105:夜が明けて

「えぇと…」


 眩いばかりの朝日が射し込む部屋の中で、美香は寝台に横たわったまま、口ずさむ。昨晩のアルコールは綺麗に体から抜けており、酔いが醒めて思考がクリアになっていた。いや、正しくは目の前の情景を見て、酔いが醒めたというか何と言うか。


「すぅ…」


 目の前に、レティシアの安らかな寝顔が、どアップで迫っていた。美香の左手はレティシアの背中に回され、レティシアの体をこれでもかというくらい引き寄せており、空いた右手はレティシアの柔らかな胸に覆い被さっていた。レティシアは下着を着けておらず、美香の掌に彼女の柔らかな起伏が絹越しに伝わっていた。


 ちょちょちょ、ちょっと。昨晩、一体何があったんだ?


 美香は頭の整理がつかないまま、とにかく状況を打開しようと、脊髄反射で体を動かした。その短絡的で浅慮な行動は右手に不必要な動きを齎し、女性の鋭敏な感覚を刺激する。


「うぅん!」


 どわあああああああああああああああ!タンマ!ちょっとタンマ!


 美香の右手が横に擦れ、レティシアが体を震わせる。美香は右手の動きを止めようと慌て、勢い余って指に力が入り、レティシアの形良い膨らみが美香の指に沿って柔らかく変形する。


「…ミカぁ…」

「…」


 レティシアの口から漏れ出た艶めかしい呟きが、美香を硬直させた。鼓動が激しさを増し、赤面したままレティシアの濡れた唇から目が離せなくなった美香の目の前で、レティシアの長いまつげがゆっくりと開いていく。


「…お早う、ミカ」

「…お、おおおおおおおおおはよう、レティシア」


 レティシアが微睡みの残る潤んだ瞳で美香を見つめながら微笑み、その蠱惑的な姿に慌てて挨拶を返す美香の右手に、またしても要らぬ力が入る。


「あん…」

「あああああああああああ、ごごごごごごめん!」


 美香は慌てて両手を離し、右手を左右に振る。茹蛸のように赤くなった美香を見てレティシアはクスリと笑い、懐かしむ様に天井を見上げて、聞き捨てならない言葉を発した。


「昨日は、凄かったわぁ…」


 えええええええええええええええええええええ!ちょ、ちょっと待って!私、凄い事やらかしたの!?


 慌てて美香は右手を自分の内股に差し込み、指を動かす。い、いや、凄い事にはなっていないぞ?


 顔を真っ赤にして身を捩る美香を見て、レティシアはくすくすと笑う。


「大丈夫よ、ミカ。凄い事にはなっていないから」

「…レーティーシーアー」


 赤い顔のまま、美香の声が低くなる。そんな美香を見てもレティシアは動じず、さらに畳みかけた。


「あ、でも凄い事は、本当にあったわよ?」

「へ?」


 予想外の言葉に思わず素っ頓狂な顔をした美香の隙をつき、レティシアが顔を寄せる。そして小鳥が啄むように、唇を重ねた。


「…ん」

「…!」


 再び固まった美香の目の前でレティシアは舌を出し、自分の唇を舐めとる。その淫靡な姿を見て再び顔を赤くした美香に向けて、レティシアが爆弾を放り込んだ。


「ちなみに凄い事になったのは、私だけじゃないわよ?後で皆に尋ねてみるといいわ」

「えええええ!?ちょっと待ってえええええええええええええええ!」


 慌てふためく美香を置いて寝台から下りたレティシアは、振り返って美香の手を取った。


「さ、ミカ。一緒に湯浴みに行かない?昨日の臭いが着いちゃったままよ」

「…」


 顔の赤みが取れないまま、美香がゆるゆると起き上がる。レティシアと一緒に湯浴みをするのはいつもの事だが、何故か今朝は、いつまで経っても鼓動が高鳴ったままだった。




 ***


 レティシア以外に凄い事になった人は、すぐにわかった。


「お、おはよう、ミカ」

「あ…」


 食堂に集まったメンバーの中でただ一人、オズワルドだけが美香を見て赤くなり、吃りながら挨拶をしてきた。


 ああああああああああああ、やっちまったあああああ!っていうか、私何やった!?


 美香は顔を赤らめながら、後ろへと振り返った。しかし、レティシアは鼻唄を歌いながらそっぽを向いている。


「大丈夫か?ミカ。昨晩は随分と酔っていたようだが。頭痛とか起きていないか?」


 いち早く立ち直ったオズワルドが美香を気遣う。流石はハーデンブルグの武を代表する大隊長。長年培った戦闘経験を無駄に発揮して、精神の平静を保っているようだ。それに対し、未だに落ち着かず、しかも記憶が残っていない美香は、咄嗟に返す言葉も出てこない。


「だだだ大丈夫です!今朝の私は、至って正常です!はい!」


 つまりは昨晩の自分が正常ではなかった事を暴露しているわけだが、言った本人は気づいていない。美香はそのままオズワルドに近寄ると片手で衝立を立て、小言で尋ねた。


「…あの、昨日、私、何か失礼な事しました?」


 オズワルドは身を屈め、幾分赤くした顔を寄せて答える。


「いや、大丈夫だ。特に気を煩わせる必要はないぞ」


 そのオズワルドの回答から、気を遣わせているのがありありとわかったが、少なくともオズワルドの迷惑になっていない事がわかっただけで、美香は良しとした。それにこれ以上追求しても、自分への羞恥プレイが始まるだけである。


 一安心した美香のもとに、間近にいるオズワルドから、些か緊張気味の匂いが漂ってきた。昨晩の事が記憶にない美香は、北伐の時以来久しぶりに嗅いだ匂いに気が緩み、思わず言葉が漏れてしまう。


「…いい匂い」

「…」


 物凄い勢いで直立不動に戻ったオズワルド。それを見た美香は、自分の呟きに気づき、茹蛸のように赤くなった。


「ああああああああああ!オズワルドさん、今のタンマ!忘れて下さぁい!」




「…ミカ殿、大丈夫かね?」

「…あああ、失礼しました。大変、お見苦しいところをお見せしまして」


 床にしゃがみ込んで頭を抱える美香に、入室してきたヴィルヘルムが尋ねる。ヴィルヘルムの言葉に美香は慌てて立ち上がると、自分の席へと戻って行った。朝食に招かれたのは、美香、レティシア、オズワルド、ゲルダの四名。一行は各々席に座り、ヴィルヘルムとその奥方、及びエミールと朝食を摂る。


「ミカ殿、昨日は楽しめましたかな?」


 ヴィルヘルムが、朝食を口に運ぶ美香に尋ねる。海の幸がふんだんに使われた朝食を頬張っていた美香は、帆立の貝柱を急いで飲み込むと、ヴィルヘルムに答えた。


「は、はい。とても楽しく過ごさせていただきました。久しぶりに魚介を堪能できましたし、ヴィルヘルム様、ありがとうございました」


 羽目を外しすぎて後半記憶が無いのが痛恨の極みだが、周囲の様子を見る限り、少なくともクリティカルにはなってないらしい。前半の記憶を頼りに美香が御礼を言うと、ヴィルヘルムは満足そうに頷いた。


「それは良かった。ミカ殿にそう評価いただけると、我々も腕を振るった甲斐がありました。ライツハウゼンの食文化は、昨日で終わりではありません。ここに居る間、存分に味わって下さい」

「ありがとうございます、ヴィルヘルム様。お言葉に甘えさせていただきます」


 ヴィルヘルムに礼を述べる美香を、エミールが誘う。


「ミカ様、本日は私がライツハウゼンをご案内差し上げます。何処かご希望の場所があれば、遠慮なくお申し出下さい」

「ありがとうございます、エミール様。それでは、お言葉に甘えて、1箇所行きたい場所があるんです」


 エミールの申し出に、美香は感謝の笑みを浮かべた。




 ***


 彼らが住み慣れた棲み処を旅立ったのは、止むを得ない理由からだった。


 彼らは海岸沿いの崖上に巣を作り、平安を貪っていたが、北から来た猿の様な生き物が営巣地を度々荒らすようになった。猿達は飛び道具をあまり持っておらず、大空を羽ばたく彼らには脅威とはならなかったが、営巣地に毎日の様に出没し、彼らの大事な卵や雛鳥を奪い去っていった。


 彼らは、猿達を見つけると威嚇し、上空から氷塊を雨あられの様に降らせたが、猿達の侵入を押し留める事はできず、次第に営巣地が安住の地ではなくなる。そして、彼らも大空に舞っている間は猿達に何ら脅威を覚える事はなかったが、夜、羽を休めている間に襲われると、全く太刀打ちできなかった。


 やがて、彼らの群れのリーダーは決断する。この住み慣れた地を捨て、新たな安住の地を目指そうと。リーダーはそう決断すると一族を連れ、猿達の手を逃れて海へと飛び出して行った。


 海は、猿達の手の届かない場所ではあったが、彼らにとっても過酷な場所だった。彼らは泳ぐ事ができない。そのため、彼らは翼を休めるアテもないまま、海の上を南へと飛んでいた。休む間もなく、寝ながら空を飛び続けていた。


 本来、彼らは海を渡る術を持たず、リーダーにとっても賭けであったが、彼らの努力は報われる事になる。飛び立って2日目の昼、彼らはついに求める陸地を見つける。その場所は緑が生い茂り、彼らにとって営巣地となり得る平地も広がっていた。喜びに沸いた彼らの鼻孔に、香しい魚の匂いが漂って来る。


 2日間飛び続けた彼らの空腹は、限界だった。リーダーは一族を引き連れ、匂いを頼りに魚を求め、方向転換した。




 ***


 きめの細かい白い砂浜に、細く瑞々しい脚が舞い下りた。靴を脱ぎ、裸足で砂浜に踏み出すと、砂は足を柔らかく包み込み、くるぶしまで飲み込もうとする。サラサラに乾き流れる様に動く砂は、歩を進めると本当に水気を含んだものへと変わり、くるぶしを飲み込もうとするのは砂から潮へと変わった。


「冷たぁい!でも、気持ちいい!」


 美香は海風に吹かれながら浜辺で水に浸かり、子供の様にはしゃいでいる。美香に引き摺りこまれたレティシアも靴を脱ぎ、辺境伯令嬢に似つかわしくない歓声を上げていた。


「ああ、これで水着があったらなぁ。もうちょっと暖かければ、絶対泳ぐのに」


 美香が、砂浜を見回しながら呟く。砂浜は白く美しい姿を眼前に横たえており、その前に広がる海はエメラルドブルーに輝いている。ライツハウゼンのオレンジの屋根瓦が華を添え、元の世界であれば一流のリゾート地でしか見られない美しい光景が広がっていた。


「ミカ、水着って?」


 美香と一緒にはしゃいでいたレティシアが、質問する。


「水の中で泳ぐ時に着る服だよ。もっとも、服っていうより、下着みたいな形だけど」

「え、下着みたいな服で外を歩くの!?」


 美香の話を聞いたレティシアが驚く。


「うん。もしかしたら下着より大胆かも。肌にぴっちり密着するからね。ドレスみたいに魅せるために着るから、色彩も鮮やかだよ」

「な、何て破廉恥な…」


 レティシアが顔を赤らめながら、チラチラと美香の体を見つめる。


「…ちょっと、何見てるの?レティシア」

「…ちょっと見てみたいなぁ、なんて」


 思わず本音を漏らしたレティシアに、美香は腰に手を当てて苦笑した。


「残念ながら、こっちの世界では再現できないのよねぇ。素材がないから。私も作り方は、わからなくて」

「そうなんだ。残念」


 肩を落とすレティシアの向こうから、エミールが歩み寄って来る。


「ミカ様の故郷では、こうやって海で楽しむ風習があったのですか?」

「ええ。私のいた世界では、海で泳ぐ事が娯楽の一つだったんです。特にこのライツハウゼンの砂浜は、元の世界でしたら有数の観光地になり得たでしょうね。海といい、砂浜といい、ライツハウゼンの街並みといい、全てが素敵です」


 美香の絶賛に、エミールは目を細めて、微笑む。


「それはそれは。ミカ様にそこまで評価いただけるとは、光栄です。お食事もお気に召された様ですし、何でしたら、ライツハウゼンに居を構われては如何ですか?」

「駄目。ミカは差し上げませんわ」


 エミールの勧誘にレティシアが割って入り、挑発的な笑みを浮かべる。エミールも冗談だったようで、笑みを浮かべると、そのまま手を引いた。


 レティシアとエミールの会話を聞きながら、美香は再び海へと目を向ける。スマホがない以上、美香はこの有数の景色を記憶に残そうと、一心不乱に眺めていた。


「…あれ?」

「どうしたの?ミカ」


 美香の呟きにレティシアが気づき、横から顔を覗き込む。それに対し、美香は海の方を向いたまま尋ねる。


「…あれ、鳥…かな?」

「…え?」


 美香の指差す先にレティシアが顔を向ける。その、雲一つない青空の中に、いくつもの黒点が見えてくる。


「…ちょっと、大きくない?」


 その黒点はみるみる数を増し、そして大きくなっていく。少なくともカモメではない。人よりも大きな鳥の様に見受けられた。


「…オズワルドさん!ゲルダさん!」


 美香は後ろを振り向き、駆け寄って来るオズワルドとゲルダを呼ぶ。美香の横に立ったゲルダが目を凝らし、牙を剥き出しにして呻いた。


「…アイスバードだ。真っすぐこちらに向かっている。しかも、100羽はいるぞ」

「何ですって!」


 ゲルダの発言に、エミールが驚愕する。


 この日、ライツハウゼンは、人族史上初めて、空襲を受けようとしていた。

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