102:揺れる想い

 リュートの奏でる音楽に合わせて、一組の男女がワルツを踊っていた。


 二人は互いに手を繋いだまま両手を広げ、軽やかに舞っている。二人の呼吸はぴったりと合っており、女が回るたびに、純白のスカートとダークブラウンの髪が、後を追って綺麗な扇を描いた。


 やがて演奏が終わり男女の動きが止まると、周囲から割れんばかりの拍手が巻き起こり、男女は人々に向かって深く一礼する。すると演奏が再び始まり、先ほどまで踊っていた男女と入れ替わる形で今度は周囲にいた人々が思い思いに中央へと出向き、やがて複数の男女が新たにワルツを踊り始めた。その中には、当主のフリッツとアデーレの姿もあった。


 踊りが終わって席へと戻る男女にレティシアが歩み寄り、飲み物を渡す。


「お兄様、お義姉様、お疲れ様でした。踊り、素敵でしたよ。二人ともあんなにダンスが上手とは、私、知りませんでしたよ?」


 レティシアの賞賛を受け、マティアスは飲み物を受け取りながら、苦笑する。


「そりゃ、この日のために特訓したからな。正直に言うと、あの曲以外は、からきし駄目だ。なあ?デボラ」

「ええ。マティアス様ったら、剣技はあれだけお上手ですのに、何故かダンスとなると足取りが覚束なくなりますもの」

「どうせ踊るなら、演武の方が良かったよ」

「いやですわ。私の一生の思い出に、刃物を持ち出さないで下さいまし」


 マティアスのぼやきに、デボラがくすくすと笑う。その姿は、愛と幸せに溢れていた。




「ミカ」


 マティアス、デボラ、レティシアの三人が織りなす朗らかな会話を後ろで聞いていた美香は、名前を呼ばれて振り返った。


「…オズワルドさん?」


 美香の視線の先には、伝統衣装に身を包んだオズワルドが、美香の許へと近づいていた。その顔は、晴れの結婚式にも関わらず、些か緊張している。美香は身を翻すと、オズワルドの前へと進み出た。


「どうしました?オズワルドさん」


 目の前で顔を上げ、下から見上げている美香を前にして、オズワルドは緊張した面持ちで口を2~3回開閉した後、右手を差し出しながら、やっとの事で言葉を発した。


「ミカ、私と踊ってくれないか?」

「え、私と…?」


 オズワルドの申し出に、美香は目を瞬かせた後、暫くの間沈黙する。美香の前で、オズワルドの右手が宙に浮いたまま動きを止め、その固く引き締まった筋肉に次第に青筋が浮き上がっていく。


「…」


 やがて美香はおずおずと右手を差し出し、オズワルドの手の上に乗せる。そしてお互いの手が触れ合った途端、美香は手を乗せたまま、慌てて背後へと振り返った。


「…あ」

「…いいわよ、私の事は気にしないで。ミカ、いってらっしゃい。オズワルド、後で私もエスコートして下さる?」

「ええ、喜んで、レティシア様」


 美香の視線の先で、椅子に腰を下ろしたレティシアがテーブルに肘をついたまま手を振り、苦笑していた。


「…ありがとう、レティシア。行ってくるね。オズワルドさん、よろしくお願いします」

「ああ、よろしく、ミカ」


 美香はレティシアに感謝の笑みを浮かべると、そのままオズワルドの手を引き、中央へと駆け出す。その後をオズワルドが引っ張られる様にして、追いかけていった。




 リュートが奏でる軽やかなリズムに合わせて、ひと際身長差の激しい一組の男女が、ワルツを踊っている。美香はオズワルドに合わせるようと小走りに足を運び、オズワルドも一回り小さい美香を気遣う様に、小股で歩き回る。途中のスピンターンでは、一歩間違えればオズワルドが美香を振り回している様にしか見えないが、それでも美香は笑みを浮かべ、楽しそうに振り回されていた。


「ミカ、思っていた以上に上手だな。元の世界でも踊っていたのか?」


 オズワルドが自分の胸元に視線を落とし、間近に迫る美香に問う。美香は、歩幅の関係で走り回ったせいで上気し、やや乱れがちの息を整えながら、オズワルドに答えた。


「いい…え、元の世界では…はぁ…踊った事なんて、ありません。全部、レティ…シア…に、教えてもらったんです…はぁ…」


 北伐から戻ってきて以降、美香はこの日のためにレティシアに乞い、踊りのレクチャーを毎日の様に受けていた。レティシアは美香に相談を受けると快諾し、以降、就寝前の1時間、二人は自室でダンスの練習に励んでいた。レティシアは自分が男役になって、美香に足運びから目線の動きまで、一つ一つ丁寧に教えていった。そんなレティシアの献身に美香は感謝し、彼女に何かお礼をしたいと申し出る。それに対し、レティシアは一つだけ、美香に報酬を求めた。


 ――― 毎日、練習が終わったら、1曲だけ私とチークダンスを踊って?


 以降、二人は練習が終わった後、火照った身と息の整わない頬を摺り寄せ、オルゴールの音を頼りにチークダンスを踊った。




 美香とオズワルドのバランスの悪い、些か歩調の乱れたダンスを、レティシアは静かに見つめていた。その顔は笑みを浮かべていたものの、その瞳には幾分、切なげな光が混ざっている。


 自分も踊りたかった。できれば、夜遅い外界と区切られた部屋の中ではなく、光が燦々と輝く青空の下で、意中の人と踊りたかった。でも、声をかけていいのだろうか。事情を知る家族以外が見たら、変に思わないだろうか。でも、今日という日を迎えてしまった。美香のレクチャーの目的であった、今日という日が過去のものとなってしまった。もう、レクチャーは行われない。ならば、最後にもう一度だけ、踊りたい。笑みを浮かべていたレティシアの口角が段々と下がり、彼女は押し黙ったまま、二人の踊りを見つめている。


「レティシア殿、よろしければ、1曲踊っていただけませんか?」

「…え?」


 突然、横合いから手を差し伸べられ、レティシアは思わず動きを止める。暫くして、その手を辿るようにレティシアの視線が動き、やがて手の持ち主の顔へと向けられた。


 レティシアの視線の先には一人の男が佇み、端正な顔に笑みを浮かべていた。レティシアより僅かに年嵩のその男は、伝統衣装に身を包み、貴公子という表現が似つかわしい繊細な顔をレティシアへと向けている。その顔立ちに昔の面影を見つけたレティシアは、ゆっくりと男の名前を呼ぶ。


「…エミール…様?」


 レティシアに名を呼ばれ、男が嬉しそうに目を細める。


「ええ、覚えていただけていて光栄です、レティシア殿。…10年ぶりでしょうか。お会いできて、嬉しいです」


 エミール・フォン・アンスバッハはレティシアにそう答えると、笑みを浮かべる。その笑みは洗練されたものであり、中性的な細い唇の端が少しだけ上がった。


 レティシアはエミールの手を取り、ゆっくりと立ち上がる。そして、真っすぐにエミールの目を見たまま、口を開いた。


「先日は、失礼いたしました。せっかくのご縁談をお断りしてしまいまして。お申し出は大変嬉しかったのですが、私は御使い様に命を救われ、残りの人生を彼女に捧げると心に誓いました。彼女に寄り添い、一生を捧げるためには、お申し出をお受けするわけにはいかなかったのです。どうかご理解下さい」


 そう言い切ると、レティシアは静かに頭を下げる。お辞儀と共に目の前に現れた金色の滝を目にして、エミールは困ったように笑みを浮かべた。


「お気になさらないで下さい、レティシア殿。当家も直接ではないにしろ、御使い様に救われたのは同じです。ましてや直接ご自身の命を救われたあなたのお気持ちは、十分に理解できます。どうか、私どもの気持ちも含めて、御使い様にお仕え下さい」

「お気遣い、痛み入ります」


 エミールとレティシアの間には、昨年、縁談の話が持ち上がっていた。しかしその直前、美香に命を救われたレティシアは美香に自分の全てを捧げると家族に宣言し、結果縁談は破談となっていた。以降もディークマイアー辺境伯とアンスバッハ伯爵の両家は変わらぬ関係を維持していたが、当事者同士が顔を合わせたのは、この日が初めてだったのである。


「今日は、ご当主様の名代でいらしたのですか?」

「ええ。父はここ暫く体調が思わしくないもので。私が父の代わりに」

「そんなにお悪いんですの?」

「いえ、ガリエルの寒気に当てられて、少し寝込んでいるだけです。私が戻る頃には、快復していると思います」

「そうですか。それは良うございました」


 二人が世間話をしている間に曲が終わり、踊っていた人々が席へと戻って来る。視界の隅に、オズワルドを伴った美香の姿を認めたレティシアは、首を傾け、美香に声をかけた。


「失礼、少しお待ちになって、エミール様。…ミカ、お疲れ様。楽しかった?」

「ただいま、レティシア。うん、ちゃんと踊れたし、楽しかったよ。これもみんなレティシアのおかげだよ。色々教えてくれて、ありがとう」

「どういたしまして。夜な夜な練習した甲斐があったわ」


 レティシアはそう言って笑みを浮かべると、エミールに美香を紹介する。


「エミール様、この方がロザリアの御使い様、ミカ様です。私にとって何よりも大切な、私の全てを捧げうる方ですわ」

「…レティシア?」


 レティシアのあからさまな紹介に、いつもであれば顔を真っ赤にして否定する美香であったが、その日はレティシアの畏まった雰囲気を気遣い、否定せずに沈黙する。レティシアは紹介を続ける。


「そしてミカ様、この方は、エミール・フォン・アンスバッハ様。当家に隣接する、当家にとって最も信頼する伯爵家の、次期当主様になります」

「初めまして、ミカ様。エミール・フォン・アンスバッハです。御使い様とお会いでき、光栄に存じます。当家もディークマイアー家と同じく、御使い様のお力によって命を救われた者が数多くおります。その者達に代わり、厚く御礼申し上げます」

「そんな!エミール様、頭をお上げ下さい。私は、何も北伐の地において、意図して皆を救ったつもりはございません。その様な過分な御礼をいただいてしまいますと、恐縮してしまいます」


 深く頭を下げたエミールに対し、美香は慌てて宥め、頭を上げてもらう。エミールは頭を上げると、端正な顔に魅力的な笑みを浮かべた。


「お噂に違わず、謙虚な御方ですね、ミカ様。是非一度、当家にお越し下さい。せめてもの御礼に、精一杯おもてなしさせていただきます」

「あ、ありがとうございます」


 テンパって語尾が怪しくなってきた美香を見て、レティシアが助け舟を出す。


「エミール様、せっかくのお誘い、喜んでお受けいたしますわ。オズワルド、申し訳ないけど、少し待って下さるかしら?後ほど改めてお誘いいただけると、嬉しいわ」

「ええ、お待ちしております。レティシア様」


 レティシアはそうオズワルドに伝えると、エミールの手を取り、中央へと歩み出した。




 ***


 陽が落ちて闇の帳がハーデンブルグ全体を覆い尽くすと、昼間の喧騒は一掃され、人々は家路につく。それでも街のところどころで、式典の最後の余韻を味わう笑い声が聞こえていた。


 ディークマイアー家においても全ての行事が終わり、皆最も近しい相手と二人で、式典の余韻に浸っている。マティアスとデボラは結婚して最初の夜を迎えており、フリッツとアデーレは自室で息子の昔話に花を咲かせている。そして美香とレティシアは、毎日の恒例行事となっているパジャマパーティを開催していた。


「しかしレティシア、あなた流石よね。エミール様ともオズワルドさんとも、しっかりと歩調合せて綺麗に舞っていたもの。私なんて、オズワルドさんに振り回されていただけだもんなぁ」


 レティシアのベッドの上で、美香は体育座りをして口を尖らせる。それを見たレティシアは、ベッドに腹這いになったまま、くすりと笑みを浮かべた。


「そりゃあ、年季が違うもの。貴族の作法として、小さい頃からずっと練習してきたんだから。一朝一夕でミカに追いつかれて、たまるものですか」

「まぁ、そりゃそうなんだけどさぁ、センスが無いのよね、私」

「そんな事ないわよ、努力すればすぐに上達するわよ」

「そんなものかなぁ」

「そうよ。いざという時は、私に相談しなさい。また、教えてあげるから」

「うん。ありがとう、レティシア」


 美香はレティシアに笑みを浮かべ、礼を言う。その笑顔に、レティシアは内心で寂しさを覚えながら、別の言葉を口にした。


「さ、そろそろ寝ようか。ミカ、また明日。良い夢を」

「うん」


 レティシアに促されて、美香はベッドから降りて立ち上がる。そして扉の方を向いた後、暫くの間、部屋の隅を見たまま動かなくなった。


「…どうしたの?ミカ」

「うん…」


 レティシアが問いかけると、美香は部屋の隅に向かって歩き始める。そして、壁際に向かうとレティシアに背を向けたまま手を動かし、レティシアに声をかけた。


「…ねぇ、レティシア」

「何?」

「…1曲、踊ろっか」

「…え」


 レティシアが問い返すと同時に、美香の向こうからオルゴールのメロディが聞こえてくる。やがて、身を翻した美香は、メロディを背にしながらレティシアへと近寄り、手を差し伸べる。


「何か、この曲を聞かないと、寝付けなくなっちゃった。悪いけど、毎日私に付き合ってくれる?」

「…うん、うん!喜んで、ミカ!」


 レティシアは跳ね起きてベッドから飛び降りると、美香に抱きつく。そして二人はそのまま頬を摺り寄せ、オルゴールが止まるまで、踊り続けていた。

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