四節 朝陽のなかに消えた聖女(壱)

 土嚢に背中を預けて銃を抱え、うつらうつらしていた若い兵士が、ファングの遠吠えで浅い眠りから覚めた。

「――寝たら叩き起こしてくださいよ、ゴードン兵長。そういっておいたじゃないスか」

 居眠りをしていた若い兵士が、横の壮年の兵士――ゴードン兵長へ恨みがましくいった。

異形種やつらが来たら、イヤでも目が覚める。ロッシも飲むか?」

 ゴードン兵長が若い兵士――ロッシ一等兵へ水筒を突き出した。

「いや、目が覚める前に死んじゃうっスよ。ああ、俺はいらないっス。兵長、酒を飲んでると、また小隊長にドヤされますよ――」

 ジンの香りに顔をしかめたロッシ一等兵が、ヘルメットの面当て部分を引き下ろした。左右で計六つの青い秘石レンズが並んだ面当てを降ろすと、そのヘルメットは機械的な蜘蛛の頭のように見える。

「しかし、どうして地下五階層にまで兵員を増員したんスかね。異形種ヴァリアントがここまで上がってくるとは思えないっス。ここんとこ、最下層の前線は押し込んでるじゃあないスか。今は下の兵員を増やして進撃すべきっスよ。奴らの状況が苦しいから少数で無理をしてまで、上層の補給路を攻撃をしてきたのだって、シェーファー中尉だっていってたし――」

 ロッシ一等兵は、エレベーター・キャンプを見回した。ネスト・ポーターは壁際に寄って眠りについている。西バリケードにも、この東バリケード同様に特別銃歩兵の二十名が夜警にあたっていた。そちらも静かなものだ。問題が起こっている様子はない。バリケードの脇にある仮設トイレへ、ネスト・ポーターの小柄な男が一人、用を足しに向かっていくのが見えた。

 うん、異常なし――。

 ロッシ一等兵は頷いた。

「しかし、この暗視装置は壊れているのか。さっきから視界が歪んでいるようだが――」

 ゴードン兵長がヘルメットの側面を手で叩いた。

「新式は故障多いっスからね」

 ロッシ一等兵が笑った。

「ああ、そうだな。新兵と新兵装ほど信用できないものはない――」

 ゴードン兵長が面当てを引き上げると、黒いモミアゲが顎髭まで繋がったオス臭い風貌が現れた。ゴードン兵長は職務中の飲酒を上官にガミガミ懲戒されることがあっても、その胆力と戦闘技術に関しては全幅の信頼を置かれている熟練の特別銃歩兵――銃と剣を使った戦闘の専門家スペシャリストだ。しかし、その飲酒癖が仇となって、戦功をいくら重ねても階級が上がらない。陸軍一等異形種撃破勲章ばかり増える奴――勲章蒐集家メダリオン・コレクター。同僚からゴードン兵長はそんな渾名で呼ばれている。皮肉が半分、敬意が半分だ。

 そのゴードン兵長が、

「それで、ロッシはまだわからんのか?」

「えっ、なんスか?」

 ロッシ一等兵が首を捻った。

「あのな、上官のいうことを鵜呑みにしていると早死にするぞ。ネスト管理省のお偉いさんが神経をトガらせてるのは異形種ヴァリアントだけじゃないだろ」

 苦笑いのゴードン兵長が水筒の酒を呷った。

「あっ、俺たちがここに派遣されたのは布教師の連中を援護するためっスか!」

 ロッシ一等兵の大声だ。土嚢へ背を預けて休憩をしていた兵士の何人かが顔を上げて、ロッシ一等兵へ視線を送ったが、また、あいつか、そんな苦笑いと一緒にうつむいて再び仮眠に入った。

「そうだ。俺たちの隊が派遣されたのは失踪した兵士の件の対応だ。吸血鬼狩りは聖教会の仕事だろ。それで、俺たちはこのエレベーター・キャンプ――武装布教師隊の使う基地の防衛要員として派遣された。だから、こうして暇を満喫しているわけだ」

 ゴードン兵長は水筒に蓋をした。

「いやあ、さすが鋭いっスね、兵長――」

 ロッシ一等兵は、夜警の任務中に酒を飲んだくれるゴードン兵長の横顔を、尊敬の眼差しで見つめている。

「かも知れんって話だ。さっき上官のいうことを鵜呑みにするなっていっただろ。何にしろ暇な夜警でありがたい。あの物騒で何を考えているのかわからん連中――武装布教師隊とは、なるべく係わり合いになりたくない。ふぁああっと――」

 大あくびをしたゴードン兵長が、

「ロッシ、お前の眠気が俺に移った。どうしてくれる?」

「いや、兵長、それ酒の所為でしょ――しかし、俺、今日初めて武装布教師隊を見たんスけど、あいつら、目なんか本当に不気味っスね。ゴードン兵長は知ってますか。武装布教師って人類種強化薬剤バースト・メディスンを常用しているらし――ん、兵長? 兵長?」

 ロッシ一等兵がバリケードの向こう側を眺めている間に、ゴードン兵長は土嚢へ頬をつけて大イビキをかいていた。

「ゴードン兵長、どうしたんスか!」

 ロッシ一等兵は揺さぶったが、ゴードン兵長が目を覚ます気配はない。ヘルメットに付属している熱源探査機能で見るとゴードン兵長に体温は間違いなくある。手から伝わる温度でも確認できる。しかし、明らかに異常な眠り方だ。

 顔を強張らせたロッシ一等兵が、閉鎖されたバリケードの外へ視線を送った。

 そこにスカート丈の長いメイド服を着た眼鏡の少女が佇んでいる――。

 

 仮設トイレから出てきたヤマダが、

「――何しているんだ、あの兵隊さんたち」

 二人の兵士が東バリケードを解放していた。

 滑車がレールと擦れ合って不愉快な金属音が響いている。

「んぁあ、デッダックさん、戻ってきたのかなあ――?」

 ヤマダは千鳥足で西バリケードへ向かって歩いていった。

 残った酒がヤマダの注意力を鈍らせていた。

 その千鳥足の足元に不可解な霧が漂っている――。


 §


 寝袋にくるまるゴロウは、エレベーター・キャンプに侵入した魔の霧を、身に巡らせた導式で払い除けながら、吸血鬼の淑女レディ、誇り高き吸血貴族ヴァンパイア・ノーブル、セシリア・ノックス・メイベルホリックの、朝陽に溶けていった、あの微笑みを思い出す――。


 帝暦一〇〇七年。

 帝国歴一〇一二年現在から四年前である。

 エリファウス診療所で働く若い布教師アルケミストたちは、王都十三の区画を網羅する貧民救護院の設立計画を立案した。上層部の横槍でこの計画が頓挫したことに不満を爆発させた貧民救護院設立プロジェクトの主任――まだ赤い髭がなかった頃のゴロウ・ギラマンは直属の上司相手に暴力沙汰を起こして聖教会査問会へ召還された。

 エリファウス聖教会の頂点に立つ二十四人の聖賢人サンタ・ワイズメン――権力狂いの老人たちの間では、「この馬鹿を聖教会からつまみ出せ」そんな声も多く出た。しかし、「王都十三番区のエリファウス診療所に勤めるなかで随一の腕を持つ導式の担い手で、貴族や大市民に評判が高かったゴロウを下野させるのは、後々面倒になることも多いのではないか」そんな意見も出始める。

 白熱した議論――あるいは茶番劇の末、

「宗教が政治に深く関わる王都から辺境へ左遷して、このうるさい若者を黙らせてしまえ」

 ゴロウの処分はそんなところに落ち着いた。

 こんな流れだ。

 ゴロウはアウフシュナイダー領の西隣、クレモンテ領の北の村――メイベル村に新設された聖教会館の主任布教師として派遣されることになった。王都で担当部署の配置代えを通告されたゴロウは、クレモンテ城の城下街へ聖教会のグリーン・ワイバーンを使って移動した。そのあとは、やはり聖教会が派遣した二頭立ての馬車でメイベル村へ向かう。ゴロウの旅のお供はくたびれた老人の御者一人と、クレモンテ城下街にある聖教会館第四番支部から派遣されてきた修道女スールが二名だった。訊くと、修道女二人組の年齢は、小柄でふっくらとしたのが二十三歳、背が高く痩せたほうが二十九歳らしい。馬車に揺られるゴロウの対面に並んで座って、黒い背表紙の聖霊書へ目を落とした二人の修道女は、ずっと聖霊ウルテマへ祈りを捧げていた。

 同行して二日目になる。

 ここまで、ゴロウと彼女たちが交わした会話は二言か三言ていどのものだ。

 この女どもは何が楽しくて生きてるんだかな――。

 ゴロウは陰気で熱心な女性信者の二人から視線を外して車窓を眺めた。丘の道は頂上に差しかかって、そこからメイベル村が一望できる。万年雪を頂に抱き高く連なるデ・フロゥア山脈の山間斜面に並ぶ小さな家々――そのたいていは、身を粉にして働いていれば、この国一番の貧乏人よりも、多少はマシな生活ができるぞと主張するつつましい家屋の群れを眺めながら、ゴロウは腐りつつもサバサバとした複雑な心境にいた。

 王都の猥雑な下街――女衒街で生まれ育った典型的な激情家であり人情家のゴロウにとって、死に瀕した貧乏人よりも、金持ちの擦り傷を優先して治療するエリファウス診療所の方針には嫌気が差していたし、色と欲を追い求めるエリファウス聖教会の内部事情――幹部の権力争い、貴族や大市民を相手にした賄賂の遣り取り、薬品の横流し、それに、幼い神学生へ行われる修道士きょうしの性的虐待にも吐き気を覚えていた。

 王都の聖教会は、ホモか、レズか、ペドか、クズのどれかしかいなかったな――。

 ゴロウはクサクサと考えているうちに、その厚い胸板の内側にこれまではなかった感情がひとつだけあるのに気づいた。

 王都から離れて生活するのは生涯初のことだ。

 ゴロウは険しかった顔をゆるませて、もう一度、車窓へ視線を送った。しかし、下り坂に入った丘の道の左右は森の木々が鬱蒼うっそうと茂っているのみだった。

「とんでもねえド田舎に飛ばされちまったなあ――」

 ゴロウの苦い笑顔を夏の木漏れ陽が流れてゆく。森に囲われた田舎道は樹下で空気が冷やされる。ゴロウは車窓から踊り込む涼風に目を細めた。聖教本のページが風でめくれて驚いた修道女の二人が顔を上げた。この二人が本当に驚いた顔なので、可笑しくなったゴロウは歯を見せて笑った。このときまだ髭がなかったゴロウは、二十五歳。

 青年の笑顔の魅力がそこにある。

 修道女二人は、ひどく動揺した様子で、手元の聖霊書へ視線を戻した。

 そのあと、しばらくの間、修道女二人の祈る声は聞こえてこなかった。


 §


 魔の霧の向こうで、東バリケードの隙間から、三人のひと影が釣りだされるようにして歩いて行くのが見えた。三人を先導するのはメイド服を着た少女の後ろ姿だ。

 ゴロウが半身を起こして頭のナイト・キャップをかなぐり捨てた。

「おいおい、うそだろ。まさか、あいつはカレラかァ?」

 ゴロウの髭面に玉のような汗が浮いている。

 秘匿された詠唱術オカルティック・チャントを使用し、口述鍵を精神変換サイコ・コンヴァージョンへ埋め込んで、自分の身に導式陣・退魔の領域の効果をかける。この方法で睡魔を誘う魔導の霧から逃れているゴロウは限界まで精神を集中していた。この導式陣機動方法は精神や肉体への負荷が大きく、いうなれば荒業あらわざの類になる。これを扱える導式の担い手は数少ない。当代一線級の布教師ゴロウ・ギラマンとて導式陣を超級精神描写ウーバー・サイコ・スクライヴで広く展開するのは不可能だ。あくまで小さな範囲――自分の身にのみに導式を張り巡らせるのが精一杯である。

 ツクシがそのゴロウの横で外套を羽織りながら、

「おう、ゴロウ、そろそろ行くか?」

「何ぃい! ツ、ツクシ! お前はなんで――ぬぐぉ!」

 横で平然と身支度をしていたツクシを目撃したゴロウは精神の集中を乱して気絶しそうになった。

 ゴロウは鉄の錫杖を杖代わりに耐えている。

「霧でよく見えなかったが、ヤマさんもあのメイド服の女の子につれていかれたみたいだ。さっさと追うぞ。放っておいたら、ヤマさんが『吸血鬼ヴァンパイアヤマダ』になっちまう。どこぞのつまらねェ映画だとか、売れない漫画のタイトルみたいだな。おいおい、冗談じゃないぜ――」

 ブツブツいいながらツクシは剣帯の装着具合を確かめていた。

 ゴロウは黄金の導式が並ぶ円環を再び身体へ張り巡らせて、

「――ふうっ。ツクシ、なんで、おめェは起きていられるんだ?」

「ああ、酒が足りなくて眠りが浅かった。金がなくてな。最近は酔うまで飲んだ記憶がねェよ。ゴロウ、ヤマさんを連れ戻すついでにだ。失踪した兵士も二、三人しょっぴいてくるぞ。あの様子だと失踪した奴らはみんな吸血鬼になってるんだろ?」

 ツクシがワーク・キャップを目深にかぶった。

「そ、そういう問題じゃねえだろ! この霧だ! これは魔導式で生成されているんだ、魔導式陣・眠りを誘う霧ヒュプノス・ネビュラだ! この魔導の霧がここにいる全員を覚めない眠りへ誘っているんだ。ツクシ、周囲を見てみろ。みんな、起きる気配がねえだろ。だから、退魔の導式を張っていないおめェが、起きていられるわけがねえんだ。おい、これは、おっかしいだろォ!」

 最後にゴロウが絶叫した。薄汚いダミ声が反響してこだましたが、ニーナ、リュウ、フィージャ、シャオシンはもちろん、他のネスト・ポーターや兵士も眠りから覚める気配はない。

「あのな、ゴロウ。チチンプイプイは俺の専門外だぜ」

 ツクシはゴロウの身体を巡る黄金の円環を興味なさげに見やった。

「あっ、ツクシ、おめェ、そのマント――ど、どういうこったァ。そのマントは導式が見えないのに魔を払ってるぞ。も、もしかすると、それ、本当に三柱神獣――ドラクルの体毛で編んだ生地なのか? おいおい、そりゃあ、不朽体アンコラプト(※聖遺物アーティファクトとほぼ同義語)並みの価値が――いや、銭でつけれないほどの価値があるぞ。ほ、ほ、ほ、本物だったらなァ――おい、ツクシ、それ本物なのか!」

 ゴロウはツクシの外套を見つめた。その身体を巡る導式の円環にガクガク乱れが生じているが、別の案件で極限まで精神が高揚しているゴロウは睡魔を一切感じていないようだ。

 恐るべき強欲さである。

「お前は何をゴチャゴチャいっているんだ。置いていくぞ?」

 ツクシは顔を歪めてバリケードへ向かった。開放されたバリケードは残った衛兵たちの手によって閉じられようとしている。衛兵たちは眠ったまま働いていた。

「なるほど、まさしく催眠術だな。ああやって吸血鬼は兵士をキャンプから連れ出していたのか――」

 ツクシは薄暗がりの翼が持つ神獣の効果オーラで魔の霧を払い除けながら歩を進めた。

 ゴロウがツクシの背を小走りに追いながら、

「はァ、まァ、いいけどよォ。ツクシ、ヤバくなったらすぐ逃げろよ。今回は、たぶん、おめェの面倒までみきれねえぜ」

「ゴロウ、そりゃ、こっちの台詞だぜ」

 ツクシが口角を邪悪に歪めて見せた。

「ンだとォ、このゴボウ野郎!」

 耳をつんざくようなゴロウの大声だったが、霧にまどろむひとびとはやはり誰一人として目を覚まさない。

 この霧の発生源を追っていけば簡単に尾行できるだろ――。

 ツクシはそう考えていたが、エレベーター・キャンプの外へ出ると魔導の霧は消えていた。ツクシとゴロウの前には導式灯の灯りで照らされた通路が広がるのみだ。

「参ったぜ。失踪した兵士が網にかかるのを期待して、様子を見ていたのが失敗だった。吸血鬼の「匂い」は俺にわからん」

 ツクシが立ち止まったところで、

「――おい、ツクシ、こっちだぜ」

 ゴロウが脇道の一本へ向かって顎をしゃくった。

「ゴロウ、選んだこの道に根拠はあるのかよ?」

 ツクシがゴロウの横に並んだ。

「魔の眷属――吸血鬼が歩いたあとは身体に胎動している魔導の影響で、運命潮流マナ・ベクトルが乱れるんだ。移動した直後なら丸わかりだぜ。屍鬼だとか吸血鬼は人類と違う存在だ。もっとも、移動した痕跡が見えるのは短い間だがなァ」

 ゴロウは歩きながらどんぐりまなこを凝らしている。

「マナベルベルだと? それなんだったかな――おい、次の突き当たりはどっちだ?」

 ツクシが訊いた。ネストの脇道はどこも入り組んでいて、歩くと十字路になったりT字路になったり、Y字路になったりと分枝がある。

「――ここは、右だ。あのなァ、ツクシ、前にも教えただろ。おめェにもわかりやすくいうと、魔の眷属が歩いた跡は、しばらく空間がひずんで見えるんだ。ぐにゃあっとな。空中に水が流れているような感じかなァ」

「へえ、それは便利だな。それなら、あの女の子とヤマさんを見失うこともなさそうだ」

「――どうだ、わかったか、チューソツよォ?」

 ゴロウが歯を見せて笑った。

 ツクシはその迫力がないニヤニヤ笑いを横目で見やって、

「――ゴロウ」

「あァ?」

「お前は何でアレに――吸血鬼にそこまで拘ってる。あの吸血鬼の女の子が来ることを予想して、お前はチチンプイプイをしてたんだろ? おい、十字路だぞ」

「――さァな。ツクシ、ここは真っ直ぐだ」

 ゴロウは笑みを消した顔を正面へ向けた。

「何だ、いえ。ゴロウは名前も知っていたな? さっき聞こえたぜ。あの女の子の名前はカレラというのか。吸血鬼ってのは、本当のところどんな奴らなんだ。今からり合うんだ。情報が必要だ。さっさと俺に教えろ。それともお前は二人まとめて死にたいのか?」

 ここでツクシはカマをかけている。吸血鬼は危険な戦闘能力を持っているようだが、決して会話が成立しないような相手ではない。屍鬼と違って吸血鬼は正気を保っている存在だ。武装布教師隊に首を刎ねられた男のことだ。身を挺してまで、ワーラットの子供の命を救った吸血鬼の男である。

 あれは男の死に様だよな――。

 ツクシは吸血鬼の堂々とした態度に感銘すら覚えた。

「――殺し合うか。ツクシ、それは心配ねえ。たいていの吸血鬼はヒト族と変わらないんだ。今、危ないのは聖教会から来た武装布教師隊の連中だぜ」

「ゴロウ、ついさっき手前の口が吸血鬼はヒト族と違うといっただろ?」

「いや、ツクシ、それはよォ。くっそ、説明がし辛えな――」

 ゴロウが髭面を曲げた。

 二人が歩く道は長い直線に入った。

 奥は突き当たりでT字路になっている。

 遠くに一つだけ導式灯が壁から下がっていた。

 ツクシが低い声でいった。

「ここまで来たら素直にいえよ。吸血鬼だの武装布教師隊だのが面倒な話題だってのは、何となく俺にもわかってる。だが俺は聖教会とも、この王国とも関係が薄い男だ。気兼ねをしなくていい」

「――俺は昔、吸血鬼の女と会ったことがある。そりゃあ、もう、いい女だったぜ。俺が地方で――北の国境付近で聖教会の仕事をしていた頃の話だ。昔といっても今から四年前か。随分と昔のことに思えるな。クレモンテ領のメイベル村。それが俺のいた村の名前だ。それがまた、とんでもねえド田舎でな、ロクに酒場も売春宿もないような、デ・フロゥア山脈の山間にある小っこい村だった――」

 ゴロウが語りだした――。


 §


 若い奴はともかく、年寄りは信心深いものだろう。

 ジジババの一人や二人、俺の説教を聞きにきても、よさそうなものだが――。

 ゴロウは説教壇に両手をついて眉根を寄せた。もっとも、ゴロウの説教はありがたくない。何の工夫もなく聖霊書の内容をダミ声でがなり立てるだけだ。聖教会関係者のなかで、ゴロウのひどい説教は「聖霊ウルテマへの罵倒」とまで揶揄されている。

 エンネアデス魔帝国との国境線まで北へ二十四キロ前後――そんな場所にある山間の村メイベルは、ゴロウたちが訪れた初日から妙な雰囲気だった。ゴロウは村にある民家の一つ一つを、ぽっちゃり小太りの修道女スールフローラと、痩せてのっぽの修道女イディアをつれて挨拶周りした。村民の態度は余所余所しいものだった。どうも、ゴロウたちは免れざる客の扱いだ。実際、太陽ソルの曜日――聖霊ウルテマに祈りを捧げるべきとされる安息日も、村の小高いところにあるメイベル村聖教会館へ訪れて祈りを捧げるものは誰一人としていない。

「こんな辺鄙な村に建てたにしては奮発したな――」

 ゴロウが初めて足を踏み入れたとき感嘆した、この聖教会館のホールに並ぶ長椅子の最前列で説教を聞いているのは、フローラとイディアの二人だけだ。この熱心なエリファウス聖教の信徒である彼女たちだけは、ゴロウの騒音のような説教を喜んで拝聴している。

 空しくなったゴロウが説教壇の上で開いた聖霊書をパタンと閉じて、

「なァ、フローラ。こりゃあ一体、どうなっているんだろうな?」

「あっ、は、はい、布教師アルケミスト様!」

 フローラは手に持っていた聖霊書を落としそうになった。

「ああよ、フローラ――俺のことは、ただのゴロウでいいぞ。何度もそういってるだろ。それに、声をかけるたび、そんなに緊張するな。メイベル村へ俺たち三人で来てから、もう一ヶ月になる。そろそろ、慣れようぜ――」

 ゴロウは視線を落とした。

「はい、布教師様――」

 フローラもションボリうつむいた。ここに来る以前、王都の聖教会よりもずっと潔癖な辺境の修道院に勤めていたフローラは、ゴロウの言動に過剰な反応をする。フローラは奇跡の担い手――聖教会内のいいようだと『聖霊の恩寵を受けしもの』であるゴロウを、たいへんなまでに尊敬しているのだ。俺ァ他人に尊敬されるような男じゃねえよと、そんなことを自分の口でのたまうゴロウとしてはやり辛い。

「布教師様、ここの村人は不信心なのです。休息日の祈りを怠るなんて、復活の日に地獄へ落ちることが、怖くないのでしょうかァ!」

 フローラの横でイディアがキンキン喚いた。小心者のフローラと違って、イディアは気が強く、強迫的なまでに熱心な聖教徒だ。典型的な破戒僧であるゴロウとしてはこれもまたやり辛い。

「まあ、不信心は、この際どうでもいいんだけどな。しかし、診療所まで閑古鳥なのは、どういうことだ。俺が不思議なのはそっちなんだよ。この村にいるのは産婆さんくらいでな。他に医療関係者はいないんだぜ。俺がやっている診療所はもっとありがたられそうなもんだろ――」

 思案顔のゴロウが視線を上にやった。メイベル聖教会館中央ホールの天井は高い。床から天井まで十メートル以上はある。その大人数を収容する目的で建設された宗教施設の客間に居るのは、ゴロウ、フローラ、イディア、この三人だけだ。高い天井から落ちてきた寂寥が身に覆いかぶさってくるような錯覚を受けて、ゴロウの気分も沈んでいった。

「そういわれると、お休みの日に聖霊様へ祈りを捧げていないのに、この村のひとたちが元気にしているなんて、おかしいですね」

 フローラが蚊の鳴くような声でそういって首を捻った。

「フローラ、信心と健康は全然関係ねえぜ――だが、どうにも腑に落ちないよなあ。ヒトってのはよ、長く生きていれば怪我をしたり病気になったりするのが普通だからなあ――」

 ゴロウは困り顔で頬を撫でた。

「ゴロウ様がおっしゃっているのは聖霊書の二章十七節、聖霊がひとに与えし受難の類について、そのうちの一文のことですね。もしかしたら、メイベル村には異教徒が交じっているのかも知れません。魔の眷属――吸血鬼ヴァンパイア屍鬼アンデッド魔人族ディアボロス――ああ、何ておぞましいのでしょう。聖霊の教えを冒涜するものたち。くっ、口に出すのも、おぞましいィイ!」

 イディアが金属的メタリックな声で喚いた。ゴロウは聖霊書の文句を引用したわけではない。だが、分厚い聖霊書の内容を一字一句漏らさず脳髄へ刻み込んであるイディアは、ゴロウが聖霊書の文句を使ったと判断したようだ。

「あのよ、イディアな。村の連中はお天道様の下でぴんぴん働いてるだろ。屍鬼だの吸血鬼だのは陽の下へ基本的に出てこねえって話だぜ。魔帝国が国交断絶を宣言してから、魔人族はぜんぶ本国へ帰った筈だし、それもねえだろうよ。しかし、おかしいな、一ヶ月の間で一人も病人がでねえってのは、うぅん――」

 ゴロウが髪を掻きむしった。

「病に苦しむひとがいないのは悪いことではないのですけれど。そういわれると、確かにおかしいですね、布教師様」

 フローラが囁くようにいった。

「だから、その布教師様ってのを――まあ、それはいいや。俺たちを嫌って村の病人が痩せ我慢をしているのかっていわれると、そうでもねえんだよなあ。この村の連中は、ジジババまで元気そのものだ。どう考えても納得がいかねえ。ここの村の連中は貧乏だしな。毎日いいものを食っているわけでもなし――」

 ゴロウが説教壇に両手をついて朗々と疑問を垂れ流した。

「はい、布教師様、その通りです!」

「ゴロウ様、やはり、ここの村人たちは邪な教えに犯されたものたちなのです。聖教会支部へ連絡するべきです。浄化が必要ですゥ!」

 敬虔な女信徒二人組が応えた。

「あのよお、フローラ、イディアなあ――はァ、まあ、もういいや。どうせ今日も暇だろ。俺は外へ行ってくるぜ。フローラとイディアも遊んでろよ。診療所も客は来ないだろうしなあ――」

 修道院育ちはこいりのお嬢様連中に訊いても、まあ、無駄だよなあ――。

 そんな感じで諦めたゴロウは説教壇から降りてホールから出ていった。

 二人の修道女がゴロウの背にいった。

「はい、布教師様。お部屋と診療所の掃除をしておきます。お気をつけて」

「布教師様、またお酒ですか。晩餐のとき以外のお酒は、聖霊書の十二章一節、戒律の三つめで禁止されて――」

「へいへいとくらあ。うるせえなあ、もう――」

 ゴロウが背中越しに後ろへ視線を送ると、ステンド・グラスから陽光が眩く差し込んでいた。長椅子から立ち上がってゴロウを見送る熱心な女信徒たちと、説教壇の後ろに設置されている白蛇十字架カドゥケウス・シンボルが逆光で影絵になっている――。

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