162:長いトンネルを抜けて

 部屋の一面を貫く、板や革で目張りされた窓の隙間から光が顔を覗かせ、通風に放たれた窓枠からは陽の光とともに心地よい風が吹き込んでいた。中庭からの木の枝に止まる小鳥の囀りが部屋の中を漂い、淀んだ空気を入れ替えていく。


「…マグダレーナさん…」


 部屋の中で物音を立てないよう、静かに作業をしていたマグダレーナと女性騎士達は、小さな、しゃがれた声に手を止め、頭を上げた。


「あ、お早うございます、ミカ様。お加減は如何ですか?」

「…干乾びそう…」


 マグダレーナ達の視線の先には、豪奢なベッドの上に身を横たえたまま、少しだけ顔をこちらに向けた少女の姿があった。少女の小柄な躰はここ数日の間に目も当てられないほど痩せ衰え、瑞々しい形の整った眉目はやつれ頬がこけてしまっていたが、それでも少女が目を開き言葉を紡ぐ姿は、皆が待ちに待った光景だった。


 背後に立つ女性騎士達がくすくすと笑う中、マグダレーナが答える。


「ミカ様、そりゃぁ、3日間も飲まず食わずでいたんですから、干乾びてしまうのも当然です。お食事は召し上がれそうですか?」

「うん。空きすぎて、お腹が潰れそう…」

「すぐご用意しますから、お待ち下さい。その前にお水だけでもお持ちしますね。…汝に命ずる。大気より水を集め、我に潤いを齎せ」


 マグダレーナは美香に答えると、右手を水差しの上に掲げ、「クリエイトウォーター」を詠唱する。緩く握ったマグダレーナの右拳から一筋の水流が水差しに流れ落ち、次第に水差しの嵩を増していく。食事を取りに女性騎士が部屋の外へ出て行く中で、美香は傍らで寝息を立てるレティシアの顔越しに、水差しの上に現れた滝を眺めていた。


「…すぅ…」


 レティシアは、自由の利かない美香の手を掴んだまま、寄り添うようにして寝息を立てている。その顔は疲労の色が濃く、目の下には隈がくっきりと浮かび上がっていた。


 未明に美香がようやく意識を取り戻し、多少なりとも食事を摂った事を認めた人々は、安堵と疲労を引き摺りながら自身の寝所へと戻って行ったが、レティシアはその後も美香の部屋に留まり続け、再び眠り始めた美香に寄り添っていた。その、日頃よりは弱々しいながらも、意識不明とは異なるしっかりとした美香の睡眠を見届けたレティシアは次第に気が緩み、そのまま美香のベッドに上がり込むと、すぐに深い眠りに落ちてしまった。美香は、レティシアの疲労の蓄積した、しかしあどけない寝顔を暫く眺めた後、外の景色を眺めようと反対側に顔を向けた。


「…うぅん…」

「…」


 部屋の一面を貫いていた窓は、昨日までは美しい中庭の景色をガラス面に映し出していたが、今やほぼ全てが目張りされ、平板で薄暗い影を落としていた。そして、その光景を遮るかのように美香の目の前に横たわる、一人の女性。女性は美香よりも10歳年上であったが、美香の方を向き、いつもは固く閉じた端正な唇を薄く開いたまま寝息を立てるその姿は、いつもより遥かに幼く見えた。美香は、初めて見る彼女の無防備な寝顔を眺めながら、口を開く。


「ねぇ、マグダレーナさん…」

「はい、どうしましたか?」


 マグダレーナが、満杯になった水差しからグラスに水を注ぎながら、美香の声に答える。


「何で私、カルラさんと同衾してるの?」

「ミカ様が、いつまで経っても目を覚まさないからですよ。レティシア様もカルラさんもその間、ほとんど一睡もしていなかったんですから」

「うう…」


 トレイに水差しとグラスを載せながらマグダレーナが答え、美香は返答に窮する。カルラもレティシアと同じく片時も美香の傍らを離れず、美香の容態が未明に安定すると、ほとんど失神に近い状態で眠りに落ちていた。


 唯一人、己の立場を弁え、万全の体調を整えていたマグダレーナは、美香のベッドに歩み寄るとサイドテーブルにトレイを置き、目の前に横たわるレティシアを眺める。


「…邪魔ね」


 そう呟いたマグダレーナは、後ろを振り向いて声をかけた。


「ゲルダ様、申し訳ありませんが、レティシア様をどかしていただけますか?」

「…あ?…ああ、わかった」


 ソファにふんぞり返って居眠りをしていたゲルダが目を擦りながら歩み寄り、眠りから覚めようとしないレティシアを横抱きに抱え上げる。そして、そのまま元居たソファにレティシアを座らせ、自分も横に座ると、レティシアの肩を抱いたまま再び居眠りを始めた。


 マグダレーナはベッドに腰掛けると、美香の背中に手を回し、起き上がらせる。そしてクッションを背もたれ代わりに重ねると、グラスの水を美香の口元に運ぶ。


「ミカ様、お飲み下さい。絶対的に水分が足りていない様ですから、小まめにお摂り下さいね」

「ありがとうございます…んく…」


 美香は頷くとグラスに口をつけ、水を飲み始める。後ろから女性騎士が歩み寄り、切り分けた林檎を盛った皿を差し出す。


「ミカ様、お食事が用意できるまでの間、お召しになられて下さい」

「あ、ありがとうございます。では、遠慮なく」


 女性騎士は満面の笑みを浮かべると、マグダレーナと対面になる形でベッドに腰掛け、フォークに刺した林檎を美香の口元に運んでいった。




「お早う、ミカさん。お加減は如何かしら?」


 美香が2切れ目の林檎を食べ終える頃にドアがノックされ、フリッツとアデーレが入室してくる。二人の姿を認めたマグダレーナと女性騎士は立ち上がり、二人に場所を譲った。


「ありがとう。…で、ミカさん、昨晩と比べて体調はどう?」


 場所を譲った二人にアデーレが礼を言いながら、ベッドに腰掛ける。フリッツも最寄りの椅子を引き寄せ、ベッドの脇に座った。二人は、向こう側で眠ったままのカルラを気にもせず、美香の様子を窺う。


「ええ、お陰様で、今朝よりは体に力が入るというか…動けないのはいつもの事ですが、しっかりしていると思います」

「そう…良かった…」


 美香の答えを聞いたアデーレが安堵の溜息をつき、美香の額に手を当てて体温を計った。




「フリッツ様…」

「どうした?ミカ」


 やがて、アデーレの手が額から離れた頃を見計らって、美香がフリッツへと声をかける。フリッツが応じると、美香はフリッツの顔を暫く見つめた後、静かに言葉を発した。




「…申し訳ありません。私、失敗しちゃいました」




「…何?」

「…ミカさん?」


 美香の口から飛び出した予想外の言葉に、フリッツとアデーレの表情が固まる。マグダレーナと女性騎士が驚きの顔を向けた先で、美香は部屋の中を見渡しながら、言葉を続ける。


「…私、自分の魔法がこんなに威力を発揮するとは、思いませんでした。街壁から遠く離れた、街の中心にあるこの部屋さえ、こんなに壊れてしまって…街壁の近くは、もっと酷い事になっているでしょうね。ゲルダさんも包帯を巻いているし、怪我人も大勢出ただろうし…多分、亡くなられた方もいらっしゃいますよね?」

「…」


 フリッツの沈黙から答えを得た美香は、前を向き、対面の壁を眺める。


「私が考え無しに魔法を撃っちゃったから…もう少し周りの事を考えて魔法を撃っていれば、こんな事にならなかったのに…申し訳ありません、フリッツ様」

「違う!」


 美香の贖罪の言葉を聞いたフリッツは、怒りを込めて否定する。その強い否定にカルラが身を固くし、無防備だった寝顔に常日頃の険が寄った。フリッツは、唇を戦慄かせながら答える。


「それは、あなたの責任ではない!私の責任だ!私が負うべき業だ!あなたは、この件で、何一つ引け目を負う事はない!もし、それでもあなたの気が済まないのであれば!あなたに代わり、私が!遺族一人一人に足を運び、頭を下げよう!だから…頼むから…それ以上、一人で抱え込まんでくれ…我々が負うべき責まで、背負わないでくれ…」


 フリッツはそう言い切ると、美香の手を両手で取り、頭を下げ震えながら動きを止める。言葉の出なくなった夫の後を、アデーレが引き継ぐ。


「そうよ、ミカさん。あなたのせいじゃないわ。あなたをそこまで追い詰めた、私達のせい。それに、誰も、あなたの事を非難していないわ。…ほら、アレを見てご覧なさい」

「あ…」


 アデーレが指し示した先に美香が目を向けると、そこには沢山の花束が、壁一面に飾られていた。ベッドサイドのテーブルにも、大きな花束が飾られている。


「これらは皆、市民から寄せられたものですよ。あなたが未だ目を覚まさず、生死の境を彷徨っていると知った市民達が、快気を願って送り届けたものよ。物だけじゃないわ。此処からでは見えないけれど、市民達は皆この館の前に来ると、あなたの回復を祈願していくのよ」

「え…そうなんですか?」

「ええ。だから、お願いだから、自分を責めないで。誰一人、あなたを責める人はいないわ。あなたの魔法は、私達を、ハーデンブルグを救ってくれたの。魔法を撃ってくれて、ありがとう、ミカさん…」

「…はい…」


 呆然とする美香にアデーレは微笑むと、美香の肩に手を回し、強く抱きしめる。美香はアデーレの柔らかさを感じながら、俯き加減に目を閉じる。


 そのまま三人は、暫くの間、動きを止めていた。




「失礼します。お食事をお持ちしました」


 ドアがノックされワゴンを引いた女性騎士が入室してくると、アデーレは美香を離し、クッションに身を預けさせる。アデーレは鼻をすすりながら、明るい声を上げた。


「あら、ちょうど良いわね。せっかくだから、私が食べさせてあげるわ」

「ええ?だ、大丈夫ですよ。わざわざ、アデーレ様の手を煩わせなくても」


 ベッドから腰を上げ、ワゴンへと歩み寄るアデーレの背中に、美香が慌てて声をかける。その美香の枕元にフリッツが椅子を引いて近づき、美香を横抱きに抱え上げると、黙ったまま自分の膝の上に乗せた。


「フ、フリッツ様!?」

「…」


 自分の胸元で狼狽の声を上げた美香に、フリッツは口をへの字に曲げたまま、じろりと睨み付ける。シチューの器を手にして向かいに座ったアデーレが、スプーンでシチューを掬いながら美香に声をかけた。


「あら、ミカさん。もう私の事を『お母さん』って呼んでくれないの?」

「え!?」

「ねぇ、あなたもそう思うでしょ?」

「馬っ、私はそんな事は一言も…!」

「え、えええええええええ!?」


 アデーレの発言に、美香が素っ頓狂な声を上げ、フリッツが顔を赤くして否定する。その声を耳にした美香が恐る恐る顔を上げると、視線に気づいたフリッツが仏頂面のまま睨み付けてきた。


 あ。これ、絶対、拗ねてる。


 美香は、フリッツの顔にすでに遠い過去となった実父の面影を認め、大いに慌てる。


 いや、そりゃ、あの時は確かに言っちゃったけどさ、物事には勢いっていうのが、あるじゃないですか。あそこでいきなり「ミカ」だなんて呼び捨てされたら、つい言っちゃうよね?


「…」


 美香の心の叫びは相手に届かず、次第に圧力を増すフリッツのプレッシャーに耐え切れなくなった美香は、ついに観念する。


「…お父さん、お母さん…」

「…おぅ」

「ありがとう、ミカさん。はい、あーんして」

「うぅぅ…」


 美香の消え入りそうな声に、フリッツが顔を赤くしながら横柄に答え、アデーレが満面の笑みでスプーンを差し出す。


 目張りされた窓枠から日差しが射し込む中、フリッツと美香が照れ臭さに身を捩らせながら、三人は暫くの間、落ち着かない団欒を満喫していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る