所で、あんな立場で――」

 ゴロウは途中で言葉を切って苦笑いを浮かべた。

 ゴロウは兄と妹をこの場へ導いた運命の冷笑的な態度に心底から呆れている――。

「結局、何もできなかったっすね――」

 ヤマダが破壊された蒸気機関車と散らばる死体を見やった。その周辺でフロゥラが下僕をきぃきぃ急かして戦闘中に紛失した帽子――白い女性用鍔広帽子キャベリンを探させている。

「ま、ヤマさんはつれ戻せたよな」

 ツクシが自分の言葉に頷いて見せた。

「ああよォ、ヤマは無事だったなァ。ゴードンとロッシもだ。それでいいか――」

 ゴロウが三人を見やった。

「すんません、ほんと、迷惑をかけて――」

 苦笑いのヤマダが頭を下げた。

「ああ、助かった」

 ゴードン兵長が小さく笑った。

「ほんと、助かったっス」

 ロッシ一等兵は屈託のない若い笑顔を見せた。

「じゃあ改めてだ。帰ろうぜ」

 ツクシが外套の裾をひるがえして踵を巡らせたところで、

「――そこのおぬしらは、ちょっと待て」

 永遠の夜露に湿る声が男たちの背にかかった。

「――あぁん?」

 ツクシが不機嫌な返事と一緒に振り向くと、フロゥラが接近していた。歩幅の異常に長い、体重を失念したような、吸血鬼の歩みである。危機を察したツクシの右手が魔刀の柄へかかったが――。

「――こいつ、俺の魔合マアイを外しやがった!」

 ツクシの顔が歪んだ。フロゥラの放出するひずみ効果オーラが、ツクシの遠近感を狂わせていた。殺合コロシアイに持ち込む好機――出現座標をツクシへ掴ませることなく、フロゥラは距離を一気に縮める。そのまま、ツクシの懐の深くに侵入したフロゥラは青白い手を伸ばして、不機嫌な顔の両頬をはっしと挟んだ。ツクシは目の前の妖しい美貌を刀の柄に右手を置いたまま睨みつけた。

 フロゥラは瞳を夜霧でけぶらせつつ、ツクシの不機嫌な顔を見つめている――。

「おぬし、よい目をしているな。冥府で悶える悪鬼のような――」

 フロゥラが自分の唇をちろりと舐めた。

 いっていることがよくわからない。

 よくわからないが、フロゥラはツクシを褒め称えたようだ。

「――お前、何をいってやがる」

 ツクシは額に油汗を滲ませている。

「おぬしの名を何という?」

 フロゥラはツクシの頬を撫でた。

 ツクシの頬にはフロゥラの滑らかな肌の質感が。

 フロゥラの指先には明け方になって伸び始めたツクシの髭の感触が伝わった。

「――お前から先に名乗れ」

 ツクシは目つき鋭く警戒心を残したままだ。

「フロゥラ・ラックス・ヴァージニア。フロゥラでいいぞ」

 フロゥラが微笑みを浮かべてその美貌から色と艶をこぼした。

「俺は九条尽だ。ツクシでいいぜ」

 ここでようやく警戒心を解いたツクシは魔刀の柄から右手を外した。

「ツクシ――」

 呼びかけたフロゥラは、ツクシの顔から手を離す気がないようである。

 結構な腕力でツクシの顔面は固定されている。

「あぁん?」

 ツクシは不機嫌な返事をした。

「私の旦那になれ」

 プロポーズである。

 煩わしそうにしているツクシの不機嫌な顔を見つめながら、フロゥラは自信たっぷりに求婚した。

「唐突に何をいっているんだ、お前は――」

 こいつ、もしかして馬鹿なのかな――。

 眉根を寄せたツクシが束なった黒いまつげの下にあるフロゥラの瞳を覗き込んだ。

「その悪い目つき顔つき。何もかも死に絶えたような不機嫌な態度。黒いマントもよく似合うだろう。ツクシは魔の眷属になるべくして生まれた男前だ、運命を感じる――」

 妖しい美貌が蕩けていった。

 ツクシはおやと怪訝な顔になった。

 夜空のような色合いの瞳の奥で、何かの文字列が紫の炎を散らしつつ、揺らぎ、歪み、捻れて、回転している――。

「まずいぞォ――おい、ツクシ、女王様の目を絶対に見るな!」

 ゴロウの咆哮である。

「――あ?」

 ツクシがダミ声が飛んできた方向を見やった。ゴロウもヤマダもゴードン兵長もロッシ一等兵もかなり遠いところから、ツクシとフロゥラを眺めている。

 腰が引けているようである。

「ツクシ、その目を見るな、誘惑されるぞ!」

 ゴロウがまた怒鳴った。

「あぁ、俺は誘惑されているみたいだな――」

 ツクシはフロゥラの妖しい美貌へ視線を戻した。

 あのむさ苦しい赤髭面を眺めているよりずっとマシだろ――。

 ツクシはそう考えたのだ。

「目を見るなっつってんだろ、馬鹿なのか、おめェは! 女王様の目にあるのは魔導式だ! 他人を意のままに操る超危ねえ魔導式!」

 怒鳴るゴロウの顔が真っ赤になった。

「へえ、そうなのかよ、くるくる回っているだけに見えるがな――」

 ツクシは不機嫌な顔で平然とフロゥラの瞳で完成した魔導式陣を眺めている。

「――うん? かからんな、使う術式が軽すぎたのか――しかし、どういうことだ。おぬしは導式の担い手には見えんが、何故、私の魔を払える?」

 フロゥラは眉を寄せて瞳から魔導の紫炎を消した。

「ククッ。年増女の催眠術なんて、この俺にかかるわけがねェだろ。俺は自分の年齢プラスマイナス十年までの女にしか手をつけないってはっきり決めてるんだ。けじめをつけておかないと、キリがないからな。下はシャオシンで足切りだぜ」

 ツクシは持論を展開しているが、実際に魔を払っているのは、ツクシの外套――インバネス・コート・飛竜が放出する神獣の効果オーラである。

「――えと、ツクシさんって今、三十四歳じゃなかったっすか?」

 そう訊いたのは、危険がないと判断して、ツクシとフロゥラへ歩み寄ってきたヤマダである。

「ああ、来年で三十五だ。誕生日は二月だぜ」

 頷いたツクシは遅生まれのようである。

「ツクシ、シャオシンは十四歳だぞ。ニーナだって十九歳だぜ」

 ゴロウもフロゥラを警戒しながら近寄ってきた。

「そんなの知ってる」

 ツクシが頷いた。

「ツクシ、三十四から十を引いたら二十四歳が下限だろ?」

「それ計算が合わないっスよ、ツクシさん」

 ゴードン兵長とロッシ一等兵が計算間違いを指摘した。

 ツクシは視線を落として少し考えたあと、

「――下限は、俺の年齢マイナス二十歳だよな」

「何がいいてえんだ、おめェはよォ!」

 ゴロウが怒鳴った。

「二千歳なんだよな、フロゥラ?」

 ツクシがフロゥラを見やった。

「正確には数えていないが、そのくらいは生きた、かな――」

 真横を向いて応えた吸血鬼の女王様は、年齢を数えるのが面倒くさくなるほど長く生きてきたようだ。

 もしかすると年齢をもう数えたくないのかも知れない。

「俺は三十四歳で、フロゥラは二千歳。だから、俺から見ると、これは婆さんみたいなものだ。そう考えると萎えないか?」

 ツクシは周囲へ同意を求めた。

 ゴロウたちの表情が凍りついた。

 この場の空気も凍りついた――。

「はうっ、うん。ば、ば、ば、婆さんとくるか――」

 フロゥラが深くうつむいて、声と全身を震わせながら笑うと、漆黒の長髪がゆらゆらと舞い上がって、その背にある空間が大きく揺らぎ蝙蝠の翼を形作った。

 吸血鬼の女王が超強力な魔力の胎動を用いて全力で放出するひずみ効果オーラである。

「あばばっ! ツクシ、発言をすぐ訂正しろ!」

 ゴロウの視界が一瞬で反転した。

「あっ、あぁあぁあっ!」

 ヤマダは振り子のように揺れている。

「うぅ、おぉお――」

 空間酔いしたゴードン兵長が仰向けに引っくり返った。

「おぅええ、すんげえ気持ち悪いっス、これ――」

 路面に両手をついたロッシ一等兵は吐きそうだ。

「ぬぐおっ――超級精神変換ウーバー・サイコ・コンヴァージョン! 導式陣・退魔の領域を即時機動!」

 ゴロウが自身の身体へ導式を張り巡らせた。周辺の大気が導式と魔導式の反作用で弾け飛び黄金の導式が散り落ちる。顔を真っ赤にしたゴロウは玉のような汗を流していた。この強引な導式陣の起動方法は身体へかかる負荷がたいへんに大きいのだ。

 意識をひずみ効果オーラから保護したゴロウはフロゥラを指差して、

「ツクシ、み、見た目は若いだろ、これはビッチビチのお姉さんだろ、どう見てもよォ!」

 うつむいてぶるぶる震えていたフロゥラがふっと顔を上げた。

 女王様はお微笑みあそばされている。

 フロゥラは大きく頷いて歪の効果オーラを停止した。

「くっああ――そ、そうっすよね、ゴロウさん! ギャ、ギャルっすよ、ギャルっす!」

 ヤマダが同意した。そういってもヤマダはぐるんぐるん回転するネストの天井を見上げているのでフロゥラを見ていない。歪の効果に耐え切れなかったヤマダは路面で大の字になっている。

 力なく横たわって身体を丸めていたゴードン兵長が、

「ああ、そうだ、ヤマ、その通りだな。で、そのギャルってのは何だ?」

 カントレイア世界では「ギャル」に相当する言葉がないらしい。

「ババ、バ、ババアはないっス、ないっス、ないっス!」

 錯乱したロッシ一等兵が路面を這いながら泣き喚いている。

「うん。お、おぬしらは、よ、よくわかっているようだな――」

 フロゥラの声はまだ震えていた。

「何を遊んでいるんだ、お前ら。もういいから帰ろうぜ」

 ツクシは憮然とひっくり返って悶絶する面々を眺めていた。この男だけは外套が持つ神獣の効果オーラで、フロゥラが放出した呪いの渦から辛くも逃れている。

「ツクシ、さっきの旦那というのは戯れだ。ツクシ、戯れだぞ――」

 黒髪を乱したままのフロゥラがツクシを見つめた。

「ああ、そうかよ。じゃあ、またな」

 ツクシが背を向けた。

 うつむいたフロゥラがまた震えだした。

 ゴロウ、ヤマダ、ゴードン兵長、ロッシ一等兵はフロゥラから慌てて距離を取った。吸血鬼の下僕の集団も元々悪い顔色をさらに悪くして遠巻きに彼らの女王様を見守っている。ポレットも一緒だ。

 この場で女王様を恐れていないのはツクシだけのようである。

「――ツクシ、待てい!」

 フロゥラが鋭く呼び止めた。

 その右のこめかみに青筋の稲妻がズドンと走っている。

「何だよ、もう――」

 ツクシが背中越しに顔を振り向けた。

 フロゥラは間を置いて呼吸を整えたあと、

「――私はおぬしらに訊きたいことがある。今からついて来い」

「こっちが訊きたいことは何もねェ。もう帰る。眠いんだよ俺は――」

 ツクシの即答である。

「くっ! あ、歩いてついて来いとはいわん。輪廻蛇環ウロボロス号へ乗れ。私の列車のことだ」

 きいっ、と一旦は見せた牙を引っ込めたフロゥラが顎を斜めにしゃくって促した。

「――いやだ」

 全力で不機嫌な声である。

 ツクシが拒否した。

 視線を斜めに落としたフロゥラが、

「もう、みんなここで殺してやろうかな――」

 女王様は自分のわがままを暴力で押し通す主義のようである。

「あ? 今何云いまなんつった手前てめえ?」

 ツクシが女王様へガンを飛ばした。

 この男は売られた喧嘩を全て買い取る主義だ。

 ゴロウは対峙するツクシとフロゥラを遠巻きに眺めながら、

「ああよォ、ツクシ。だから目を合わせないほうがいいって――」

「まさか、あの虫で自分らも――ああ、もう、お終いっすよ、これまでっすよ!」

 ヤマダが頭にのせた鹿撃ち帽子ディア・ストーカーを両手でクシャクシャ丸めた。

「俺たちは彼女にお呼ばれされたようだが――」

 ゴードン兵長はフロゥラの横顔を見つめていった。年齢不詳の人外だがフロゥラは間違いなく最高級の美人ではある。

「逃げると逆にやばそうっスね――」

 まだ残る吐き気を堪えながらロッシ一等兵が呟いた。

 ツクシは蒸気機関車――輪廻蛇環ウロボロス号へ視線を送って、

「大体、列車に乗れっていわれてもな。あの蒸気機関車は、メチャメチャに壊れ――」

 そこで、ツクシは絶句した。

「な、治って『いる』なァ――」

 完全に破壊された筈の列車を見やったゴロウが目を丸くした。誰の手も借りず、破壊された輪廻蛇環ウロボロス号が修復されてゆく。映像を逆回しにしているような光景だった。

「な、なんすか、これ――」

 ヤマダが顔を引きつらせた。新品同様に修復された蒸気機関車の客室へ、大通路で倒れたものを下僕たちが運び入れている。

「何だ、これは、何が起こった?」

 ゴードン兵長が絶句した。

「そんな、馬鹿な!」

 ロッシ一等兵が叫んだ。

「――ふっふっふっ。その輪廻蛇環ウロボロス号は世界記憶媒体アカシック・レコードへ干渉して再生中の存在なのだ。だから、壊してもすぐ元に戻る。まあ、いってもわかるまい。今では失われた冥の英知――死霊術ネクロマンシーだよ。どうだ、ツクシ、驚いたか。おぬしら、とにかくあれに乗れ。茶でも飲みながらゆっくりと話をしよう」

 フロゥラが説明しているうちに、輪廻蛇環号の煙突から黒煙が上がった。

「おい、女王様、酒はあるのか?」

 ツクシが運転席へ視線をやると、そこに機関士も機関助手もちゃんといる。

「うん、何でもあるぞ。ツクシはどんな酒が好みだ?」

 ツクシの横にぎこちない歩みでフロゥラが身を寄せた。

「ああ、何でもいい。うっかり水筒を忘れてきちまってな。喉が乾いたぜ」

 ツクシが横に接近した妖しい美貌へ視線を送った。

「うん、そうかそうか。好きなだけ飲ませてやろう。では、ツクシ、私に腕を貸せ。サンダルの踵が折れて歩き辛い。客車まで私をエスコートするのだ」

 ツクシの腕を取ったフロゥラがぐいぐい身を寄せた。大きなおっぱいである。女王様はツクシへおっぱいをえいえいと押しつけている。黒革鎧を着込んだツクシには感触らしい感触が伝わらない。なので、ツクシはたいして嬉しくない。それでも、ツクシはふにふに形を変えるフロゥラの豊満な胸や胸の谷間をしばらく眺めた。

 ツクシは眺めているのに飽きたところで下僕とポレットを見やって、

「そんなの手下にやってもらえよ」

「おぬしが良い、未来の旦那よ」

 フロゥラの瞳で、また魔導式陣が機動している。

「歩けねェなら、あの羽で飛べ、オバハン」

 懲りない奴だな――。

 呆れながら、ツクシが暴言を吐いた。

 おかしな真似をするんじゃあねェよ、というけん制でもある。

「くうっ、オバ! ツ、ツクシ、あ、あれは飛べるわけではないのだ。ひ、ひ、歪の効果オーラで一時的に重力を――」

 フロゥラはこめかみに走る青筋をビキビキさせながら、ツクシの横顔を凝視して歪の効果の解説を始めた。

「俺は疲れてるんだ。難しい話はなしにしてくれよな。興味もねェし」

 疲労がなくても難しい話は常にお断りなツクシである。

「――ビールもジンもラムもグラッパも倭国の酒もある。最近、ウイシュキというのもバー・キャビネットに加えたかな――」

 屈辱に肩を震わせつつ、うつむいたフロゥラが小さな声でいった。

「――ん、酒の奢りがあるなら、腕の一本くらいは貸してやる」

 頷いたツクシが右の腕をフロゥラへ差し出して、

「ジンか。ジン・トニックもいいな。すっきりしたものが飲みたい。そういう気分だ――トニック・ウォーターはあるのか?」

「うん、あるぞ、あるぞ、南方から取り寄せておるのだ」

 フロゥラがツクシの右腕にまとわりついて笑顔を見せた。

 ツクシは開いた唇から覗く吸血鬼の牙を見やって、

「牙を出すのはいいが、あの虫だけは出すなよな。あんな死に方は勘弁だぜ」

「心配するな。私が出す気にならなければ出てこん。あやつらは私のいうことなら、よく聞くよ」

 フロゥラは笑顔を大きくした。

「へえ、虫もいうことを聞くのか。さすがは女王様だよな――」

 ツクシは女王様の体重を半分請け負って歩きながらボヤいた。

「そうだ、ツクシ、私は女王なのだ。オバハンではないぞ?」

 フロゥラはツクシの横顔に視線を流して念を押した。

 ツクシはフロゥラの体重を支えながら。

 フロゥラはツクシへ体重を預けながら。

 クソのように不機嫌な中年男が吸血鬼の女王を客車へ向かってエスコートした。いちゃいちゃベタベタとしながら輪廻蛇環ウロボロス号の客車へ乗り込むツクシとフロゥラを、ゴロウたちは黙って見送ろうとした。だがしかし、客車のタラップを上がる途中にキッと振り返ったフロゥラが、

「おぬしらも、さっさと乗らんか!」

 女王様のこめかみに青筋の落雷がある。

 恫喝されて仕方なくゴロウたちも客車へ向かった。

 うつむいて歩く彼らの足取りは総じて重いものだった。

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