222:無様な姿を曝け出して

「ミカぁぁぁぁ!」


 喉元にせり上がる焦燥と涙腺に流れ込む恐怖に駆られ、ゲルダは猛獣にも似た雄叫びを上げるが、彼女のあるじはその呼び声に応えてくれない。彼女は目頭に力を籠め、溢れそうになる涙を力尽くで抑え込むと、目の前で鍔迫り合いを続けるハヌマーンを睨み付け、全ての感情を喉元へと籠め、咆哮した。


「グオアァァァァァァァァァァッ!」


 咆哮と共に両腕に渾身を籠め押し出されたハルバードに負け、ハヌマーンがゲルダから離れる。すかさずゲルダは右足を振り上げ、その剛脚でハヌマーンの胸を蹴り付けると、ハヌマーンは吹き飛ばされ、山の斜面に叩きつけられた。直後、ゲルダの剛腕から振り下ろされたハルバードが極太の矢と化して心臓を貫き、ハヌマーンは斜面に縫い付けられたまま絶命する。


「きゃあぁぁぁ!」


 ゲルダはハヌマーンに突き立ったハルバードにも一顧だにせず、後ろを向いて馬車へと駆け寄る。馬車の脇ではハヌマーンがゲルダに背を向け、手に持った棍棒を横に払って、レティシアの身を庇った騎士を吹き飛ばしていた。ゲルダは無手のまま、レティシアに棍棒を振り上げるハヌマーンへ背後から襲い掛かり、左手でハヌマーンの顎を、右手でハヌマーンの頭を掴むと、力一杯横に引く。骨の砕ける音とともにハヌマーンの顔が真横になり、へたり込んだレティシアの目の前に崩れ落ちた。


「ひぃ!」


 目の前に崩れ落ちたハヌマーンに怯え、レティシアが尻餅をついたまま後ずさりするのを無視し、ゲルダは馬車の裏へと回り、隈なく探す。馬車の裏にも居ない。馬車の下にも居ない。岩棚から身を乗り出しても、居ない。ゲルダの視線の先には、7メルドほどの崖下を、昨日の雨で増水し濁流と化した川が茶色い水飛沫を上げ、荒れ狂っていた。ゲルダは体内を駆け巡る恐怖と不安を喉元へと籠め、咆哮する。


「ミカぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「え!?ゲルダ!?まさか、ミカが!?」


 尋常ならざるゲルダの雰囲気を見て、レティシアが四つん這いでゲルダの隣に並び、恐る恐る下を覗き込む。ゲルダはレティシアを無視したまま、全神経を目に集中させて川面を探し回るが、手掛かりは見つからない。


「ミカ!ミカ!頼む!返事をしてくれ!」

「ミカぁ!お願い!返事をしてぇぇぇぇぇ!」


 最後の1頭を仕留めたオズワルドが駆け寄り、レティシアを挟んでゲルダの反対側に屈みこむと、同じく岩棚から身を乗り出し、崖下に向かって声を張り上げる。三人の悲愴な呼び声は濁流に呑みこまれ、耳障りな水飛沫の音以外、返事はない。


「ミカ様ぁ!お願いです、返事をして下さい!」

「ミカ様ぁ!ミカ様ぁ!」


 伏兵を始末し、とりあえずの安全を確保した騎士達が次々に集まり、崖下に向かって悲鳴にも似た呼び掛けを繰り返す中、ゲルダが立ち上がり、オズワルドとレティシアを見下ろす。


「オズワルド、レティシア様、行くよ!」

「行くって…何処へ?」


 ゲルダの声にレティシアが顔を上げ、震え声を上げた。ゲルダはレティシアに無機質な目を向け、歯ぎしりをしながら答える。


「こんな所に用はない。下流だ。湖畔へと戻り、虱潰しで探す!」

「おい!ゲルダ!」


 そう答えるや否やゲルダはレティシアを横脇に抱え、慌てて立ち上がったオズワルドを捨て置き、降りしきる雨の中で大勢の兵士達がたむろする街道を、北へと向かって駆け抜けて行った。




 ***


「〇□%%× \$$〇 ▽×△## &&&〇!」

「@〇□$ ▽△%&& $%&&&&&…」


 空から絶え間なく降り注ぐ矢と、次々と繰り出される槍の前に、同胞達が少しずつ削られ、数を減らしていく。視界の利かない狭隘な土地での乱戦は、いつもであれば彼らに有利に働き、人族を圧倒できたであろう。だが、前々日の「三種族」と「ロザリア」の攻撃によって壊乱し、激しい雨によって消耗した今の彼らには、それを活かすだけの力が残されていなかった。聖者の策も遅きに失し、ついに、聖者の周囲を守る男達の許にも矢と槍が迫って来た。


「×□%$$@ □×@@ *△$!」


 聖者様、危ない!


「…×□%$$@…△#$$…〇〇%\…」


 聖者様を…頼んだぞ…。


 次々と襲い掛かる人族の前に供回りの者達は次々と立ちはだかり、降り注ぐ矢と振り下ろされる剣に身を刻まれながら、後顧を同胞に託し絶命していく。ハヌマーン達は、気を失ったまま今にも人族の手に奪われそうになる聖者の身を救おうと、人族の槍衾の前に飛び出し、己の命と引き換えに後続の仲間へと聖者バトンを渡す。


「×□%$$@!」


 聖者様!


 聖者の身を横抱きに抱えた屈強な男に、人族の剣が振り下ろされた。男は身を捩って聖者を庇い、その背中が深々と切り裂かれる。男は、なおも人族から逃れようと数歩進んだ後、力尽きて右に斃れ込む。そこには、切り立った崖と、濁流と化した川があった。


「「「×□%$$@&&&&&&&&&&&&&&&!」」」


 聖者様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!


 力尽きた男とともに崖下へと消えた聖者を見て、ハヌマーン達は悲鳴を上げ、人族に身を斬られながら崖下を覗き込む。そこには聖者の姿はなく、ただ全てを呑み込む茶色い水飛沫だけが、渦巻いていた。


 聖者を失ったハヌマーンは戦意を喪失し、道に沿って南へと逃走する。彼らを追っていた人族はやがて北へと引き返し、廃村には物言わぬ躯と不気味な静けさだけが残された。




 ***


「何だと!?撤退だと!?」


 ユリウスは、飛び込んで来た命令に耳を疑う。廃村での戦いは、ユリウスの苦心の甲斐あって人族の勝勢となった。すでにハヌマーンは戦意を喪失し、逃走している。逃れたハヌマーンが南部を荒らさないよう追撃すべきであり、今此処で矛を収めるのは、敵に態勢を立て直す時間を与えるだけでしかない。ユリウスの知るコルネリウスは、その様な愚を犯す男ではないはずだ。コルネリウスの真意が理解できず顔を顰めるユリウスに、伝令が報告を続ける。


「ハヌマーンの奇襲により、御使い様が落水、行方不明となりました。急ぎ湖畔へと戻り、救助活動を行うとの事です」

「閣下…!」


 伝令の言葉に、ユリウスは愕然とする。これは明らかに、コルネリウスの失策だった。だが、ユリウスが何よりも驚愕したのは、あのコルネリウスが、素人目にも明らかな失策を犯すほど、狼狽しているという事。エーデルシュタイン王国の大将軍として軍を統率し、その眼光から発せられる威圧は5,000の兵にも匹敵する、武の化身とも言われるあの男が、たった一人の少女の生死に狼狽し、勝利を捨て後先を考えず助けようとしている。ユリウスはコルネリウスが初めて見せた醜態に動揺し、彼への忠誠と勝利への執着の狭間で、苦悩する。


 伝令と部下に背を向け俯いていたユリウスが、やがて顔を上げて振り返った。


「…負傷者を収容しろ。これより、我が軍は撤退する」


 その唇は錆び付いているかのようにたどたどしく、爪が食い込むほど固く握られた拳は震えていた。




 ***


 コルネリウス軍がリーデンドルフ湖畔に戻った頃には日がとっぷりと暮れ、辺りは暗闇に覆われていた。


 兵士達は湖の北端に陣を張ると湖畔に次々と篝火を連ね、湖を照らす。だが、暗闇と周囲の地形が兵士達の前に頑として立ちはだかり、美香の行方は杳として知れない。湖の東側は険しい崖が続き、兵士達は岩棚から身を乗り出して下を覗き込むが、松明の光は闇と影に負け、湖面は漆黒に塗りつぶされている。湖の西側は鬱蒼とした森が進入を阻み、兵士達は剣を振りかざして草を切り払うが、作業は遅々として進まない。しかも時折、上流から流れ着いたハヌマーンが森の中から襲い掛かり、片時も気の抜けない夜間の捜索活動は困難を極めた。


「×□〇$$!? \$△&…&&&&…」

うぬらにかかずらっている暇などないわ!どけぇぇぇ!」


 怒りに任せ大上段から振り下ろされた剣が、藪の中から飛び出してきたハヌマーンの左肩に食い込むと、体の中を抜けて右の脇腹から外へと出る。コルネリウスは、胸元から盛大に血飛沫を上げるハヌマーンに憎悪の目を向け、返り血を浴びるのも構わず、ハヌマーンを蹴り倒した。


「ミカ!何処だ!居たら返事をしてくれ!」

「ミカぁ!お願い!返事をしてぇぇぇ!」


 オズワルドやレティシア、兵士達が松明を掲げ大声を発する中、コルネリウスは焦燥を撒き散らしながら黙々と草木を切り払い、深い藪の中を分け入って行く。ユリウスや幕僚達の制止の声も聞かず、捜索の指揮を放擲しユリウスに丸投げしたコルネリウスは、捜索隊の先頭に立ち、一心不乱に藪の中に足を踏み入れる。


 私が、彼女に同行を頼まなければ…!


 呼吸が乱れ、鼻で息ができない。喉がカラカラに乾き、頭の中に考えたくない想像が次々と浮かび、その都度脳内を巡る血が満ち引きを繰り返す。コルネリウスは、自分が初めて見せる姿に兵士達が動揺するのにも気づかず、血眼になって行く手を阻む深い闇と藪を凝視する。彼は、背後から忍び寄る感情に振り返る事ができず、背を向けて逃げ出すかのように藪の中へと歩を進める。


 それは、彼にとって初めての事だった。


 彼は勇猛果敢な戦士であり、幾度も味方を勝利へと導いた、エーデルシュタイン歴代有数の名将であった。攻め入る時は吶喊とっかんの声で敵を震え上げさせる猛将であり、苦境の時は味方を奮い立たせ頑強に立ちはだかる強将であった。そして、誰よりも兵や民を想い気遣う、仁将だった。


 初陣の時も、屈強な敵を前にして臆する事無く剣を交え、手柄を立てた。逆境の時も諦める事なく、数々の策を講じて粘り強く抵抗して、勝利を手繰り寄せた。主君の考えが誤っていれば、保身を考えず、臆する事無く諫言し国政を正した。そのいずれにおいても、彼は己に負ける事なく、自分が為すべき事をわきまえ、最善と思う手を取った。


 その彼が、初めて己に負けた。恐怖に負けた。


 初陣の時にも感じなかった。味方と切り離され、孤立無援となった時も感じなかった。王家と意見を違えた時も、その王家が潰え劫火の前に滅びる姿を目の当たりにした時も感じなかった。そのいずれでも湧き上がらなかった感情、――― 恐怖が忍び寄り、彼は心の中で泣き喚きながら、逃げ出そうとしている。




 一人の少女が居なくなっただけで。少女にもう二度と会えないと、思っただけで。




 ミカ!頼む!出て来てくれ!ミカ!


 エーデルシュタイン最後の大将軍は、背後に続く兵士達の不安気な視線にも気づかず、ただひたすら剣を振るって藪を切り払い、闇を振り払う。


 その後ろ姿は、まるで自分の許から去ろうとする恋人に追い縋る男のように頼りなく、無様だった。

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