四章 姿無き殺戮の徒
一節 天鵞絨の上に横たわる少女
先日、ツクシは何となくユキの年齢を訊いた。
「知らない」
ユキは無関心な態度で応えた。
ツクシは怪訝な顔で、
「ユキは自分の年齢、知らんのか?」
「うん。ママンの年齢も知らないし、パッパの年齢も顔も知らない。自分の年齢も知らないし、そんなの、ぜんぶどうでもいい」
ユキはやはり無関心な態度で応えた。猫人族は些細な事柄を留意しない傾向があるそうだ。大らかで自由といえばそうである。わがままで自分勝手といえばそうだろう。もっとも、ユキはヒト族の血が半分混じっているという話だ。しかし、ユキの母親は他界しているから、それを証明する手立てはない。
まあ、これは大部分が猫だろうな――。
ベッドの上でユキの椅子代わりになっているツクシは、そんなことを考えていた。ツクシを背もたれつきの椅子として使うユキは絵本を朗読している。ユキはツクシのシャツを拝借し下はショーツだけの姿だ。だぶだぶのシャツの裾から飛び出したユキの素足が窓から伸びる夏の陽光を受けて光っていた。
ユキが手に持って音読している絵本の題名は『アルケミストとヴァンパイア』。
可愛らしい絵柄がついた立派な絵本だ。
絵本の著者名はエリファウス聖教会――。
「――そのわかい
ユキがツクシの胸元を後頭部でぐりぐりやった。ツクシはユキの肩越しに絵本に書かれている文字を睨んだ。ねじくれて変形したアルファベットのような文字の列だ。これが、タラリオン王国の公用語のエスト・オプティカ語になる。
「ええと――かすとぅる、まるけんす、こうべん――ん、あとは忘れた」
ツクシはすぐ諦めた。物覚えの悪さを披露してもツクシの顔に何ら恥じらいはない。オッサンになると感受性が鈍くなって、こういった箇所が非常に図々しくなるのである。
「えぇえ、じゃあ、読めたところのいみは!」
シャ! とユキの銀髪が逆立った。
「こうべん、は洞窟だったか――ユキ、その前の単語はどういう意味だった?」
ツクシはよく考えもせず訊いた。
これは駄目な勉強方法のお手本のようなものだといえるだろう。
ユキ先生がキッと後ろに顔を向けて、
「きのう、二回も読んできかせたところなんだけど!」
怒鳴り声と一緒に先生の猫耳がツクシの頬をぺしゃんと
せっかんである。
「おう、そうだったか、確か、主人公の若い男、洞窟へ行くんだよなあ――」
ツクシの表情は変わらない。
低い声音も変わらない。
ユキの癇癪にツクシはもう慣れた。
「うん。村のはずれにあるどうくつへ行くの。だから『カストゥル、マルケンス、コヴェン』は、村はずれの洞窟っていみね」
ぷりぷり怒っていたユキが今度は目を細めた。
猫耳美幼女の絶対正義な笑顔である。
「ああ、それだ、それ。今、思い出したぞ」
ツクシは怒ったり笑ったりと忙しいユキの顔を見つめた。
「もお、わたし、きのうツクシにちゃんと教えたし。じゃ、つぎいくね。わかい
§
カレラ・エウタナシオは、かつて、カレラ・デ・エウタナシオであった。
身分階級制度があるタラリオン王国において、支配者層に当たる貴族は、その名の前に、フォン、デ、ド、ヴァンなどの前置詞を使い、自分の立場が支配者であることを主張する。カレラという少女は、幼いときに、名の前から前置詞をなくした。かつて、カレラ・エウタナシオは貴族令嬢だった、そんな話である。十年前、エウタナシオ家は爵位を剥奪されて平民になった。
わたしが、ほんの小さいときの話――。
紫色の
嘘、うそ、これはうそ――。
陽光を引き連れて舞う天使の群れを見つめているうちに、声を上げて笑いそうになったカレラは慌ててまぶたを閉じた。
まぶたの裏が少女の記憶を辿る
エウタナシオ家の長の爵位は男爵だった。
王都の利権を支配する十三人の侯爵の配下の配下そのまた配下。男爵は末端貴族の立場になる。カレラの父親――エウタナシオ男爵は務めていた区役所で問題を起こして――期末決算の金額が合わない云々だとか、これは監督責任問題だとか、幼いカレラが覚えているのは父親と母親が交わしていた会話の断片だけ――罪に問われた。そして、紆余曲折あった挙句、エウタナシオ家は爵位を剥奪された。
外でも家でも物静かだったお父様が悪事をはたらくとは思えない。
もしかしたら、お父様は貴族の権力争いに巻き込まれてしまったのかな――。
十六歳の今になってカレラはそう考えている。
ともあれ、貴族身分を剥奪されたエウタナシオ一家は、城下街の小さな屋敷を売り払って、十二番区の下街へ居を移した。そこで、平民となったエウタナシオ一家は、父と母、それに兄と妹の四人家族で生活を始めた。カレラの母親は細々とした働き口を見つけて小銭を稼いだ。カレラは父親は窓際に置かれた揺り椅子に座ってジンを――無色の強い酒を陽も高いうちから飲み続けた。家族は酒浸りになった父親へ何もいわなかった。カレラの父親は普段から温厚な男で、酒に酔っても温厚なのは変わらず、家族に手を上げるどころか声を荒げることすらしなかったのだ。貴族をやめて、温厚な飲んだくれに転職をした父親は無職になった暇ついでだったのか、幼いカレラを可愛がってよく一緒に遊んだ。カレラも父親が大好きだったが、しかし、ジンの強い匂いだけは最後の最後まで好きになれなかった。
きっと、お父さまも、あのお酒、ほんとうは好きではなかったのだろうな。
いつも、あんなに顔をしかめて飲んでいたのだから――。
カレラはずっとそう考えている。
結局、カレラの父親は酒で肝臓を壊して早くに死んだ。
カレラの母親はおそらく屍鬼動乱の犠牲になって死んだ。
クズ拾いのような仕事をしている最中、屍鬼動乱に巻き込まれて行方不明になったカレラの母親は死体が残らなかったからおそらくになる。お母様の酷い姿を見せて、わたしへこれ以上の苦しみを与えないように、
取りとめもないこと、わたしは考えているね――。
カレラはベッドの脇の時計を見やった。
時計の短針は三の数字を差している。時計板にある昼夜を示す細工盤に笑顔の太陽があった。昼の三時だ。カレラがいるこの部屋は昼夜を知る手段がこの細工時計の他にない。豪華な調度品が並ぶ広い部屋ではある。豪華で広いのだがたいていの部屋に備わっているものがこの部屋にはない。窓がひとつもないのである。溜息を吐いたカレラは身を起こそうとしたが、青息吐息の様相で寝返りを打つのがやっとだった。明るいブラウンの髪が、カレラの白い頬へかかっている。そのカレラの耳を、ころころ笑い声がくすぐる。
やだ、わたし、まだはだかのまま――。
自分の裸体を舐める視線を感じて、カレラの頬が赤く染まった。カレラは視線を惑わせたがベッドの上に裸を隠せそうなものは何もない。泣きたい気分でカレラは身体を丸めた。垂れ幕の向こうにいるひと影の笑い声が大きくなる。ベッドの天蓋から下がった垂れ幕はごく薄い。カレラの裸体は垂れ幕の外からでも見える。
その垂れ幕越しに、椅子の上で笑うひと影があった。
その後ろには男が並んでいる。
部屋にいるものはみんなカレラを眺めていた。
お願い、見ないで――。
顔を真っ赤にしたカレラは恨めし気な視線を垂れ幕の向こうへ送った。普段は表情の動きが少ないカレラが、昂ぶった感情を見せると、銀ぶち眼鏡と地味な性格で隠されている可愛気が表面に浮き上がって、むしろ、他人の目を余計に惹きつける。
その自覚が本人にない。
ベッドの上で悶える可憐に惹かれたのか――。
笑い声の主が椅子から立ち上がって垂れ幕を割った。カレラの前に姿を現したのは女だった。女の羽織った黒いローブの前がはだけている。女の首元から胸を経由して下腹部を通過し、
カレラはベッドへ肘をついて半身を起こした。その肘が震えている。
妖しの女はローブを足元へ落として、漆黒の色香をくゆらせながら、カレラへにじり寄った。
「ひゃ、らぁ!」
カレラは悲鳴を上げた。呂律が回っていない。カレラをベッドへ結わえつけている倦怠感は舌の上でも這いずり回っていた。
これ以上されたら、わたし、壊れちゃう――。
カレラの頭にここまで妖しの女が執拗に繰り返した行為が浮かぶ。邪淫の記憶が少女の心臓を強く打って、カレラ息を荒げた。カレラはまだ恥じらっている。しかし、カレラの肉体は、そうなる前から純潔を失っていたし、今は、その人間性さえも――。
初めてカレラがこの部屋へ連れてこられたとき、
「何だ、おぬし、すでに
驚いたように、呆れたように、妖しの女はいった。
カレラはとうとう耐え切れなくなってベッドの上へまた崩れ落ちた。
あれはお屋敷のテオドール様が無理矢理。
わたしはそういうのじゃない。
ちがう、ちがう――。
ベッドのシーツにカレラは顔を押しつけた。妖しの女は笑いながらカレラに覆いかぶさった。そのふとももを妖しの女の白い指先が這う。カレラの太ももが血で濡れていた。女の生理現象ではない。人間性を失いつつあるカレラの肉体からはその現象がすでに消失している。太ももの内側に小さな穴が二つある。そこから血が溢れ出していた。怪しの女が、その血を舌ですくいつつ、少女の女を掻き混ぜると、カレラは背を反らせて鳴いた。
開いた唇のなかで、鋭い牙が二本、濡れて光っている。
§
「――教会の
ユキが絵本を読み終わった。
若い
三呼吸分くらい沈黙していたツクシが、
「ユキ、これってめでたいのか?」
ツクシは絵本の禍々しい結末を凝視している。
「でも吸血鬼は絶対に許しちゃいけないんだって。聖教会のひとたちは、みんな、そういうよ?」
ツクシの上に座るユキは無表情だ。
「――よくわからんぞ。この若い男と病気の女の子は吸血鬼の婆さんに頼み込んで、吸血鬼になったんだよな。それでも聖教会は絶対に許さんって話なのか。こいつらは誰にも迷惑をかけてないだろ。吸血鬼の婆さんも洞窟の奥でひっそり暮らしてたんだろ?」
ツクシは絵本の内容に関する苦情を聞かせた。
「うん――」
ユキがこくんと頷いた。
「かわいそうだろ、そうだよな、ユキ?」
もしかすると、猫娘の感情は人間のそれと構造が若干違うのか――。
ツクシは心配になっている。
「――そうだよね。わたし、このお話、きらい。好きなひとと、ずっと一緒にいたいと思うのは、ふつうだもん」
ユキが髪の毛と猫耳でツクシの首元をくすぐった。
今、この猫の喉をさすると、やはりゴロゴロ鳴るのだろうか――。
ツクシは細まった猫っぽい瞳をじっと見つめた。
「――ユキ、お昼の休憩は終わりよお!」
貸し部屋の外から呼んだミュカレの声がユキ先生の授業の終わりを告げた。
「うん、すぐ行く! ツクシ、わたし、おしごとにいかなきゃ。続きはまたあしたね」
ユキは椅子代わりにしていたツクシから飛び降りた。
床に着地したユキの足は音をほとんど鳴らさない。
半獣人のユキの動きはしなやかである。
「おう、ありがとうな、ユキ」
今日もツクシはユキからエスト・オプティカ語の読み方を教えてもらっていたのだが、あまり収穫はなかった。
せめて、辞書があればな――。
ツクシは絵本に書かれている小難しく捻くれた異界の文字列を睨んだ。もっとも、辞書があっても、この男は勉強熱心でないので、その効果は怪しいものだ。案の定、すぐ自習を諦めたツクシが顔を上げると、ユキはシャツを脱ぎかけたまま、ツクシをじっと見つめていた。
ベッドの上にはユキの作業着が脱ぎ捨ててある。
ここでユキは着替えるようだ。
「ツクシ、見てるの? 別にいいけど――」
出てって欲しいような、そうでもないような。
頬の血色を良くしたユキの、そんな態度だった。
ユキのしっぽがにゅるんにゅるん揺れている。
「おう。まあ、俺は
ツクシがベッドから腰を上げた。このツクシがカントレイア世界に迷い込んでから、早くも一ヶ月と半月が経とうとしている。未だ日本へ帰還する手段は見つかっていない。この世界の文字はとても複雑で難しい。ゴルゴダ酒場宿にあるツクシの借金は減る気配がない。それに加えて、ユキが最近、妙な色目を使うようになった。
ああもう、色々と面倒だぜ――。
ツクシは溜息を吐いて貸し部屋を出ていった。
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