170:バカンス

「あ゙あ゙あ゙あ゙、あ゙づいよぉぉぉ…。何だってこんなに、カンカン照りなんだよぉぉぉ…」

「Какая жара…」


 ボクサーの上に掲げたパラソルの陰で、柊也がげんなりとした顔で団扇を扇いでいる。その隣ではシモンが氷枕を両手で抱えたまま、へたり込んでいた。臆面もなく大きく口を開き、艶めかしい舌を出して口呼吸を繰り返す様は、のぼせた狼そのものである。


「Я хочу есть лед…」

「あいよ、シモン。だけど、ほどほどにしておけよ。セレーネの二の舞になるぞ」

「Спасибо, トウヤ…」


 シモンが呟いた何度目かの同じセリフに、いい加減その意味を理解した柊也がかき氷を差し出す。取り出した途端に融け出すかき氷を、シモンは気怠そうに受け取り、遠くに見える海を眺めながら口に含んだ。柊也は、その後ろ姿をじっと見つめていた。


「…Что не так, トウヤ?」

「…あ、いや、何でもない。気にしないでくれ」


 柊也の視線に気づいたのか、シモンが後ろを向き、首を傾げる。その仕草からシモンが発した言葉の意味に気づいた柊也は、左手を振って否定する。シモンは小首を傾げ柊也を見つめていたが、やがて前を向き、再びかき氷を食べ始めた。その尻尾は、熱にうなされながらも、穏やかに振られていた。


 ボクサーは乾燥した大地の真ん中で、照りつける太陽にじりじりと灼かれていた。周囲には太陽の光を遮るものはなく、赤茶けた大地が剥き出しになっている。湿度の高い日本と違い、蒸し暑さは感じられないが、その分照りつける太陽の光は容赦がなく、素肌を翳すと突き刺すような痛みさえ感じられた。


 ボクサーには空調装置が搭載されており、この様な酷暑の中でも、車内はある程度快適な温度を保っている。ただ、車外の過酷な環境に引き摺られるようにシモンとセレーネは冷たい物を求めるようになり、ついにセレーネが腹痛を起こしてトイレに駆け込み、二人はボクサーから弾き出された次第である。


「ขอโทษ น้าトウヤ. ฉันจัดการเพื่อปักหลัก」


 ボクサーの上部ハッチが開き、セレーネがお腹を擦りながら梯子を登ってきた。セレーネは柊也の隣に腰を下ろそうとしたところで、シモンが食べているかき氷に気づき、柊也の服の袖を引っ張り出す。


「น้าトウヤ, ฉันต้องการกินน้ำแข็งไส」

「…お前、ついさっきまで自分がどんな目にあっていたのか、覚えていないのか?」


 シモンを指差しながら柊也の顔を見上げるセレーネの学習能力の無さに柊也は呆れるが、諦観の念ともにかき氷を取り出し、セレーネに手渡す。セレーネはそれを喜んで受け取ると、膝の上に置いて食べ始めた。


 暫くの間、かき氷の冷感を堪能していたセレーネだったが、ふとシモンが眺める視線の先に目を向けると、いきなり柊也の服を掴んで激しく揺さぶり始めた。


「น้าトウヤ, นั่นคืออะไร!?」

「な、何だ?どうした?セレーネ」

「ที่, น้ำปริมาณมากที่นั่นคืออะไร!?」


 セレーネの慌てた表情に柊也は危険を覚え身構えるが、セレーネが地平線を指差した腕を大きく左右に振るのを見て、ある事に思い当たる。


「…海?…もしかして、海を見た事がないのか?」

「ชื่อนั้นคืออะไร?」

「う、み」

「…ウ、ミ?」

「そう、海。大量の塩水で出来ていて、魚や海草など、沢山の生き物がいる」

「ฉันไม่รู้ว่าคุณกำลังพูดถึงเรื่องอะไร」

「君の好きな海老もいるよ」

「エビ!?มันเป็นสิ่งสำคัญ!ไปเร็วมาก!」

「だから何でそこだけ、日本語がわかるんだよ」


 柊也の言葉を聞いたセレーネは目を輝かせ、かき氷を急いで食べると、こめかみを押さえながら上部ハッチへと走り出す。その後ろ姿に柊也とシモンは顔を見合わせ、苦笑しながら腰を上げて後を追った。




「エービー!エビ คุณอยู่ที่ไหน!?」

「あ!おい、セレーネ!無茶をするな!」


 セレーネの運転するボクサーは、装甲車とは思えないほどの軽快な走りを見せ、砂浜へと突入する。大草原で培った馬術を駆使し、セレーネが操縦桿を思いっ切り左に切ると、ボクサーは打ち寄せる波と砂浜を掻き分けながら扇形を描いて半回転し、後部ハッチを海に向けて停車した。慌てて引き留めようとする柊也の手は届かず、未だ開き切らない後部ハッチからセレーネが波打つ海岸へ飛び出し、海へと駆け出して行く。


「エビ!エビ คุณอยู่ที่ไหน!?…ว้าวว้าว!?」

「Эй, старшая сестра, что ты делаешь!?」


 海へと走り出したセレーネだったが、やがて打ち寄せる波に足を取られ、盛大な波飛沫を立てて倒れ込む。泳ぐ事ができず、手足をばたつかせながら浅瀬で藻掻くセレーネを見てシモンが慌てて海へと飛び出し、服が濡れるのも構わずセレーネを抱き起こした。


「โอ้ว้าววว!มันเค็ม!」

「Сестра идиот!Это опасно, если вы не умеете плавать!」

「แต่มันเย็นและสบาย!」

「Эй, старшая сестра!?」

「お前ら、何をやってるんだよ…」


 シモンに起こしてもらったセレーネは、口に入った海水を吐き出すと、打ち寄せる波を両手で掬い上げてシモンに浴びせ始める。シモンも負けじと応戦し、二人は柊也がボクサーの中で呆れた顔を見せる中、ずぶ濡れになってはしゃいでいた。




 5分後。


 2mの制限を思い出した二人が慌てて柊也の許に駆け戻り、セレーネだけお約束の様に間に合わなかったところで、柊也は二人にバスタオルを渡しながら、本を取り出して提案した。


「せっかくだ。二人とも、水着を着てみるか?」

「นี่คืออะไร?」

「Это очень одиозный…」


 二人は柊也が取り出した2冊の本を覗き込み、セレーネは爛々と目を輝かせ、シモンは顔を赤らめて口を両手で隠しながら、掲載されている写真を凝視している。それは、1冊は色とりどりの水着を掲載したカタログであり、もう1冊は水着を着て浜辺で遊ぶ、グラビアアイドルの写真集だった。柊也は、両方の写真を交互に指差しながら、二人に説明する。


「俺の居た世界では、海や川には、こういう水着を着て入るんだ。この服は、水に濡れても着心地が悪くならない。デザインが下着みたいで大胆かもしれんが、試してみるかい?」


 そう言うと柊也は水着を取り出し、打ち寄せる波に浸してから、二人に手触りを確認させる。柊也の言いたい事が何となくわかった二人は、カタログを隅から隅まで眺めた後、気になった水着を選んでいく。


「ฉันต้องการ นี่และนี่และสิ่งนี้」

「Я хочу это и это…」

「あいよ」


 セレーネは嬉々として、シモンはチラチラと柊也の様子を窺いながら、いくつかの写真を指し示す。柊也が希望に応じ、指名された水着を二人に手渡すと、二人は水着に着替えるためにボクサーの奥へと入って行く。ちなみに、セレーネは水着を意識するあまり、自分が全裸である事を忘れていた。




「トウヤ, Разве это не выглядит странно?」

「น้าトウヤ, มันเป็นอย่างไร?มันเหมาะกับฉันไหม?」

「…」


 柊也の目は、目の前に並び立つ二人の美女の姿に縫い付けられ、暫くの間そこから動かなかった。


 シモンは引き締まったお腹の上で腕を組み、ひたすら注がれる柊也の視線を前にして、落ち着かなげにその身を晒していた。シモンは黒いビキニに身を包んでおり、その所々で布地が大胆にカットされ、剥き出しとなった艶やかな躰を黒紐だけが横切るという煽情的なデザインに、柊也は釘付けになった。一方のセレーネは、その慎ましい胸元を繊細な刺繍があしらわれた真っ白なフリルで可愛らしく着飾っていたが、その分ショーツは色鮮やかに彩られ、側面を飾る組紐と組み合わさって、外見以上の艶めかしさを醸し出している。


「トウヤ?」

「น้าトウヤ?」

「…あ、いや、スマン。二人とも凄く似合っているよ」


 視線が二人の体を行き来したまま返事をしない柊也に対し、二人が訝し気に声をかける。その声に柊也は我に返ると慌てて顔を上げ、言い繕うかのように二人を賞賛し、話題を変えた。


「そ、そうだ。二人とも、日焼け止めを塗っておいた方が良いぞ。そのままでは日焼けが凄い事になるからな」


 そう言いながら、柊也は容赦なく照り付ける太陽を指差した後にシモンの腕を指差し、続けてペーパーボードの「痛い」を指でなぞる。頷いたシモンの腕を取ると、柊也は日焼け止めクリームを取り出し、蓋を開けてぎこちなく左手でシモンの腕に塗り始めた。


「トウヤ…ах…」

「左手一本では無理だ。悪いが自分で塗ってくれ」


 柊也は、何かを堪え始めたシモンから左手を離すと、日焼け止めをセレーネに手渡す。不貞腐れ顔でセレーネと一緒にクリームを塗り始めたシモンだったが、やがて柊也に背中を向け、振り返る様な格好で声をかけた。


「トウヤ, Можете ли вы нанести крем на спину?」

「…しょうがないなぁ」


 物欲しそうに横目で見つめるシモンに対し、柊也は仕方なさそうに腰を上げ、背中にクリームを塗り始める。その柊也の視線は、時折シモンの首元へと動き、シモンの尻尾はその都度、穏やかに揺れ動いていた。




 ボクサーの後部ハッチに押し寄せる波打ち際で柊也は後部ハッチに腰掛け、ブルーハワイソーダを片手に、シモンとセレーネがビーチバレーを楽しむ姿を眺めていた。二人のビーチバレーは和気あいあいと進んでいたが、実は「如何に対戦相手を柊也から2m以上引き離すか」という殺伐としたルールで行われていた。5分間その状態が続けば、それは当然、全裸の刑である。


「ว้าวว้าวว้าว, น้าシモン!คุณเป็นคนที่น่ากลัว!」

「お帰り、シモン。ブルーハワイ飲むか?」


 獣人の膂力を生かした無慈悲な猛攻に屈して全裸で波間にへたり込んだセレーネを放置し、シモンが柊也の許へと戻ってくる。柊也がブルーハワイソーダを掲げて勧めるが、シモンは柊也の脇で仁王立ちすると腰を曲げ、柊也の眼前に人差し指を突き付けて、何か喋り始めた。


「トウヤ, Я хочу пойти в туалет. Пожалуйста, двигайтесь оттуда」

「え、何だって?」

「Я хочу пойти в туалет. Пожалуйста, двигайтесь оттуда」

「スマン、シモン。何が言いたいのか、全くわからん」


 シモンの繰り返しの言葉にも、柊也は見当がつかず、小首を傾げる。すると、シモンは頬を染めながら挑発的な笑みを浮かべると、椅子に座る柊也の目の前で煽情的なショーツの紐に指をかけ、ゆっくりと下ろし始めた。柊也は慌てて腰を浮かせ、ボクサーから飛び降りる。


「馬、馬鹿!シモン!お前、何でボードを指差さないんだよ!?トイレならトイレと言ってくれ!」




 ***


 ボクサーの陰に消える柊也の後姿を目で追いかけながら、シモンは頬を緩める。


 パパってば、可愛いんだから。


 言葉を交わせなくなってからシモンが発見した、柊也の新たな一面。ここ数日、シモンはその一面を突くのが楽しく、そのために自爆テロめいた挑発さえも敢行していた。そんな彼女の自慢の、これまで自然に流し、なびかせていた長い銀の髪は、今は結い上げられ、シニヨンの様に後頭部に丸い花を咲かせている。


 実は、柊也はうなじフェチだった。ある日、あまりの暑さに音を上げたシモンがポニーテールにしたところ、柊也の視線がうなじから離れなくなったのである。その視線に気づいたシモンは何も言わなかったが、それ以降、彼女は毎日の様に髪を結い上げ、柊也の前で背中を向けるようになる。そして、その都度うなじに注がれる柊也の熱い眼差しに、シモンは気づかないふりを続けたが、その間彼女の豊かな尻尾は嬉しそうに左右に揺れ動いていた。




「น้าトウヤ!กรุณาให้ชุดว่ายน้ำให้ฉัน!」


 ボクサーの外でセレーネが全裸でビーチボールを抱え、涙目で柊也に駆け寄る中、シモンは鼻唄を歌いながらショーツに手をかけ、機嫌良くトイレに腰を下ろしていた。

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