五節 零の斬撃
ネスト地下三階層の上がりエレベーター・キャンプで起床ラッパの音が鳴る。
ネスト・ポーターたちが、のそのそと身を起こして、朝食をとり始めた。
木皿に盛られた
これがツクシが行商から調達した朝食である。昨晩の謎肉シチューに比べればずっとマシな味だった。ツクシはついでに近くの屋台で売られていた野菜ジュースらしき飲料に挑戦した。屋台の店主がいうには「健康にとてもいい飲料」だとのことだ。ユキとモグラは、「ツクシ、飲まないほうがいいよ」と、真剣な顔で忠告した。ツクシは子供の忠告を素直に聞くような男でない。そのネスト行商は樽からをドロっとした黄緑色の液体を木のコップに注いで、ツクシにそれを手渡した。値段は一杯で少銀貨二枚だった。腰に手を当ててコップの液体を飲むツクシの不機嫌な顔が歪んでいった。顔色を青くしたツクシを見てヤーコフが笑い、チムールは横を向いて笑いを堪えている。ツクシが飲んだその黄緑の液体は耐え難いほど苦く、そして、頭痛を引き起こすほどまで酸っぱいものだった。喉越しも粘っこくて本当に最悪の味である。
これを男の意地で一気飲みして、ツクシが唸った。
「――クソを飲んだことはないが、たぶん、クソのように不味いぞ。これって青汁なのか?」
「いや、ツクシ。それは青汁でなくて、黄緑虫の絞り汁だぞ」
ゴロウが教えた。ツクシが飲んだのは虫の搾り汁らしい。ツクシは朝食を吐きそうになった。そうこうしているうちに、ボルドウ小隊長の居丈高な号令で、荷の積み込み作業を終えたウルズ組は下りエレベーター・キャンプへ向けて出発した。昨日と同じ作業工程である。その道中、輸送隊列は屍鬼と遭遇した。輸送隊列の前に出現したこれらはボルドウ輸送警備小隊の手で処理された。隊列の後ろにいたツクシが見たのは地面に横たわった二つの死体だ。また両方とも女だった。大坑道の脇道から顔を覗かせた二匹のファングが二つの女の死体をじっと見つめている。
ウルズ組はそのあと無事、下りエレベーター・キャンプに到達した。ツクシが懐中時計に目を向けると午前十時三十二分。エレベーター・キャンプ内での小休憩の最中、例によって兵士のハンスが、「今回の輸送作業は帰りの便で終了です」そう触れ回った。
ツクシが革水筒の低アルコール飲料――
「ゴロウ、兵士たちはどうやって
この段取りの良さを見ると、上にある管理省から輸送に関する細やかな指令が出ているようだ。ツクシはそう感じたのだが、しかし、伝令がネストを走り回っている気配はない。
ツクシの横で革水筒の中身を飲んでいたゴロウが
「あァ、導式通信機を使ってるんだ」
ツクシの鼻先が動いた。
ゴロウの革水筒にはワインが入っているようである。
「ドーシキ・ツウシンキ? それは口頭で通信できる機械なのか?」
ツクシが訊いた。
「いんや、口頭で通信できねえよ。紙が出てくるんだ。なんつうかな、説明が難しいなァ――その導式通信機は王国軍だけが使っている導式具なんだよ。一抱えくらいの四角い鉄の箱から印字された紙がどばどば出てくるんだ。双方向で書類を送ったり受けたりできるらしいな。エレベーター・キャンプの天幕のなかにそれがあるぜ。ただあの導式具はまだ軍の機密扱いだからよォ。詳しいことは俺にもわからねェなァ。まァ、すぐに連絡がつくってのは便利だよなァ――」
ゴロウは革水筒のワインを呷った。これまでツクシは、カントレイア世界を欧州の中世暗黒時代のようだなと考えていた。しかし、今はその認識も変わっている。
導式革命時代――。
そんな感じかも知れんな、とツクシは頷いた。
小休憩を終えたウルズ組は上がりエレベーター・キャンプへ向けて、今回は最後になる輸送を開始した。荷は軽いし、これで地上へ帰れるとあって、自然と周囲の口数も多くる。大坑道を進む輸送隊列は間延びしていた。
異界からの来訪者が出没するらしいこのネストで、異世界カントレイアから日本へ帰る手段を探ること――これがツクシの目的だ。しかし、今回はほとんど収穫がなかった。ツクシが今回ネストで得た情報は、ファングと屍鬼の存在、ネストの構造とネスト・ポーターの仕事内容、それに、ネスト行商のメシは旨いものでない、とまあこのていどだ。
まあ、最初から上手くいくとは俺のほうだって思ってねェさ――。
口角を歪めたツクシが、
「ゴロウ、ネストってのは結局、何なんだよ?」
「ツクシ、それを調べる目的で王国軍の連中がせっせと死んでいるんだろォ?」
ゴロウは呆れ顔だ。
「それもそうだよな――」
返す言葉もない。
顔を歪めたツクシは、
「じゃあ、このネストはいつ発見されたんだ。地上にあった施設は、どれも新しいものに見えたぜ?」
ネストの正体は、俺自身が探るより他ないのだろうな――。
ゴロウへ質問しながらツクシはそんなことを考えている。
「発見ってよりなァ、出現したってほうが正しいだろうな。ネストの出現したのは今から一年とちょっと前らしい。もっとも、その当時、俺ァ王都にいなかった。だから、ひとから聞いた話しか知らねえけどなァ」
ゴロウはよく知らないらしい。
ツクシは生ゴミの積まれたリヤカーを引くヤーコフと、その横を歩いていたチムールへ視線を送って、
「チムールとヤーコフはネストが出現したときのことを知ってるか?」
「お、おれもそれは詳しく知らないんだ。悪いな、ツクシさん――」
ヤーコフは申し訳なさそうな顔になった。
「魔帝軍に追われた俺とヤーコフが王都へ流れてきたのはよ、ゴロウと同じくらいの時期だったからよ――」
チムールが横を向いたままいった。
収穫なしか、一筋縄じゃあいかねェなあ――。
視線を落したツクシへゴロウがいった。
「ツクシ、聞いた話でよけりゃあ教えてやるぜ。ネスト管理省の敷地はな。元々は西にあるゴルゴダ墓場の敷地内だったんだ。ある日、ゴルゴダ墓場の東にある地面が陥没した。大穴だったらしいなァ」
「いきなり、そこから異形種とやらが出てきたのか?」
「いや、そうじゃあねェんだ」
ゴロウが話を続けた――。
帝歴一〇一一年。
帝歴一〇一二年現在から一年前の話になる。ゴルゴダ墓場の敷地の一部が陥没した。何の前触れもなかった。大雨が降ったわけでもない。地震が起こったわけでもない。一夜明けるとぽっかり大穴が空いていた。当初、タラリオン王国政府はこの穴を、「放っておくのも危険だろうな」そんな判断で金網で塞いだ。
どこにでも、こういう人間はいるものだ。
近隣住民の物好きが何人か穴のなかへ入って帰ってこなかった。市井のひとが消えたところで、ようやくタラリオン政府が重い腰を上げた。内務大臣が冒険者管理協会を通して、穴の探索を依頼したのである。この穴へ派遣されたのは『
屍鬼動乱である。
ゴルゴダ墓場に穴が出現して二週間後だ。深夜、ゴルゴダ墓場に葬られていた死体が次々と屍鬼と化して市街へと出没、王都十三番区を中心に住民を襲った。このときに出た市民の犠牲者は三千人とも四千人ともいわれるが正確な数字は不明である。この事態を受けたタラリオン政府は、北部戦線へ向かう予定だった旅団――兵員にして一万人に近い兵力を王都十三番区ゴルゴダを中心に展開、屍鬼動乱の鎮圧に当たった。
屍鬼動乱を制圧後、王国軍は穴周辺に基地を作って侵攻を開始――。
語り終えたゴロウが視線を上にやって、
「ただよォ、ツクシ。俺ァ、どうもこの話、腑に落ちねェんだよなァ――」
「軍の対応が早すぎる」
ツクシが呟くようにいった。
ゴロウが手を打って、
「あァ、そうだそれだ! 多分よォ、最初に穴へ探索に入った時点で王国軍は何かを掴んでいたんだ。たぶん、例の導式通信機を持って入ったんだろうしな。地上と連絡もつくだろォ?」
「そのとき王国軍は異形種と遭遇したのか?」
「それは、わからねェが――とにかく、王国軍は穴のなかでヤバイ何かを見たんだろうなァ。屍鬼動乱以降、王国軍は穴の周辺を基地にした。周辺の道路まで整備する念の入れようだぜ。いつの間にか元老院の主導で穴を管理する省庁まで作られていた。ドワーフ公国から導式機械技師を呼んで、導式エレベーターを内部にこさえた。そのうち、穴の奥から得体の知れない生き物――異形種が湧いてくる。そんな噂が王都に出回った。それで、ゴルゴダ墓場に空いた穴は、『
ゴロウが話している最中、後ろで悲鳴が二つ上がった。
「ひいっ、ひぃい、トニー、助けて、いやぁああッ!」
「アナーシャ、アナーシャア!」
男女の悲鳴だった。足を止めたツクシが振り向くと、隊列の後方を遅れて歩いて乳繰り合っていた若い男女がファングに襲われていた。ファングは女の腕に噛みついている。腕を犬に噛まれた女はズルズルと闇の中――脇道へ引きずられていた。若い男のほうは腰の短剣を抜いたがファングに凄まれて腰が引けている。最後尾にいた槍を持った中年男が、「こンの、犬畜生め!」そう罵りながら、槍の穂先をファングの脇腹へと突き立てた。ファングは悲鳴を上げない。代わりに捕らえた女の腕を口から離して咆哮した。
「オォルゥアッ!」
獣の怒りが大坑道に響く。ファングが身を捩ると土埃が上がった。ファングの脇腹に刺さった槍の柄がヘシ折れて、身体を持っていかれた中年男が悲鳴を上げた。
「――な、なんて力だ、このファング!」
「アナーシャ、しっかりしろ!」
若い男が地面に倒れた女を引きずって犬から距離を取った。
「ああっ、トニー、トニー、腕が、私の腕が!」
若い女――アナーシャが泣き喚いた。
「このファング、大きすぎる――」
「みんな、下がれ!」
「ファングに背を向けるな、ゆっくりとだ!」
「こいつは飛び道具で片付けるしかねえ、兵隊さんらを呼べ!」
隊列の後方にいた男たちが怒鳴った。
「ピィィィィィィィイ!」
輸送隊列最後尾にいたリヤカー班の班長が警笛を鳴らした。後方にいたネスト・ポーターたちはその場に荷を置いて、ツクシのいるほうへジリジリ後退してくる。脇腹に槍の穂先を残したままファングはその眼球に餌を映して唸った。黄ばんだ牙が並んだ口から涎が長く糸を引いて地面を濡らした。飢えて血走ったその目に映ったのは子供だった。
「――あァ、ユキ、しまった、くっそおっ!」
ゴロウが叫んだ。輸送隊列の最後尾だ。ペタンと腰を落としたユキがファングを見つめていた。ユキは疲労で足が遅れていた。雑談に気を取られていたツクシたちはユキから目を離していた。気丈なユキは歯を食いしばって大人たちの歩みを必死で追っていたのだが、ずるずると、ツクシの背から離れていた。
そして、今のユキはファングに怯えて動けなくなっている。
チムールが
「新入り、邪魔だよ、そこをどけよ!」
「ツ、ツクシさん、チムールの射線に入ってる!」
ヤーコフも必死の形相で怒鳴った。
「ツクシ、チムールの矢が背中に当たるよう!」
モグラが悲鳴を上げた。
鬼瓦のような顔つきのゴロウが、
「ツクシ、もう間に合わねえ! ここはチムールにまかせろォ!」
誰よりも早くだ。
ユキのもとへツクシが疾走している。
外套の裾をひるがえして奔るツクシの背が、チムールの目に映っていた。
あの大馬鹿野郎、このまま
チムールの視界が狂気で揺らぐ。
さて、どうするか――。
疾走しながらツクシは考える。
相手は馬鹿みたいにデカイ犬が一匹。
シベリアン・ハスキーの二倍はある体格。
所々と汚れで毛が固まって
鋭い牙がずらりと並んで突き出た口が巨大だ。
子供の頭ていどなら咥えて運べるだろう。
その獣の目が特別に薄気味悪い。
白眼が赤黒く染まって、犬の顔に木の洞が二つ並んでいるように見える。
これは、人間がまともに取っ組み合って勝てる相手じゃねェ。
それでもなあ。
俺はユキを無事に帰すと、グェンと約束をしちまったからな――。
ツクシは考える。
この犬を相手に素手で格闘するのは無理だ。
そうなると、武器が必要か――。
ツクシの右手が腰の刀の柄へ伸びた。
しかし、ここで日本刀かよ。
それ以前にだ。
この刀を俺はまだ一度も抜いてねェ。
斬れるかどうかも定かじゃねェ。
まあでも、なまくら刀でも素手よりはマシだろうぜ――。
ツクシの口角が鋭く歪み、その三白眼に殺気が満ちた。
斬れる斬れない。
今はそんなの問題じゃあねェんだよ。
俺はユキを助けるため
必ずだ。
必殺――。
駆け寄るツクシに目もくれず、ファングがユキへ踊りかかった。巨体を宙に躍らせるファングをユキは見上げている。恐怖で感覚が麻痺したユキは呆けた顔だった。そのユキの背後に疾走するツクシがいた。ツクシの右手が刀の柄にかかっている。しかし、どう見てもファングの牙がユキの喉笛へ食らいつくほうが早い。間に合わない。その筈であった。奔るツクシの足元に七色の光を散らせて魔刀が告げる。
『敵は我らの
間に合わない筈の
敵へ刃の届く距離にツクシがいる。
ツクシの出現座標はユキが位置する右斜め前。
存在すべきコンマ何秒の時間を消し去ったツクシは「そこ」へ到達した。
おい、なんだよ――。
ツクシが訊いた。
『
魔刀は白刃のきらめきで応じた。
ツクシが確信したときには、血を振るい落とした白刃が黒い鞘へ帰る途中であった。
真実必殺に残心不要。
残る心は亡者の
鯉口に納まる刃のハバキが「ぢゃっ!」と鳴って高笑い。
ファングの巨体が一刀両断、胴体から前と後ろへ真っ二つである。ユキの目の前に、犬の頭がある方の胴体が落下すると、胴の切断面から鮮血にまみれた赤と青の臓物が地面へまろびでた。獣の口から垂れた長い舌が左右に揺れて、べろ、べろ、ばあ――。
「――いっ、やぁあぁあぁあぁあぁあァ!」
ユキは悲鳴と一緒にその場に崩れ落ちた。
「な、なんだよ、あのツクシの剣術はよ?」
チムールが
「な、な、な、何か、ツクシさんが光った!」
ヤーコフが呻いた。
「ツクシの動きがおかしかったぜ。見間違えか、俺の目がおかしいのか?」
ゴロウは手の甲でゴシゴシ目を擦っている。
「ツクシ、すげえ、すげえ!」
歓声を上げたのはモグラである。他のネスト・ポーターたちも呆然と立ち尽くし、ツクシの背を見つめていた。ここにいる全員、目撃したのは糸を引くような白刃のきらめきのみである。早業――そう表現できるのか否か。ツクシが繰り出したのは誰の目にも留まらない斬撃だった。
ツクシもまたその場で憮然と佇んでいる。
「俺が斬ったのか――?」
ツクシはファングの見つめた。ファングを両断した瞬間は、ツクシにも不鮮明な感覚しか残っていない。
ツクシは自身と自身の刃が呼び寄せた結果を見つめて戸惑っている――。
だいぶ遅れてである。
ボルドウ輸送警備小隊が現場へ駆けつけてきた。周囲が安全になったのを確認してからやってきたようなタイミングだった。
「なんだあ、終わったのかあ。クソ人足どもが俺に余計な手間をとらせやがってえ――おらあ、さっさと荷を前に進めろよ、前進、前進だ!」
その遅れてきた小隊のなかでも一番に遅れてやってきたボルドウ小隊長が居丈高に喚き散らした。その近でファングに腕を噛まれたアナーシャが呻いている。ボルドウ小隊長は、傷ついた彼女にチラリと視線を送って鼻を鳴らした。
俺の仕事を増やすな、そこでさっさと死ね――。
厚い上まぶたで半分が覆われたボルドウ小隊長の目がそう告げた。アナーシャを介抱していたトニーと、その周囲にいたネスト・ポーターがボルドウ小隊長を睨んだ。
「――おーし、小隊は定位置に戻れやあ!」
ボルドウ小隊長はふんぞり返って号令した。
小隊は輸送隊列の中央へ戻っていった。
気まずそうな視線をその場に残していたハンスも、ボルドウ小隊長のあとを追った。
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