五節 朝陽のなかに消えた聖女(弐)

「――メイベル村の病人を治療していたのが、そのセシリアっていう吸血鬼の女だったのか?」

 ツクシがゴロウの髭面を横目で見やった。

「あァ――」

 生返事のゴロウは遠いどこかを見つめていた。

 ネストの道に満ちようとした静寂を、

「へえ、その吸血鬼の女も、チチンプイプイを使っていたのか?」

 ツクシの低い声が追い返した。

「いや、セシリアは病人の血を吸うんだ」

「血を? 瀉血療法になるのか?」

「ツクシ、血を抜くだけで病気や怪我は治らねえよ。セシリアはな、病人を一時的な吸血鬼にしていたんだ。吸血鬼は病気への抵抗力も肉体の回復力も、ヒト族より遥かに強いからな。それで、たいていの病気や怪我が治っちまう」

「それはかなり便利じゃねェか。しかし、それだと村人は全員が吸血鬼になるよな?」

 ツクシの眉根が寄った。

「ツクシ、だから一時的なんだよ。セシリアのさじ加減でどうにでもなるんだ。俺も最初は信じられなかった。でもそれが、下僕しもべと血族の違いなんだな。ヒト族を血族――吸血鬼へ変異体化ミューテーションさせるには、何度も何度も同じ相手を吸血して、その体内に魔導を定着させる必要がある。これを『魔導の胎動』っていうんだ。下僕の間に吸血を止めれば、そいつはすぐヒト族に戻る。二、三日経てば、あっさりとだぜ。この世界を巡る運命潮流マナ・ベクトル原始アルファかつ無限オメガの絶対的な奇跡だ。時間がかかることはあるが、胎動から離れた魔導のひずみは必ず補正される」

 吸血鬼の説明をするゴロウを、ツクシはじっと見つめていた。

 ツクシは、三呼吸分ほど間を置いたあとで、

「なるほど、セシリアは吸血鬼の医者なんだな!」

 たぶん、ツクシはゴロウの説明をほとんど理解できていない。

「ツクシよォ、だからイシャじゃあ――ああいや、イシャ、医者、『医術を扱う者』か。そうなると、セシリアは医者だったのかなァ。実際、セシリアが使ったのは吸血治癒だけじゃねえ。薬物の知識も専門家以上だったぜ。珍しい薬草の群生地や採集方法、薬草の成分を抽出する技術――セシリアは持っていた知識のすべてを、当時はまだまだ青二才だった俺へ教えてくれた。あいつ、長く生きてたからな。知識の量がヒト族とは比べ物にならねえんだ。錬金術の道具だって、地下にしっかりと揃えてあったしな。俺が何か訊くと、『あら、貴方、こんなことも知らないの?』なんてなァ、よく驚いた顔をされたぜ。俺だって一応は専門家プロだからよ、あれは凹んだなァ――ま、セシリアに悪気はなかったんだろうがなァ――セシリアは八百年以上、生きたといっていたぜ。ツクシ、信じられるか?」

「八百年、その間ずっと独りでかよ。そのいい様じゃあ、セシリアってのは相当いい女だったんだろ。男は――吸血鬼むしはついていなかったのか?」

 ツクシは口角を歪めて促した。

「セシリアは独り身だったぜ。セシリア――セシリア・ノックス・メイベルホリックは『ひずみ』と一緒に長く生きて、魔導の胎動が強力になった吸血鬼の個体――吸血貴族ヴァンパイア・ノーブルだったが、自分の血族を作っていなかった。過去にはいたらしいが、それを訊くのは野暮だと思ったからよ、俺もよく知らねえや。とにかく、セシリアはメイベル村の病人どもを相手に吸血をしながら、メイベルホリック館――旧領主館の廃墟で暮らしてたんだ。八百年近く、ずっと独りでな――」

「孤独だな」

 ツクシが呟いた。

「孤独といっても、セシリアは夜の往診ついでに、ふらふら出歩いていたがな」

 笑ったゴロウが、

「セシリアはメイベルの村人たちから尊敬されていた。まァ、それは不思議じゃねェ。セシリアは一流の布教師――いや、あいつの場合は名医だったが正しいな。俺がセシリアと出会ったのは、村に一軒だけある酒場からの帰り道だった。月がやけに大きくて明るい晩だ。魔の眷属が歩いたあと――ひずみが見えた。気になった俺は跡を追った。その当時、メイベル村で俺の仕事はないも同然だったからな。暇潰しのついで、酒の勢いで、もうヤケクソで、ってなモンだったぜ。歪は村はずれの森へ続いていた。月明かりを頼りに森の小路を歩いていったら、大昔に廃棄されたらしい、でっかい館が何軒も突っ立っていた。そのうちのひとつに、セシリアは一人で住んでいた――」

 ゴロウは自分が語る言葉を自分で聞き入っているような口振りだった。

「そのセシリアはまだ生きてるのか?」

 そう訊きながら、おそらくは、とツクシは考えた。

「――死んだ。突き当たりは左だ」

 ゴロウの返答を聞いて、だよな、とツクシは思う。ツクシとゴロウがT字路を左に折れると、視線の先は、また長い直線の小路が続いていた。

 遠い突き当たりの壁面に、やはり頼りない導式灯の明かりがひとつだけ見える。

 布教師アルケミスト――ゴロウ・ギラマン。

 吸血貴族の淑女ヴァンパイア・ノーブル・レディ――セシリア・ノックス・メイベルホリック。

 この二人の物語には続きがある――。


 §


「ホォウ、ホォウ――」

 ゴロウは鳴き声のほうへ目を向けた。黒い枝をうねうねと伸ばした樹木が辺り一面に生い茂って、テラスを囲む闇を濃くしている。

 ゴロウの目に鳴き声の主は見当たらない。

「あれ、何の鳴き声だ?」

 ゴロウはティー・カップを注意深く卓上のソーサへ置いたが、やはり食器はチリンと音を鳴らした。

「あの声は夜に鳴く鳥よ」

 ゴロウの対面の席にいる淑女は、淡紫色の唇に寄せたカップに、左手で持ったソーサを添えている。

「夜に鳴く鳥なんてのがいるのか?」

 ゴロウが頬に手をやった。

「ええ、すぐそばにいるわ」

 含み笑いで応えた淑女は、ティー・カップから立ち上る紅茶の香りを、夜に冷やされた大気と一緒に吸い込んだ。

「そんな鳥、いるのか――」

 ゴロウはもう一度、館を囲む森へ視線を送ったが、見えたのは濃い闇と、そこに浮かぶ黄色い月だけだ。

「お茶のお味は、どうかしら?」

 淑女の唇の間で白い牙が光った。

「あっ、ああ、高級なモンの味はよくわからなくてな。お茶――紅茶なんて滅多に飲まないから――」

 ゴロウは強張った顔でティー・カップを見つめた。ゴロウの握力で握ると割れてしまいそうな繊細なティー・カップだ。

「あら、華のタラリオン王都がご出身なのに?」

 牙のある淑女が笑顔を大きくした。

「おっ、王都といっても、俺の育ったのは女衒――いや、ああいや、その、とにかく下街生まれの下街育ちなんだ、庶民なんだよ、俺は!」

 ゴロウは胸元の紐ネクタイに手をやってそれをゆるめた。

 牙のある淑女はカップとソーサを卓へ置いて、

「確かに、ゴロウはそんな感じ」

「あんだよォ、それ――」

 睨みを利かせたつもりのゴロウであったが、その声は弱々しい。

「お茶のお代わりは如何いかが?」

 淑女が顔を少し傾けると明るい茶色の髪がさらさらと月光を反射した。

「あ、いや、もういいよ。高いモンなんだろ、これ――」

 こんな真っ白な器、見たことがねえな――。

 ゴロウは月明かりの下で目を凝した。導式具細工師の父親を持つゴロウは物の価値に目が利くほうだが、まったく未知の品物に対しては自慢の鑑定眼も無力である。

「いいのよ、ゴロウはお客様だもの」

 牙のある淑女は死人のように青白く、しかし、しなやかな手で、ティー・ポットをとった。

 白磁に花柄の絵付けがされたものだ。

「あっ、ああ。じゃあ、もう一杯もらっとくか――」

 ゴロウがティー・カップを突き出した。

 テーブルは小さい。

 ゴロウは少し身を乗り出すだけで牙のある淑女の領域に届く。

 牙のある淑女はティー・ポットを傾けながら訊いた。

「ゴロウはタラリオン王都のどこからいらして? それと、お砂糖は?」

「砂糖は入れないでくれ、ミルクだけ。俺の出身は十三番区ゴルゴダだよ。ペクトクラシュ河南大橋の西だ。王都を知っているのか?」

 ミルクのみ入った紅茶にゴロウは口をつけた。立ち上る紅茶の香りを嗅ぎながら、今夜は眠れそうにねえな、そう考えてゴロウは少し笑う。

「十三番区。そう、今は王都に十三番区まであるのね――」

 牙のある淑女は自分のティー・カップにもお茶を注いだ。

「セ、セ、セー、セシィリア様の――」

 ゴロウの顔は月明りの下でもわかるほど赤くなった。

 牙のある淑女はクスクス肩を震わせた。

 それは夜闇にたゆたう、さざ波のようで――。

「――ゴロウ。ただのセシリアでいいわ」

 牙のある淑女――セシリアは、まだこみ上げてくる笑いを堪えている様子だ。

 紅茶を一息に飲み下したゴロウが、

「――あァ、セ、セシリアが知っている王都は、今から何年くらい前になるんだ?」

 セシリアはすぐ返事をせずに、じっとゴロウを見つめた。怪訝な表情になったゴロウも、セシリアへ視線を返している。頬も唇も死人のように青ざめているが、造形に温かみと品のあるセシリアの美貌がゴロウの目の前で静止していた。

「――七百七十三年前」

 セシリアはなぞなぞの答えを見つけたような早口だ。

「――ああ?」

 ゴロウの太い眉尻がストンと落ちた。

「私が最後にタラリオン王都へ行ったのは、ユリア様の聖誕祭のときだったから、七百七十四年前の夏だったかしら。やだ、記憶が曖昧だわ、私も随分とオバサンになったのね。もっとも、あの頃はまだ中央にあった三つの国に分かれていたから、王都は三つあったの。タラリオン、アンフィトリテ、あとひとつは――」

 セリシアがゴロウを見つめた。

 ゴロウは返答のしようがないので視線をそのまま返すだけだ。

「やだ、また物忘れ。だめね、年寄りになると――あっ、もうひとつの王都はミトラポリス!」

 一人で喋りながら、眉尻を上げたり下げたりするセシリアの美貌を、黙ってゴロウは見つめていた。セシリアの年齢は二十代の中盤に見える。そう見えるだけで実際の年齢は違う。

 この淑女は記憶が薄れるほど昔に年齢を重ねることを放棄している。

「あ、あァ、北大陸中央の三国分裂時代だな。俺のほうは歴史の授業でしか知らない時代だぜ。まあ、それは、いいや――しかし、この周辺は夏でも涼しいんだな」

 ゴロウは当たり障りのない話題に切り替えた。ゴロウは胸の鼓動が早くなったのを自覚して狼狽えている。

 セシリアは魔の眷属――吸血鬼。

 ゴロウの厚い胸板のうちにあるのは恐怖なのか、あるいは――。

「そうね、ゴロウ。メイベル村は――メイベルホリック領の北部は避暑地だったの。来賓も多かったわ。でも、それは夏の間だけよ。冬のメイベルは凍えるの。表に出るひと影はほとんどなくなる――」

 セシリアが旧領主の時代を遠い目で見やった。

「へえ、冬は雪が積もるのか?」

 ゴロウは荒れ果てた中庭へ視線を送った。

「冬はデ・フロゥア山脈の向こう――灰色の凍土から雪雲が降りてくるの。その間はほとんど毎日が灰色の空よ――」

 セシリアは冷めた紅茶を飲み干した。

「王都でも雪は降るが、積もることはほとんどねえからな。一面、銀世界か。それは見てみたい――まァ、すぐ見れるか。嫌になるほどな」

 ゴロウは視線を落として苦く笑った。

 俺は王都へもう二度と帰れんだろう――。

 聖教会の幹部を敵に回したゴロウはそう考えている。腐った聖教会への未練はない。しかし、生まれ育ったタラリオン王都を離れて暮らすのは一抹の寂しさがある。仕事は現役だが相応に年老いたゴロウの父親は王都十三番区で元気に暮らしているし、古い顔馴染みも数え切れないほどいる――。

「――私、もう長い間、太陽を見てない」

 先ほどまで華やいでいたセシリアの声に夜の魔性が紛れ込む。

 吸血鬼は陽の光を浴びると、体内にある魔導の胎動が壊れて、その身が灰へ帰るという。

「――ああ、まあ、そりゃあ、そうだろうな。だが、月の光も悪くねえよ」

 ゴロウが頭上の月を見て笑った。

「そうかしら、私はもう見飽きたわ」

 セシリアも上弦の月を上目遣いに見やった。

「少なくとも俺は月明かりの下でお茶を飲むなんて初めてだぜ。酒ならともかくだ。しかも、お茶の相手は――」

 ゴロウが困り顔になった。

 月下で飲むお茶の相手は聖教会の宿敵の吸血鬼ヴァンパイアである。

 破戒僧のゴロウも今回ばかりは腰が引けていた。

「あら、ゴロウはお酒がよかったの。待っていて」

 セシリアがふっと席を立った。

「あっ、おい! そんな意味じゃあ――」

 席から腰を浮かせて、ゴロウは目を丸くした。

「私も嫌いじゃないし。お酒が好きな淑女レディなんて、はしたないかしら?」

 セシリアはその身を反転させて今宵の衣装をゴロウへ見せつけた。暗いオリーブ色のドレスだ。しかし、目を凝らせば、ひらひらとしたフリルやレース生地、要所要所に刺繍された花柄で飾られた、古典的かつ豪華絢爛なドレスのスカートが夜闇を巻き込んで膨らむ――。

 重力を喪失したような動きで廃墟のなかへ消えるセシリアの背中に、

「おいおい、セシリア、おーい!」

 ゴロウは呼びかけたが、吸血鬼の淑女は振り返らない。


 §


「――なるほどな。メイベル村のゴロウは医者の仕事を女へ全部放り投げて、毎日毎日、酒びたりで暮らしていたのか。それは羨ましい境遇だぜ。基本給は聖教会から毎月必ず支給されてたんだろ。日本だとそういうのを『ネオ・ニート』っていうらしいぞ。高等遊民ってやつだよな――」

 ツクシがゴロウへ感心した顔を向けた。

「ツクシ、あのよォ――さっきからいっているだろ。セシリアが欲しがる薬草を採集しに、裏の山へ登ったりだとかな、館の地下――セリシアの住処すみかで製薬を手伝ったりだとかな。村長に頼まれて学会アカデミーの教官の真似事だって俺はやってたぞ。村での生活はかなり忙しかったぜ」

「おう! ゴロウは女の尻に敷かれてコキ使われていたか! お前は案外と根性がないもんな。まあ、それはよくわかるぜ――ここは右か?」

 ツクシが訊いた。

 正体不明の吸血鬼を緊張感薄く追跡する二人の男はT字路の突き当たりにいる。

「――いや、左だな」

 平坦な声で指示したゴロウは、

「おめェ、は、よォ! くっそ、この野郎!」

 歯噛みして怒りを紛らわせたあと、

「とにかくだ。俺とセシリアは上手くやっていたんだ。セシリアは日中、外出ができないからな。あいつはあいつで不便も多かった。お互い持ちつ持たれつだぜ。メイベル村の奴らも、俺が吸血鬼の――セシリアのことを、とやかくいわねえってわかったら、普通の態度で接してくれるようになった。だが、俺が村に赴任してから三年目の夏だ。『奴ら』がメイベル村へやってきた――」

「その時期は王国と魔帝国が戦争を開始した頃だよな。メイベル村はエンネアデスの魔帝軍に襲われたのか?」

「いや、セシリアが死んだのは、この戦争が始まる二ヶ月前だった――ツクシ、おめェも見ただろう。聖教会の異端審問官――武装布教師アルケミスト隊だ。奴らがメイベル村の吸血医――セシリア・ノックス・メイベルホリックの存在に勘づいた。あのとき、セシリアは――」

 ゴロウの声が極端に重い。

 ツクシは話を切り上げることに決めた。

 吸血鬼は無差別にヒト族へ危害を加える存在ではない。

 ツクシはこの確証だけあればいいのだ。

 ゴロウは自分の歩く先を睨んでいた。

 遠い位置にある導式灯の極弱い光に照らされて、ネストの闇に鬼神の横顔が浮かんでいる。

 ツクシはゴロウの話を黙って聞くことにした――。


 §


「バイバーイ、ゴロウ!」

「またな、ゴロウ!」

「ゴロウ、さいなら!」

「さよーならー、ゴロウ!」

「あばよう、ゴロウ!」

「クソガキども、ゴロウ『先生』だァ、先生を付けろ、教官の俺に敬意を払え! あァ、あとな、寄り道すんじゃねえぞ! 真っ直ぐ、家に帰れよォ! 宿題、ちゃんとやってこいよなァ!」

 聖教会に隣接するメイベル村学童から出てゆく生徒たちを、ゴロウは表まで出て見送った。メイベル村学童院の玄関口で怒鳴るゴロウへ指を差したり、お互いふざけあったりとしながら、四十人ほどの子供たちがキャッキャと笑って坂道を下りていく。ゴロウは強面で言葉は荒くすぐ怒鳴る。しかし、ゴロウが子供を決して殴らないのを生徒は知っていた。叩くどころか、ゴロウが子供を本気で叱りつけることもない。それができない男なのだ。だから、ゴロウ先生は子供たちにちょっぴり舐められている。生徒の年齢は五歳から十四歳ていどまでと幅広い。ゴロウ校長先生、兼、ゴロウ先生が運営しているメイベル村学童院は、学年別に分けて授業ができるほどの設備も人員もない――。


 ――メイベル村の病人や怪我人は、すべて吸血医のセシリアが少ない対価を取るだけで――たいていは金銭ではなく物品の謝礼で治してしまうので、丘の上の聖教会に隣接する診療施設は無用の長物――この場合は無用のハコ物と化した。この立派な建物が遊んでいるのを見とめたメイベル村の村長が、ゴロウのもとへやってきて、「建物を改築して、学校を作ってくれんか」そう頼み込んだ。これまでは、この禿頭で山羊のような髭を生やした村長が、子供たちへ読み書き算盤を教えていたらしい。

 しかし、

「子供らの相手をするのは、もう体力的に限界じゃい!」

 これが村長の話だった。セシリアの吸血治療が功を奏しているのだろうか。メイベル村の村長は八十九歳とヒト族の平均寿命を大幅に超える高齢だったが、それでも杖をつきつき坂道ばかりのメイベル村を歩き回っているのだから、まあ、元気ではある。

「俺ァ、子供ガキが苦手なんだよなァ――」

 ゴロウは気乗りしない様子だったが、すぐ村の大工がやってきて備品や壁を取っ払い、診療所を児童用の教室に改造した。ゴロウは村長の申し出を承諾した覚えはないし、診療所の改造許可を出した覚えもない。

 なし崩し的にだ。

 ゴロウはメイベル村の校長先生に仕立て上げられた――。


「――はァ、やれやれ」

 学童院の玄関口に突っ立ったまま、ゴロウは怒らせていた肩を落とした。

「子供たちは、いつも元気ですね」

 後ろに控えていたゴロウの助手――フローラが笑った。

「ガキどもはなァ。俺ァ、毎度毎度ヘトヘトだぜ――」

 ゴロウはまぶたを半分落とした。長い坂道だ。その両脇にある真夏の風に揺れた草花が、光の波になって目に眩しい。子供たちの嬌声が聞こえなくなったところで、ゴロウがフローラを見やった。山間にある村で三年間を過ごしたフローラは贅肉が落ちている。今はひとの目を引く女の風貌だ。

「――ちゅ、昼食のあとは、お休みになられますか?」

 フローラはゴロウから目を逸らした。初めて会ってから三年経った今でも、フローラはゴロウと目を合わせようとしない。

 俺ァ、どうもフローラに嫌われてるのかなァ。

 特別、嫌な思いをさせたことはない筈だがなァ――。

 ゴロウはそんなことを考えながら、

「あ、ああよォ、午後は裏山で薬草の採集だ。む、村人にまた頼まれてよォ――」

 むろん、この頼み事をしたのは村人ではない。

「――そうですか。ゴロウさま、夜はどうなさいま――あっ、今日は村のひとが川魚を届けてくれましたよ。夕食は、それを――」

 フローラは瞳を伏せたまま控えめに笑った。

「フローラ、そのゴロウ『さま』っての、そろそろ止めてくれよなァ。もうメイベル村で三年も一緒に仕事をしているんだぜ。ガキどもですらゴロウで通すのによォ――」

 困り顔のゴロウが頬に手をやった。

「はい、ゴロウさま、すいません――」

 フローラは益々うなだれた。

 その声も消え入るようだ。

「まァ、いいや。夜もまた出かけるから、夕めしはいらねえよ。あとな、フローラ、おめェも、たまには外で羽を伸ばせよなァ。修道院や聖教会とメイベル村は違うんだから、気楽にやればいいんだ。イディアだって昔に比べると、ずっと、頭が柔らかくなったぜ。おめェはまだまだ真面目すぎる。俺ァ、そこらがちょっと心配だ。真面目すぎたり気負いすぎたりするのはよくないぜ。そういうのは自分にとっても他人にとっても面倒事の元になるからなァ――」

 ゴロウは学童館へ足を向けた。

「はい、ゴロウさま」

 視線を落としたまま、フローラがゴロウの背を追った。

「だから、フローラな。そのゴロウ『さま』っていうのをだな。はァ――ところで、イディアが朝からいねえみたいだが、どこをほっつき歩いているんだ。学童院の仕事をほっぽらかしてよォ――」

 ゴロウが足を止めて訊いた。

修道女スールイディアは村を回っております。ほら、太陽日礼拝の勧誘ですよ。あっ――!」

 夏の風が強く吹いた。

 黒い頭巾を吹き飛ばされそうになったフローラは頭を抱えている。

「あァ、今日は土聖サトゥルヌスの曜日か。ド田舎で暮らしていると曜日も怪しくなるよなァ。できれば、あのくらいしつこく学童院へ力を入れてほしいんだがな。ガキども、イディアのいうことなら大人しく聞くしなァ。イディアはおっかないからな。俺のいうことは全ッ然聞かないんだよなァ。困ったなァ、はァ、授業にならねえぜ。フローラ、お前のほうからも、イディアにいってやってくれよ――」

 ゴロウは夏の風に愚痴を乗せた。メイベルの聖教会館支部へゴロウが赴任してから三年が経っている。ゴロウやフローラやイディアの存在を村民は受け入れた。しかし、ここの村人は熱心なエリファウス聖教徒ではない。聖教会が細々とした支部を作るのはあくまで教化が目的だ。

 そこで、熱狂的なエリファウス聖教徒のイディアが暇を見つけては、

太陽ソルの曜日――安息日には、布教師ゴロウ・ギラマンの説法を聖教会館で拝聴し、聖霊ウルテマへの祈りを捧げるようにィ。不信心は地獄行きですゥ!」

 こんなことを村にある家々を訪問しては喚き散らしているのだが、その宣伝効果は今ところない。そもそも、地獄の底から届く狂騒曲ラプソディのようなゴロウの説法には、リピーターがほとんどいない――。

「――ゴロウさまァ、たいへんです、ゴロウサマァッ!」

 坂道の一番下からだ。

 そのイディアの金切り声が聞こえてきた。

 ゴロウが振り返るとイディアが凄まじい勢いで坂道を駆け上がってくる。黒い頭巾を手で握り締め、片方の手で修道服のスカートをはしょって全力疾走だ。目玉ぎょろりとして鷲鼻で、若白髪が目立つ長髪を振り乱し、必死の形相で駆けてくると、イディアはもう魔女か山姥にしか見えない。

 目を丸くして仰天しているゴロウの前で、イディアはがっくり膝をついた。

「そうか、いよいよ、村の連中に大怪我人が出たか! おっしゃ、昼間なら俺の出番だ、腕が鳴るぜ。俺が奇跡の担い手だってところを、今日こそは村人どもに見せてやる。どいつもこいつも、ゴロウ、ゴロウと気軽に俺をコキ使いやがってなァ。屋根や手押しポンプの修理なんか自分でやれって話だろ。よーし、ちょっと待ってろよ、今すぐ、往診鞄を――」

 明らかにこれはただごとではない。

 そう判断したゴロウは埃をかぶっている医療用具を取りに院長控え室――私室へ走った。

 そのゴロウの腰にかじりついて止めたイディアが、

「ゴロウ様! ちィ、ちィ、ちィ!」

 ゴロウを見上げるイディアは渾身で必死だ。

「そうか、怪我人から血がそんなに出てるか。それは大怪我だな。イディア、心配するな。どんな大怪我だろうと、息さえしていれば死なせはしないぜ。治療費は殺してでも取るがな――」

 真顔のゴロウがイディアの肩に手を置いた。

「ゴ、ゴ、ゴロウ様、怪我人は違いますゥ! ゲブ、ゲェ! ヒュ、ヒュゥ!」

 肩で呼吸しているイディアは言葉が続かない。

 ゴロウはがっくり肩を落として、

「イディア、あんだよォ、怪我人とか病人が出たわけじゃねえのかよォ――あァ、もしかして、また夫婦喧嘩か? またヤンセンさんのところだろ。週に三回は必ずやってるじゃねえか。イディアもいい加減に慣れてくれやい。あれは派手だが死人は出ていねえ。いずれは出るかも知れねえけどよォ。倭国じゃあ、『夫婦喧嘩は犬も食わない』っていうらしいぜ。もう放っとけよォ、どっちかが死ねば懲りるだろ――」

「ちィ、ちィ、ちが! ぶ、ぶぶ、そ、グゲ、フッ、ゲヴォ、オゲェエェエェエェ――」

 イディアがゲロを吐いた。

 仰け反ったゴロウが、

「ぬぅお、吐いた! おっ、おいおい、もしかしたら、イディアが病気なのか? フローラ、水をもってきてやれ。いや、気つけに酒のほうがいいかなァ。顔が真っ青だぞ。イディア、とにかく落ち着けよォ――」

 まァ、嘔吐するまで走れるほど元気な奴が病気なんてことはないだろうが――。

 ゴロウはイディアの口から飛び出して地面に落ちたものを眺めた。

 少なくとも血などは混じっていない綺麗なゲロだ。

「――ち、違います、ゴロウ様!」

 ゴロウの腰にかじりついたイディアが、

「ぶ、武装布教師隊です。城下街の聖教会第四支部から派遣された武装布教師隊が、メイベル村に来ています。彼らは村人たちに『罪の告白』を迫って――い、い、い、異端審問、異端審問を! ああ、ゴロウ様、私は、私たちは、一体どうしたらよいのでしょう!」

 鉄面皮で、潔癖症で、少々狂信的なエリファウス聖教徒で、そして、何事にも一生懸命な、心優しき修道女スールイディアのギョロリとした目玉が涙で濡れていた。

「異端審問――」

 ゴロウの顔と声からすべての感情が消えた。

 次の瞬間、ゴロウは丘の道を暴風のように下っていった。

 途中、白い丸帽子を後ろへ飛ばしたが気にする素振りもない。

 イディアはフローラの手からコップをひったくり、その水を一気に飲み干して、

「――カハアッ! ゴロウ様ァ、私も、私も参りますゥ!」

 地へ投げ出されたコップを、緩慢な動作で拾ったフローラは坂道を転げるように走ってゆくゴロウとイディアを見送った。

 その地につきそうなほど長い修道女服のスカートを夏の風が揺らしている――。

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