六節 奇跡の執行者
我に返ったゴロウが、倒れたユキのもとへ駆け寄って、その頭を覆っていたフードを剥ぎ取った。そこにあったのは垢と泥に塗れて固まった焦げ茶色の頭である。
泥で作ったヘルメットみてェな髪型だ、本当に汚ねェ――。
ツクシは顔をしかめた。
ユキの汚い頭を抱え上げたゴロウが、その頬へビンタをビシビシくれつつ、
「おい、ユキ、大丈夫かァ、しっかりしろォ!」
「ゴロウ、そんな乱暴にするなよう!」
駆け寄ってきたモグラが非難した。
「だ、大丈夫か、ユキ!」
ヤーコフも泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
真っ赤な顔で駆け寄ってきたチムールが腰を屈めて、
「おい、ユキよ、目を開けろよ!」
ゴロウの往復ビンタが効いたのか、怒鳴り声が功を奏したのかは、わからない。
「――んぐぅ」
呻き声と一緒にユキが目を開いた。
「目を開けたな、ユキ。ほれ、気付けの薬酒だ。強いからな、一口だけぐいっとやれ」
緊張していた髭面をゆるめたゴロウが懐からスケットル・ボトルを取り出して飲み口をユキの鼻先へ近づけた。
「い、いらない! ゴロウ、これ、すごく臭い!」
ユキは手と足をジタバタさせている。
「あんだよォ。まァ、それだけ元気なら平気だな。俺に心配をかけさせるんじゃねえよ、まったくよォ――」
大きな溜息を吐いたゴロウの背へ、
「ゴロウ! 俺の嫁さんを――アナーシャを診てやってくれ。ち、血が止まらないんだよ、ゴロウ、頼む!」
ゴロウを呼んだのはファングに噛まれたアナーシャを介抱してたトニーだ。
どうも、このトニーとアナーシャは夫婦らしい。
「おっと、ようやく俺の仕事かァ――?」
ニンマリ笑顔のゴロウが鉄の錫杖を突きながら、へたりこんだアナーシャに寄っていった。その周辺にネスト・ポーターが集まって心配そうにしている。アナーシャの腕には包帯が巻かれていた。包帯から血が染み出ている。出血は止まっていない――。
「おーい、モグラ、俺の背嚢をこっちへ持って来い!」
駆け寄ったモグラがゴロウへ背嚢を手渡した。背嚢から鋏を取り出したゴロウは、アナーシャの腕に巻かれた包帯を切った。アナーシャの腕の傷口が露になる。傷口が外気に触れただけでアナーシャの顔がさらに歪んだ。ゴロウは指で女の二の腕にある動脈を押さえて止血をしている。血は流れない。
ゴロウがアナーシャの腕の傷を眺めながら、
「――傷を洗ったのか?」
「あ、ああ、火酒で――」
トニーが呻くようにして応えた。
「素人判断はだめだ。裂傷を洗うときは消毒した水を使え。しかし、こりゃあ、ひでえな。傷口から骨が見えてらァ。総指伸筋付近の裂傷が一番大きい。まずここへ治癒の導式を執行する。次に、ディゲレリオール・ウルプス感染症のワクチンを打つ。あとは野犬熱抑制剤の経口投薬と、ついでに頓服もやっとくか――ええと、いくらだったかなァ――導式執行費と薬代、消費税も合わせて――金貨十四枚と銀貨八枚、少銀貨五枚、銅貨が八枚だ。おっしゃ、先払いだ、今すぐ金を払え、金が先だ」
ゴロウは懐から取り出した料金表を眺めている。トニーは元から青かった顔をさらに青くした。きっ、と顔を上げたアナーシャがゴロウの髭面を睨んだ。ゴロウはまだ自分の作った料金票を見つめている。気難しい顔だ。
「――そっ、そんな大金を払えるわけないでしょ。この、赤鬼!」
アナーシャが吼えた。
ファングに噛まれた傷は重症だが案外と元気な声である。
「ゴロウ、今、俺たちは手持ちがないんだ。あとから金を払う。だから、はやく、アナーシャを治療してやってくれよ。頼むよ、ゴロウ!」
トニーがゴロウに泣きついた。
トニーの真っ青になった顔へ目を向けたゴロウは、
「はァん――まァ、後払いでもいいけどよォ。今、持ってる金は全部ここで払えよなァ。後払いの分は取り立てに行ってやるから王国市民証明証を出せやい。住所の確認をするからよォ」
「お、俺は、その浮浪民で、その――」
うつむいたトニーは言葉を濁した。
溜息を吐いたゴロウが、
「――はァ。だよなァ、そうだろうよ。どうせこの女だって浮浪民だろ。また俺は貧乏クジってわけだ。まァ、いいや。あとでお前らの
「わかった。か、金は必ず用意する。だから、ゴロウ、アナーシャを必ず治してくれ。俺はトニー・アントニオだ。いまの
「ああもう、わかった、わかった! それはあとで聞く。よし、トニー、ちょっと手を貸せ。止血をしながら導式を執行する。おら、そこだ、腕のくぼみの上だ、そこだ、俺が押さえてた箇所だよ、ああもっと上! トロくせぇなァ――ああ、そこ、そこだ、そこを強く押さえてろ。ついでに、この女を動かさねェようにしっかり押さえつけておけよ――おっしゃ、始めるぞ。アナーシャ。動くなよ、絶対に動くなよ。御子エリファウスの敬虔なる使徒、布教師ゴロウ・ギラマンの名において式を執行する。導式陣・
ゴロウがアナーシャの傷口へ右手をかざして高速で呟き始めた。それは言葉ではなかった。言葉を模した鍵だ。運命の潮流を制御する鍵穴に差し込むために口述する鍵だった。ゴロウの黒い手甲にある秘石――月影石が構造化されたゴロウの精神と共鳴すると、その手先から金色に輝く円環が発現する。それが、きらめき、連結され、運命の潮流を制御する機構――導式陣を生成する。
ゴロウのの髭面を汗が玉になって滑り落ちた。周囲のネスト・ポーターはゴロウがする軌跡の執行を黙って見守っていた。トニーも同様だ。ツクシも凝視している。
長い時間はかからなかった。
ゴロウが口述鍵の詠唱を止めて大きく息を吐くと、アナーシャの腕の傷は塞がっていた。
アナーシャは傷の消えた自分の腕を見つめて、
「布教師の治療を受けたの今日が初めて。こんな――すごい――」
それ以上の言葉がでない。アナーシャに寄り添っていたトニーも絶句している。ゴロウが背嚢から薬瓶と大きな注射器を取り出した。注射器へ薬品を吸わせたゴロウがアナーシャの腕へそれを叩き込む。ゴロウも無言だった。その注射器は指を通す穴が二つあって、針がやたら太い。これに刺されたら実に痛そうだ。実際、アナーシャは悲鳴を上げた。ナターシャの悲鳴を聞いたトニーも痛そうな顔をしている。
「うっわ、痛そう――」
顔をしかめたのはツクシの横にいたユキだ。ユキはもう立って歩けるようだった。マントのフードをユキはまた目深にかぶっている。
「あれが
ツクシが感嘆の声を上げた。
「イシャってよ、何をいっているんだよ?」
チムールがツクシへ怪訝な顔を向けた。
「――
少し考えたあと、ツクシがいい直した。
「ああ、ゴロウのことかよ。あいつはああやってよ、ネストの怪我人や病人からよ、銭をムシりとるんだよ」
チムールが唇の端を歪めた。
初めてチムールの笑っているところを見たな――。
ツクシは考えつつ、
「それで、ゴロウは儲けているのか?」
銭が儲かる儲からないの話題は、すべての大人にとって重要である。異世界でもそれは変わらないらしい。
気難しいチムールの口もついつい軽くなって、
「さぁな――でもよ、ゴロウの野郎はかなり貯め込んでいると思うよ。十三番区界隈じゃあドケチで有名なモグリの布教師なんだよ」
チムールの視線の先で治療を終えたゴロウが、トニーから聞いた所在地を手元のメモ帳に書き込んでいる。
「で、でも、チムール。何でゴロウさん、ネスト・ポーターなんかやっているんだろうな。エリファウスの診療所に勤めれば、もっと稼ぎはいい筈だろ。ゴロウさんの布教師としての腕は間違いない。ど、どう見たって一流だ!」
ヤーコフがいうと、
「――ヤーコフよ?」
チムールが横目でヤーコフを睨んだ。
「あ、ああ、すまん。そうだった。おれたち身の上話しない。そうだった――」
ヤーコフが背を丸めた。
ツクシはトニーとアナーシャを眺めながら、
「過去は詮索しないか?」
トニーとアナーシャの治療費分割払い要請にゴロウは嫌々応対している。
チムールが頷いて、
「ま、そういうことだよ。ネスト・ポーターをやる奴はよ、スネに傷のある奴だって多いよ。それによ、ネストのなかでお互い下手な同情心が芽生えると共倒れになりかねないよ。身の上話はなるべくしないのがネストの流儀だよ。覚えとけよ、ツクシよ」
ここでチムールは初めてツクシを名前を口にした。
「と、ところでツクシさん、す、すごい剣術だったな。どど、どこで学んだんだ、や、やっぱり倭国なのか。すると、ツ、ツクシさんは噂に聞く、サ、サムライ・ナイトなのか! お、おれは、あんなすごい剣術、見たことが――!」
ヤーコフがツクシに詰め寄った。
これを訊きたくて仕方がなかった、そんな感じだった。
「ヤーコフよ、お前はよ、俺の話を聞いていたのかよ?」
チムールがヤーコフを睨んだ。
「あっ、ああ、すまんすまん、チムール。おれは馬鹿だ、本当に馬鹿だよな――」
ヤーコフが大きな背を小さく丸めた。
「はあ、もういいよ――それによ、ヤーコフよ。お前は馬鹿じゃねえよ。そんな言い方をするなよ。ゴロウの治療は終わったよ。そろそろ行こうよ。もうすぐ地上へ帰れるよ。太陽が恋しいよ――」
チムールが溜息と一緒に踵を返した。ヤーコフから「何者か」を問われたツクシは、もう一度、ファングの死体へ目を向けた。胴を二つに両断された犬の死体は何も答えてくれない。その返答の代わりに、ツクシの視界で何か光った。眉根を寄せたツクシが光るそれを拾い上げた。直径三センチくらいの透き通った青い石だ。宝石のように見える。落ちていた場所的にファングの内臓から転がり出てきたもののようだ。
一部の脊椎動物は、石を食って消化を助ける習性がある。
しかし、犬はそうだったか――。
ツクシが手にした青い石を眺めていると、
「おーい、ツクシ、もう行くぞォ!」
ゴロウが怒鳴った。「ああ――」と、生返事をしたツクシがゴロウの背を追った。前を行く隊列と後方に留まっていたネスト・ポーターの数十人は離れていた。先行する隊列に追いつくのを諦めたネスト・ポーターたちはひと塊になって進む。しかし、その顔には不安がない。
あのおかしな帽子をかぶった男が俺たちについている。
あの薄暗がりの外套に黒い革鎧の剣士は兵士どもよりもずっと頼りになる。
あの『カタナ』を持った剣士と一緒にいれば、俺たちは生きて地上へ帰れる――。
好奇心と敬意が入り混じった視線がツクシへ集中している。
ツクシは不機嫌な顔をうつむき加減にして歩いているだけだ。
「なあ、なあ、ツクシ、ツクシ! オイラにもあの剣術を教えてくれよう。あれは導式剣術なんだよなあ! なあ、なあ、教えてくれよう、なあ!」
こういうとき子供は遠慮をしないのだ。
モグラがツクシにまとわりついてせがんでいる。
「モグラな、そんなことをいわれてもな――」
ツクシは顔をしかめて笑みを浮かべるモグラの丸い顔を見やった。
ファングをどう斬ったのかツクシは自分でも説明できない。
「――まあ、モグラ。それは、また今度な。ゴロウ、これを拾った。珍しいものなのか?」
ツクシは拾った青い石をゴロウの目の前に突き出した。
その石をツクシの手からさっとひったくったゴロウが、
「――ん、おっ、おお。い、石ころだよなァ。おお、こりゃあ、また、でっかい石ころだァ。でかくて珍しい色の石ころだが価値はたぶんないぞォ――」
ゴロウが青い石を懐へ入れようとすると、今度はそのゴロウの手からユキが青い石をひったくった。
「うわあっ!」
ゴロウの髭面がわかりやすく驚いた。
元々丸い目が、さらに丸くなっている。
皿のようである。
本当にわかりやすい男だな、これは博打で絶対に勝てないわけだ――。
呆れ顔のツクシへ青い石を返したユキが、
「ツクシ、これ
「ああ、よくわからんが、これは
藍玉というとアクアマリンってとこかな――。
ツクシは青い石を眺めて首を捻った。
見たところ秘石とやらの見た目は元いた世界の宝石と大差があるように思えない。
「ユキはよォ、余計なことをいいやがってよォ――」
ゴロウはツクシの手にある藍玉に視線が釘付けだ。
「ユキ、これは――藍玉ってのは、どこかで買い取ってもらえるか?」
こちらの世界では貴重品のようだ。
なら、売ってしまおう――。
ツクシは即決した。
おそらく、ゴロウだって同じ考えなのだろうな――。
ツクシはそう考えてもいる。
「導式細工具屋さんはネストの向かいにある。オレがばしょ教えてあげる」
ユキがいった。
「ネストの向かいってよォ――ツクシじゃあ、あの店の業つく親父との交渉は無理だぜ。だから、俺にそれを貸しとけよ、銭に換えてやる。悪いことはいわねえからよォ、なァ、なァなァ?」
ゴロウの猫なで声だ。
態度も卑屈で気持ち悪い。
ツクシが気持ち悪い髭面へ横目で視線を送っていると、
「ゴロウはだめ。ツクシ、オレがついていく」
ユキが強い調子でいった。
「ユキ、大人しく宿へ帰れやい――」
ゴロウは唸ったが迫力がなかった。
「ゴロウ、すごくケチだから。お金が絡んだらしんようしないほうがいいよ」
ユキはツクシへ顔を向けた。
ツクシを見つめる琥珀色の瞳が真剣そのものである。
頼もしい
ユキに視線を返したツクシの口角がゆるくなる。
「ああなァ、ユキよォ、俺ァ、ツクシへ親切心でだなァ――」
ゴロウの強欲な髭面をキッと睨んだユキが、
「うっさい、黙れ、このケチ、ドケチのモジャモジャ!」
「ゴロウの、ド毛チンボ、ド毛チンボ!」
モグラも面白半分で参加した。
言葉に詰まったゴロウは苦々しげに眉尻を下げた。
帰り道で屍鬼一体と遭遇したがこれは難なく処理され、ウルズ組の作業は全員地上へ帰還した。ツクシたちはネスト管理省庁舎の一階受付に立ち寄って、そこで認識票を返却した。受付にいた事務員は、おばちゃんパーマの上にバイザーのない帽子をかぶった女性の事務員だ。
この世界でもおばちゃんパーマというのか――。
くだらないことをツクシは考えている。
おばちゃんパーマの事務員はカウンターにあったレジスターのような機械の投入口に認識票を突っ込んだ。すると、機械にあったドラム型の数字表記部分が回転したあと、「ジャキン、ジャキン、チーン」と停止して下の排出口から硬貨が出てくる。スロット・マシーンみたいである。
クジョー・ツクシの賃金――金貨二枚、銀貨が二枚、少銀貨が五枚。
ネストのなかでは一食分に銀貨二枚を出せばお釣りが返ってきた。
日本円で考えるとネスト・ポーターの日当は諭吉二枚ていどか。
しかし、ネスト行商は割高らしいから、諭吉三枚くらいになるのか。
まあ、金はそう悪くないのかな――。
ツクシはそんな適当な計算をしながら賃金を受け取った。
ネスト管理省の正面大正門でチムールとヤーコフと別れたツクシは、ユキに案内されて導式具細工店へ向かった。ゴロウから銀貨三枚を徴収したモグラもついてきた。ゴロウも無言でついてきた。目尻を吊り上げたユキが唸った。モグラも「帰れ、ゴロウ、帰れ!」と加勢する。それを何度か繰り返すと髭面を曲げてゴロウは姿を消した。
ツクシ、ユキ、モグラの三人が、ネスト前大通りから南の小路へ入った。その界隈は雑貨を売る商店が多いようだ。ツクシが商店街のあちこちへ視線を送りながら歩いていると、視線の先に見覚えのあるデザインの看板があった。ゴロウが手先から発現させた導式陣とよく似たデザインだ。看板にはその導式陣と一緒に『トムの導式具細工店』と書かれている。もっとも、ツクシはカントレイア世界の文字が読めない。ユキがツクシにそう教えた。
「オレ、エスト・オプティカが読めるんだ」
ユキは顎を上げて「ふふん」と自慢気だ。
トムの導式具細工店の前で足を止めたツクシが、
「エスト・オプオプ――ユキ、それは何だ?」
「エスト・オプティカはタラリオン王国で使われてることばだよ」
「ああ、この国の公用語のことか」
「ヒト族はエスト・オプティカを話すの」
「へえ、ユキは学校へ――ああ、
「アカデミーはいったことない。よみかきはママンが教えてくれた――」
瞳を伏せたユキの声が暗かった。ゴルゴダ・ギャングスタのメンバーに親はいない。グェンはそういっていた。おそらく、ユキの母親もこの世にいない。横のモグラもうつむいている。ツクシは会話を打ち切ってトムの導式具細工店へ入店した。
開き戸を開けると下がっていた呼び鈴がカラカラ鳴った。
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