169:โระซะริอะ เดือนที่ 5 12 วัน

 セレーネは、振動を続けるボクサーの後部座席に座ったまま上を見上げ、梯子に爪先を引っかけている男の足を眺めていた。男の上半身は上部ハッチの向こう側に消え、車内のセレーネからは見えない。そのままの体勢で暫く変化のない男の足を見ながら、セレーネは不満を舌の上で転がす。


 トウヤさん、何で降りて来てくれないのかな。


 そりゃ、万一の襲撃に備えて見張りを続けるのは心構えとして大切だし、2交代で運転を続けるシモンさんと私に頼まず、自分で担おうとする姿勢は嬉しいんですけど。ボクサーの中なら、大丈夫ですよ。ずっとその体勢だと、疲れちゃいますよ?少しは私と一緒に、休憩しましょうよ。


 セレーネの声にならない願いは相手に届かず、男の足はいつまでも動かない。セレーネの口内の不満が変形して次第に角ばり、口角が嘴の様にすぼまっていく。


 別にセレーネは、エミリアの地に入って以降、柊也との間が疎遠になっているとは思っていなかった。サーリアの地で結ばれて以降、柊也は己の想いを素直に表すようになり、セレーネは柊也の真っ直ぐな想いを、悦びとともに受け入れていた。エミリアの地に入ってからは、柊也と言葉を交わす事ができなくなったが、だからと言って、彼との関係に不安を感じる事はなかった。彼の想いは明らかに嘘偽りのないものであり、彼女は毎晩のように彼の愛情を確かめ、彼との関係をより一層強固なものにしていた。


 だが、それでも彼女に全く思うところがないわけではない。それは、




 トウヤさぁん、もっと別の方法でコミュニケーションを取りましょうよ。言葉が通じなくても、手の動きとか笑顔とかが、あるじゃないですか。何もそんな、熱く激しくほとばしる、怒涛の様な血潮ばかりに頼らなくても、良いんですよぉ。


 セレーネは、エルフにはとても想像できない、短命種ならではの短く激しい生命の輝きに、翻弄されていた。




「セレーネ、sorosoro ohiru ni shiyou」


 口の中で想いを連ねるセレーネの耳に、梯子を下りる靴の音とともに、男の声が聞こえて来る。セレーネは顔を上げて男が指差す先を認めると、口の中に残る蟠りを飲み込み、男に答えた。


「あ、はい、わかりました。シモンさん、呼んできますね」

「Aa, セレーネ, suwattete ii. Ore ga シモン ni itte kuru」


 セレーネが腰を浮かそうとすると、柊也が左手を上げてそれを制し、セレーネが答える間もなく、彼は操縦席へと向かって行った。




「Sate…, kyou ha nani ni shiyouka…」


 セレーネは座布団の上で正座し、そわそわしながら、ペーパーボードを眺める柊也を見つめている。その姿は、鬼気迫るセレーネの態度と対照的だ。


「エミリア no kankatuchi ni hairu mae ni menyu wo tukutteokeba, konna kurou mo nakattandagana…」


 そう呟きながら柊也が並べた料理に、シモンはがっくりと肩を落としたが、セレーネはその料理に小さな幸せを見つける。


 あ、海老グラタンだ。私、これがいいな。


 セレーネは、肩を落とすシモンの傍らで、いそいそと海老グラタンを引き寄せると、正座したまま足の指先をもきゅもきゅと動かし、楽しみに待つ。素朴で自然な食事に馴染んでいる草原の民にとって、柊也が齎す料理はどれも多彩で刺激的であり、セレーネは好き嫌いなくほとんどの料理を喜んで食していた。


「Шоколадное парфе!トウヤ я тебя люблю!」


 突然シモンの歓喜の声が聞こえ、セレーネが横を向くと、チョコレートパフェを目にしたシモンが尻尾を物凄い勢いで振り回している。


 もう、シモンさんてば…。


 セレーネは、「妹」のはしゃぎぶりに苦笑し、放り投げられたペーパーボードを胸に抱えながら、スパゲティを平らげる「妹」の姿を、穏やかな笑みを浮かべ眺めていた。




 食事が終わり一息つくと、一行は再びボクサーへと乗り込み、エミリアに向けて出発する。午前中一杯運転していたシモンに代わり、セレーネが操縦席へと座った。


 暫くの間、セレーネは計器やカメラの映像に気を配りボクサーを操っていたが、やがてセレーネの耳に、後部座席の会話が、断片的に流れてくる。


 シモンさん、ちゃんと甘えられているかな…。


 セレーネは、操縦桿を慎重に操りながら、「妹」を気遣う。


 セレーネにとって、出会った当初のシモンは、姉の様な存在だった。不慣れな外界で独り取り残され、不安を覚えるセレーネを庇い、その凛々しい迷いのない立ち振る舞いで、セレーネの行く先を常に明るく照らし、導いてくれた。家長とも言える柊也の判断に従い、セレーネを守りながら率先して行動するその姿は姉そのものであり、セレーネは「父」と「姉」に守られ、大草原への帰還という希望を持ち続ける事ができたのである。


 しかし、アラセナでの一件を経て、その関係が変わった。アラセナにおいてシモンは心の傷を見られ、それを受け止めてくれたセレーネに心を開くようになる。セレーネも、元々信頼していたシモンの意外な脆さを目の当たりにして庇護欲を覚え、これまで守ってくれた恩返しとばかりにシモンの想いを受け止めた。二人の関係は、「妹」と「姉」から「姉」と「妹」に変化し、より親密になっていく。


 そしてその関係は、サーリアとの邂逅とその日の夜を境に、もう一度変わった。決定的な一線を越えたシモンは全ての垣根を取り払い、セレーネに甘えまくるようになる。「姉」と「妹」は「母」と「娘」へと変わり、鋭い牙を持つ狼は、「母」の前で子犬の様に尻尾を振り、「母」の愛を求めてじゃれ回るようになった。セレーネは母性をくすぐられ、シモンの求めに応じて、その想いを受け止めた。


 ただし、心は子犬でも、体は狼である。そして、セレーネは、元々体力の劣るエルフの中でも華奢な部類に入る。ハヌマーンさえも凌駕する獣人に圧し掛かられて、無事でいられるわけがない。その上、そこに柊也の眩いばかりの生命の輝きが襲いかかり、しかも柊也とシモンがこの1点に限っては憎たらしいほど阿吽の呼吸を整える。結果セレーネは、二人の短命種の命の荒波に呑まれ、溺れる日が続いていた。




 もう!二人とも、しょうがないんだから…。


 今日の野営地を決め、車を停めたセレーネは、後部座席を目にして溜息をつく。セレーネの目の前で、柊也とシモンは身を寄せ合い、呑気に寝息を立てていた。セレーネは腰に手を当てて仁王立ちし、まるで家事を手伝おうとしない夫と娘を叱る様な面持ちで二人を眺めると、柊也の体を揺すって起こしにかかる。


「もう!トウヤさん!シモンさん!起きて下さい!着きましたよ!」

「…A?…a, suman, セレーネ. Tsui nemucchimatta」


 目の前で寝ぼけ眼を擦りながら顔を上げた柊也と視線が合い、セレーネは胸の高鳴りを誤魔化すかのように頬を膨らませる。柊也はセレーネの内心の変化に気づかず、バツが悪そうに笑みを浮かべると席を立ち、外の様子を窺うために梯子に手をかけた。セレーネは胸中に沸いた小さな落胆をもみ消すと、シモンの形良い耳を摘まみ、顔を寄せて囁く。


「シモンさん、着きましたよ。起きて下さい…」

「Мууу…Старшая сестра немного дольше…」

「ちょ、ちょっと、シモンさん!?」


 シモンは目を瞑ったまま、擽ったそうに耳を動かしてセレーネの手を払いのけると、両手を広げてセレーネを抱き締め、慎ましい胸に顔を埋める。獣人の膂力の前になす術もなく、抵抗を諦めたセレーネの胸元でシモンは暫くの間温もりを堪能していたが、やがて顔を上げて満面の笑みを浮かべた。


「Доброе утро, старшая сестра. Спасибо, что пришли разбудить меня」

「もう、シモンさんたら…」


 日頃の凛々しさとはかけ離れた無防備な笑顔を向けられ、セレーネは気恥ずかしさを覚えてそっぽを向く。そのセレーネの手をシモンが掴み、セレーネはシモンに連れられるようにして、ボクサーの外へと出て行った。ボクサーの外には、すでにテントを設営した柊也が佇み、二人が降りてきた事に気づくとペーパーボードを指差しながら、声をかけてくる。


「Yuusyoku ni suruzo. Hutari ha nani ga tabetai?」


 海老。海老が食べたいです。


 セレーネは即断し、この時のために覚えた、とっておきの単語を口にした。


「Oniku」

「Ebi」

「…Omaera, nande soko dake nihonngo ga tuujirunndayo」




「シモンさん、どうしたんですか?」


 念願が叶い、大海老の乗った天丼を堪能したセレーネは、涼みに出たまま戻らないシモンを追ってテントの外へと出る。そして、浴室テントの前で佇むシモンを認め、その視線を追いかけるように自分も空を見上げた。


「わぁ…」


 セレーネの頭上には、眼前を覆い尽くすほどの満天の星空が広がり、無数の宝石の輝きを放っていた。そして、その宝石の海を切り裂き、流れ落ちる一閃の閃光。


 エルフの間では、夜は、昏々と眠り続けるサーリア様の夢の中を映し出したものと、言い伝えられていた。サーリア様の寝つきが悪いと夜は曇りになり、悪夢にうなされていると雨が降る。そして、晴れの日はサーリア様が楽しい夢を見ていると言われており、その中でも今日の様に閃光が走る夜は、最高に夢見が良い日とされていた。セレーネは、今宵のサーリア様が安らかな眠りについている事に安堵を覚え、日頃森に覆われ見る事のないサーリア様の夢を目で追いかける。


「Sekkakuda. Ippai yaruka」


 ふと肩を叩かれ、セレーネが横を向くと、柊也が缶ビールを片手に笑みを浮かべていた。


「О хорошо. Давайте пить вместе, Нечувствительный человек」

「もう、トウヤさんたら…ほどほどにして下さいね?」


 柊也の無粋な誘いにセレーネは溜息をつき、それでも柊也の誘いに乗ってボクサーの上へと登る。個人的にはサーリア様の安眠を妨げたくないところだが、エルフの間でも、大草原の真ん中でこういった夜に遭遇した場合は、水や酒を酌み交わす習慣がある。相伴には応じるつもりだった。




「シモン, セレーネ, Kyou mo otsukaresama」

「В честь работы любви солнце и луна сегодня вечером」

「今宵の、サーリア様の安らかな眠りを祝って」


 三人は思い思いの言葉で唱和し、満天の星空の下で酒杯を傾ける。セレーネは、柊也が川海老の唐揚げを用意してくれた事に感謝し、手元に引き寄せてポリポリと摘まみながら、夜空を彩るサーリア様の夢を静かに眺めていた。


 すると、セレーネの耳に何かを叩く音が聞こえ、セレーネは音のする方に目を向ける。そこには、缶ビールを片手に膝を抱えたまま、尻尾を繰り返しボクサーに叩きつけるシモンの姿があった。


 トウヤさんたら…もっとシモンさんに気を配ってくれたらいいのに。


 セレーネは心の中で溜息をつき、シモンに場を譲るために席を立つ。その動きに柊也が気づき、声をかけて来た。


「Doushita?セレーネ」


 気づく相手が違いますよ!


 間の悪い柊也の反応にセレーネは呆れ、ペーパーボードを指でなぞりながら、柊也に小言を言う。


「私に気を回すくらいなら、別の人を気遣ってあげて下さい!」

「Aa, suman. Toire ka. Itterassyai」

「まったく、もう…」


 恐らく勘違いしたであろう柊也の反応に、セレーネは何度目かになる溜息をつき、上部ハッチをかけて車内へと入る。セレーネは後部座席に腰を下ろすと、天井を見上げ、物思いに耽る。


 エルフは長命種だ。他の種族に比べて、ゆっくり穏やかに構える傾向がある。この旅を通じて柊也やシモンと交わったセレーネは、二人が自分に比べ遥かに激しく、その瞬間に全てを籠めようとする想いに、圧倒されていた。特にその傾向は、柊也よりシモンの方が激しい。おそらく、二人がセレーネに出会う前に遭遇した、シモンの心の傷が影響しているのだろう。


 シモンさん、幸せになって下さいね。


 セレーネは頭上で思いの丈をぶつけているであろう「妹」を想い、その幸せを願う。勿論セレーネは自身が幸せになる事も望んでいるが、あくまで柊也に対する順位としては、シモンが上だと認めていた。自分も柊也を愛し、「マイ・マスター」の一生に寄り添う事を誓っているが、シモンの場合は、自身の存在そのものを柊也に重ねるほど、柊也に依存している。その全てをかなぐり捨てるシモンの姿に、セレーネは些かの悲しみと憂いを覚え、「姉」として彼女を支えていくと心に決めながら、酒精に導かれるままに眠りに落ちていった。




 ***


 …それが、何でこんな事になってるのぉぉぉ!?


 セレーネは、心の中で叫び声を上げる。


 目が覚めたセレーネは、柔らかい布団の上で横抱きにされ、銀の滝に取り囲まれていた。セレーネの目の前には、見惚れてしまうほどのシモンの笑顔が迫り、その艶やかな唇からは、言葉とともに感謝と愛が溢れ出る。


「Я люблю свою старшая сестра…」

「シ、シモンさん!私は大丈夫ですから!二人の愛は、もう十分すぎるほど、いただきましたからぁぁぁ!」




 セレーネの叫びは空しく空を漂い、テントの明かりは、夜遅くまで妖しく揺らめいていた。

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