231:余波(1)

 中原暦6626年ロザリアの第1月24日。聖者の一生を懸けた南征の役は、リーデンドルフの奇跡をもって終わりを告げた。


 しかし、中原とハヌマーンとの戦いは、終わっていなかった。




 ***


 外敵の侵入を阻むはずの木の柵は瞬く間に破られ、多数のハヌマーンが雪崩れ込んで来た。


 ハヌマーン達は原始的な棍棒や剣を振りかざし、オストラの街の廃墟に肩を寄せ集めるように並び立つあばら家と粗末なテントを踏み潰して行く。薄汚れた人々が取るものも取り敢えず家の中から逃げ出して行くが、体格に勝るハヌマーンはあっという間に追い付き、手に持った得物で次々に殴り飛ばして行く。ハヌマーンの膂力によって弾き飛ばされた人々は、後続のハヌマーン達によって踏み潰され、ぼろ雑巾の様な姿で絶命していった。




「ドロテーア!早く来るんだ!」

「ま、待って、あんた!」


 ヨセフは、土に汚れぼろと化した衣服を身に纏ったまま、柵の向こうに居る妻を急き立てる。彼の妻は下の娘の手を引いたまま柵の隙間から必死の形相を浮かべるが、二人の間を繋ぐ西の門には多くの人々が殺到し、すし詰めに巻き込まれた妻と娘は容易に外に出る事ができない。妻との間を阻む柵を睨むヨセフの頭を、焦燥に彩られた、堂々巡りにも似た思考が駆け巡る。




 何故、何故私達だけが、こんな目に遭わなければならないんだ!




 オストラの街で小さな宿屋を営んでいたヨセフの、決して楽ではないながらも暖かい幸せな生活は、昨年唐突に終焉を迎えた。オストラの近郊で発生したエーデルシュタインの行く末を決める大会戦の後、多くの逃亡兵が街へと襲い掛かり、オストラの街は火に包まれた。ヨセフとその家族は辛うじて難を逃れたが、一家の生活基盤でもある小さな宿屋は火の海に包まれ、ヨセフ一家は自分達の命を除く全てを失った。


 オストラの廃墟を荒らしていた残兵達は、やがて勝者となったクリストフ軍の騎士達によって追い払われたが、騎士達はヨセフ達オストラの住人の支援を全く行おうとせず、そのまま北に向かって通り過ぎて行く。残されたオストラの住人達は、やがてクリストフ本軍によって駆り出され、オストラの戦場に転がる死体の埋葬に従事させられた後、何の保障も無しに廃墟となったオストラへと置き去りにされた。


 人々は悲嘆に暮れながらも生き永らえた命を守るべく、廃墟の中で新しい生活を始める。内乱の影響で治安が悪化した西部には盗賊が蔓延り、オストラの廃墟はたびたび盗賊に襲われた。盗賊達は廃墟の中に金目の物がないか探し回り、鬱憤晴らしに住人の命を奪っていき、ヨセフの上の娘は荒くれ共の慰み者になって、連れ去られた。ヨセフと妻は、下の娘を隠して息を殺し、上の娘への懺悔と盗賊達への呪詛の言葉を繰り返しながら、嵐が通り過ぎるのを待つ他になかった。




「…あ、あ、ああああああ…」


 柵の向こうを眺めたまま、ヨセフは喘ぐように唇を震わせる。


 私達がそうしてまで、辛酸を舐めながら無様に生き永らえて来たのは、この様な結末を迎えるためだったのか!?




 ヨセフの手の届かない、柵の向こうから、悲鳴と断末魔が繰り返される。


「た、助けて…!」

「ああああああああああああ!」

「□×〇$$# ▽*@□ \\〇△〇$%!」

「ど、どいて…ぎゃあっ!」

「%$$*□ $&&〇△ \〇!」

「あんたぁ!あんたぁ!」

「お父!お父!」

「ドロテーア…、ニーナ…」


 柵の隙間から腕を伸ばし、涙を流す妻の向こうに血飛沫が上がり、人々が将棋倒しになる。人々に揉まれ、すでに柵に磔になったまま宙を舞う赤い水に塗れ、叫び声を上げる妻と娘の姿を、ヨセフはただ涙を流しながら眺めている。


「あんたぁ!あん」

「×△$%% @*□+○○ %&&▽!」

「…ひ!ひいぃぃぃ!?」


 突如、柵の隙間から見えていた妻の顔が消え、茶色の長い毛に覆われたハヌマーンの顔に挿し代わった。尻餅をつき後ずさりをするヨセフの目の前で、ハヌマーンは妻の残された胴体を柵から引き剥がすと、柵の隙間から消え去って行く。


「ドロテーアぁ!ニーナぁ!あああああああああああああああああああああ!」


 ヨセフは尻餅をついた体を反転させ、四つ這いになって無様に泣きながら柵から離れ、オストラの西へと駆け出して行く。そこには、かつての妻や下の娘との暖かい暮らしへの懐古も、二人を失った悲しみも、彼らを陥れたこの世界への怒りもない。


 ただただ、この場に居たくないという、幼児にも似た純粋なまでの逃避願望に塗り潰されていた。




 ***


 ヴェルツブルグに突入したハヌマーン軍は、柊也の反撃を受け、崩壊した。


 49,000を数えたハヌマーンは、間断なく襲い掛かる「ロザリアの槍」の前に次々と斃れ、ヴェルツブルグから脱出できたのは僅かに27,000。しかも、聖者の制御も効かなくなったハヌマーンは、己の才覚だけを頼りに離散する他になかった。


 柊也は追撃の手を緩めず、やがてラディナ湖西岸を北上するハヌマーンに追い付くと、行き掛けの駄賃とばかりに鏖殺しながらカエリアへの旅を開始する。だが、柊也が捕捉したハヌマーンは、実は全体の半数にも満たなかったのだ。


 27,000のうち、3,000は聖者の手元に残り、12,000がラディナ湖西岸に沿って北へと逃れ、柊也に捕捉された。では、残りの12,000は、何処へ行ったか。




 西へ逃げたのである。彼らは聖者の手元に残った3,000、北上した12,000とは違い単一の集団を維持する事ができず、百頭から千頭規模のグループに分かれ、離散していく。彼らはまるで、1滴の水滴が水面に同心円状の波紋を描く様に薄く広がりながら西へ西へと進み、オストラの廃墟をはじめ、点在する村落を呑み込んで行く。


 そして、それから1ヶ月。ロザリアの第2月下旬、薄く広がったハヌマーンは国境を越え、水に浸した紙が滲んでいく様に、カラディナ東部全域に襲い掛かった。




 ***


 駐屯地に張られたひと際大きな天幕の中で、数人の男達が椅子に座り、テーブルを囲んでいる。一同の中で比較的年若い、一人の美丈夫が口を開いた。


「バルトルト、状況はどうなった?」


 彼が名を呼んだ、彼と同い年の男が軽く頭を下げ、質問に答える。


「はい、殿下。駐屯地に侵入してきたハヌマーンの数は200。正直、寡兵でしかありません。完全に意表を突かれましたので死傷者は出てしまいましたが、すでに駆逐済みです。…ただ、侵入してきた方角が問題でして…」

「…南西…か…」


 バルトルト・フォン・キルヒナーの報告を聞いたリヒャルトが腕を組み、大きく息を吐く。リヒャルトは傍らに座るギュンター・フォン・クルーグハルトの顔を見て、尋ねた。


「ギュンター、ギヴンとカラディナ軍の状況は?」

「はい。まず、我が軍の南東に展開するカラディナ軍ですが、南からハヌマーンどもの突入を受けた模様です。数は1,000。我が軍と同様、彼らもカラディナ国内側からの攻撃を想定しておらず、奇襲を受けた格好となって相当の被害が生じましたが、踏み止まりました。今のところ、我が軍への救援要請は来ておりません」

「一方、ギヴン及びラ・セリエ方面にも、相当数のハヌマーンが侵入しています。奴らは複数の集団に分かれており、ギヴンは辛うじて閉門が間に合い侵入を食い止められましたが、掃討には手が回っておりません。周辺村落は無防備となり、ハヌマーンの小集団に蹂躙されるままとなっています。ギヴンの代官より我が軍に対し救援要請が来ておりますが、如何しましょうか?」

「要請に応えろ。ギヴンからの補給は、我が軍の生命線だ。この機会に有難く恩を売っておけ」

「畏まりました」


 ギュンターが頭を下げ、背後に佇む副官に声を掛ける。ギュンターと副官のやり取りを眺めているリヒャルトに、バルトルトが尋ねた。


「しかし、殿下。このハヌマーンの攻勢、どう考えても…」

「ああ、ヴェルツブルグが陥落したとしか、思えないな…クリストフの馬鹿が!」


 リヒャルトが顔を歪め、弟を罵倒する。ハヌマーンとの戦いは場所が限定されており、史書を見返しても、北伐に伴うガリエルの地での戦いと、ハーデンブルグ近郊に限られる。ラディナ湖西岸も魔物は跋扈しているが、ハヌマーン侵入の記録はなく、リヒャルト軍が駐屯するギヴンの北東方向は今も平穏を保っている。そもそも、カラディナ共和国がハヌマーンの進攻を受けた事自体、建国以来初の大事件である。


 このハヌマーンらは、南からやって来た。つまり、ギヴンの南に位置する、エーデルシュタインとカラディナを東西に結ぶ大動脈に沿って押し寄せて来たとしか、考えられない。その推論が意味する事。それは、ハーデンブルグが陥落し、ラディナ湖東岸を南下したハヌマーンがヴェルツブルグを蹂躙して遠くカラディナまで押し寄せて来たという事。ハヌマーンの攻勢の前に、エーデルシュタインはすでに崩壊している。


「クリストフの疫病神が!王冠に目を奪われ国元を疎かにするから、亡国の憂き目を見る!後始末をする方の身にもなってみろ!」

「殿下…」


 声を荒げるリヒャルトの姿に、バルトルトは沈痛の眼差しを向ける。敬愛する主君が引き継ぐべき故国が瀕死となってしまった事、にも関わらずリヒャルト達はこの先もカラディナに留め置かれたままになるであろう事を予想し、憂いる。自分の怒気を抑え込んだリヒャルトが、バルトルトの顔を見て言葉を続ける。


「おそらくクリストフは父上とともに南部に逃れ、抵抗を続けているはずだ。我が軍も、できればヴェルツブルグ奪還に向かいたい。しかし相手は、ハーデンブルグを抜き、ヴェルツブルグを陥落させるほどの大兵力。単独では無理だ」

「はい、カラディナの支援を仰ぎ、援軍を伴わなければ、到底叶いますまい。殿下、心中察するに余りありますが、此処は曲げてご辛抱のほどを」

「ああ…」


 頭を下げるバルトルトの前で、リヒャルトは堪え切れない激情を握り潰すかのように、拳に力を籠める。




 亡国に瀕する故国を前にして、焦燥の念を浮かべるかつての王太子を嘲笑うかのように、戦いを終えた駐屯地には、澄み渡った青空が広がっていた。

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