70:残された別動隊

「38度8分か…。下がらないなぁ」

「うぅぅ…ごめんなさぁぁぁい」


 体温計の結果を目にした柊也が呟き、布団の中でセレーネが小さくなる。柊也は布団の端から広がる、輝くようなブロンドの髪に目を向けながら、慰めた。


「セレーネ、そう気にするな。別にあんたを責めているわけじゃない。1ヶ月半も慣れない土地を歩き詰めた上に、あんな目にあったんだ。心身が音を上げても仕方ないさ」

「トウヤの言う通りだ、セレーネ。今は何も考えず、自分の体を労わってくれ。もう、先を急ぐ旅ではないからな」

「ありがとうございます…トウヤさん、シモンさん」


 シモンが慈しむようにセレーネの頭を撫で、セレーネは母親に撫でられた幼子の様に目を細める。二人が織りなす暖かい雰囲気に、柊也も頬を綻ばせた。


 カラディナ入国寸前で、カラディナ国内に広がるセント=ヌーヴェルとエルフへの害意を知った3人は、元来た道を戻るようにカルスト台地を東進し、ラ・セリエ北西まで移動していた。カルスト台地は西と北を険しい山と密林に囲まれており、そこから回廊へと抜けるのは危険と判断した柊也は、時間がかかっても安全策を取る事にし、ラ・セリエ北部まで戻ってから回廊へ抜ける事を選択したのである。そうして10日余りをかけて元来た道を戻った3人だったが、ここに来て、北伐で疲労が蓄積しカラディナの害意にショックを受けたセレーネが高熱を発して倒れ、以来3日間、三人が暮らすテントはこの場に張られたままだった。


「しかし、君も見立てを誤る事があるんだね。右手の力があれば、何でもできると思っていたよ」


 シモンが柊也の方を向いて意外そうな表情を浮かべると、柊也は体温計を脇に置き、手を広げて弁解した。


「そりゃあ、元々は単なる学生だからな。こっちに来るまで医学なんて齧った事もないよ。診察なんてできるわけがない」

「でも、私の時には病気を突き止め、鮮やかに治療してくれたじゃないか」

「アレは例外中の例外だよ。アレほどわかりやすい病状はないからな」


 柊也は苦笑し、それを見たシモンは表情に迷ったように力なく笑みを浮かべる。その雰囲気が何となく気になったセレーネは、熱にうなされながらも、二人に問いかけた。


「あの…お二人は、どうやって知り合ったんですか?」


 問われた二人は、しばらくお互いの顔を見合わせ、やがてセレーネの方を向く。先に口を開いたのは、柊也だった。


「簡単に言えば、ハンター仲間だ。クエストの途中でシモンが病にかかってな。俺が助けた。以来パーティを組んでいる、というわけだ」

「へぇ…」


 悪魔憑きの事もあるので、柊也は簡潔にしてセレーネに説明する。セレーネもそれで納得し、そこで話は終わるはずだった。しかし、そこでシモンが言葉を続ける。


「私は…あの時、一度、死んだんだ」




「…シモンさん?」

「シモン…」


 セレーネが、シモンのいつもと違う雰囲気に戸惑い、柊也は気遣わしげに声をかける。しかし、シモンは二人の方を見ようとせず、空中の一点を眺めながら言葉を続ける。


「私はあの時、全てを失ったんだ。目は見えず、耳は聞こえず、体は指一本動かない。全身は常に激痛に苛まれ、食べる事も言葉を発する事もできなかった。恐怖と絶望で気が狂いそうだった。死んで逃れられるのであれば、すぐに死にたいくらいだった。でも、死ぬ事さえ許されなかった。死んだらサーリア様の御許に召されず、地獄で永遠の苦痛を賜る事になる。私は体だけ生かされたまま、心を殺されたんだ」

「…シモンさん、まさか…」

「…ああ」


 表情を強張らせるセレーネにゆっくりと顔を向けたシモンは、儚げな笑みを浮かべる。


「…私は、悪魔に憑かれたんだ」




「シ…モン…さん…」


 セレーネはシモンの言葉を聞いて絶句し、動けなくなった。エルフにとっても「悪魔憑き」はほぼ同じ恐怖をもって伝えられている。大草原においても、悪魔に憑かれた者は治療を受けられず、そのまま遠方に遺棄されるのが常であった。


 シモンが、その悪魔に憑かれた。これまで1ヶ月半、セレーネに付き添い、時には母親の様に世話を焼き、時には友人の様に親密な言葉を交わしている。そのシモンが悪魔に憑かれていたという発言に、セレーネは信じられない面持ちを浮かべる。柊也がたまらず、声を挟んだ。


「…シモン。無理をするな」

「大丈夫だ、トウヤ。これは昔の話だ。私は、整理できている」


 柊也へ顔を向けずに答えるシモンの目から、一筋の涙が流れる。シモンは涙を拭こうともせず、そのままの姿でセレーネに向けて言葉を続けた。


「悪魔に憑かれた私は、そのまま仲間に捨てられ、魔物の蔓延る山奥に置き去りにされた。心はすでに死に、体は生きていても動かない。そのまま悪魔が孵化するか餓死するか魔物に喰われるか、いずれにせよ地獄に落ちる事は避けられないはずだったんだ。…でも、そうはならなかった」


 シモンが涙を流しながら、柊也へと顔を向ける。


「彼が、救ってくれたんだ。彼だけが、私の傍にいてくれたんだ…」




「彼が、右手の力を使って悪魔を追い払ってくれた。彼が死にかけの体を守り、生きる力を与えてくれた。彼が、すでに死んでしまった心に新たな息吹を吹き込み、私を生まれ変わらせてくれた。彼が、覚束ない私を支え、養ってくれた」

「…彼が、私を産み、育ててくれたんだ」


 シモンは柊也の方を向いたまま、言葉を続ける。セレーネへの説明は、いつの間にか別の人間への告白へと変わる。


「だから、私は、あなたについて行きたい。私の生ある限り、あなたの傍で、あなたと同じものを見て、あなたと同じものを食べ、そして、あなたと同じものを感じて生きたい」

「…だから、頼む。私の人生を、連れて行ってくれ」

「…」


 涙ながらのシモンの告白を真っ向から受けても、柊也は何も答えない。ただ俯き顔の表情を隠したまま左腕を伸ばし、シモンの頭を抱えると自分の首筋へと引き寄せ、力いっぱい抱きしめる。シモンは柊也に身を任せ、流れる涙を拭きもせず目を閉じ、二人はそのままの体勢で長い間お互いの鼓動を確かめ合っていた。


 セレーネは床に伏せたまま、二人を眺めている。やがて上を向くと両手を組み、涙混じりの声で言葉を紡いだ。


「…私、ティグリ族 族長グラシアノの娘セレーネは、シモン・ルクレールの悪魔憑きに関する全てを、…ぐす…、死ぬまで口外せず隠し通す事を、サーリア様に誓います」


 セレーネの言葉を聞いた二人は顔を上げ、セレーネを見る。二人の視線に気づいたセレーネは、涙まみれの笑顔を向けた。


「大丈夫ですよ、シモンさん。この後、シモンさんは絶対に幸せになりますって…ぐす…、私が保証しますから…、だから…ひっく…、ふぇぇぇぇぇ」

「…ああ、もちろんだとも。私はきっと幸せになる。だから泣くな。良い娘だな、セレーネは」

「シモンさぁん…、ふぇぇぇぇぇ」


 シモンが柊也から離れセレーネにすり寄ると、セレーネはシモンの膝の上に身を乗り出し、シモンの腰に腕を回し太腿に顔をうずめて泣き出してしまう。シモンがセレーネの頭を優しく撫で、慰める。そんな母娘の様な二人を、柊也はようやく前を向けるようになった顔を向け、優しく見つめていた。




 それからしばらく経ち、お互いが落ち着きを取り戻したのを見計らって、柊也が話を戻した。


「さて、しばらく様子を見ていたが、熱が下がらないからな。少し対策を施すか」


 そう言って柊也は右手を使い、小さな物体を取り出すと、シモンへと放り投げる。


「シモン、使い方はわかるな?」

「ああ。もう慣れたよ」

「俺は後ろを向いている。後は任せた」

「わかった」


 そういうと柊也は後ろを向き、テントの布を眺める。セレーネはそんな柊也の行動に、シモンの膝の上に身を預けたまま、怪訝な目を向けた。


 すると、シモンがセレーネの体を軽々と抱えると、自分の太腿の上を横切るようにして下ろし、左腕でセレーネの両肩を押さえつける。そして、右手でセレーネの腰を上げて膝立ちさせると、パンツとショーツを一気に膝まで擦り下ろした。テントの中で、セレーネの可愛らしい曲線が、露になる。


「なななななななな!シモンさん、一体何を!」


 突然の事にセレーネは慌てふためくが、獣人の膂力に太刀打ちできず、押さえつけられたまま動きが取れない。そんなセレーネの顔前に、両肩の押さえを右腕に切り替えたシモンが、左手に持った小さな物体を持ってくる。


「セレーネ。これは座薬と言ってな。向こうの世界で解熱に使われる薬だ。これをお尻から入れると、一気に熱が下がるんだ」

「ええええええええ!?お、おし、お尻ぃ!?」


 突然、今まで耳にした事もない話を聞かされ、セレーネが硬直する。シモンはその間に座薬を右手に持ち替え、左腕で両肩を押さえつけたまま、右手をお尻へと持って行く。


「ちょちょちょちょちょっと、シモンさん!ちょっと待って!」


 押さえつけられたままのセレーネが、それでも身を捩るようにして、座薬から逃れようとする。そんなセレーネに、シモンの声が降りかかった。


「セレーネ、大丈夫。安心して」

「え…」


 突然、母性溢れる声を投げかけられたセレーネは動きを止め、シモンの顔を見上げる。セレーネのお尻に右手を添えたまま、シモンは左から覗き込むようにセレーネへと目を向ける。


 そこには、遥か大草原にいる実の母親と同じ、深い愛情に溢れた笑顔があった。セレーネは一瞬我を忘れ、大草原にいる母親を重ねて、シモンの顔を見つめる。そんなセレーネに、シモンは深い労わりと慈しみを籠め、愛する我が子に接するかの様に優しい声をかけた。


「…慣れれば、新しい世界が見えてくる」

「けけけけけけけけ、結構です!私はまだ当分の間、清らかな乙女のままでいますからあああああああああああああああ、お母さぁぁぁぁぁん!」




 ***


 しばらくの間布団の中で身を丸め震えていたセレーネだったが、やがて小さく規則正しい寝息を立て始める。座薬の効果は十分に発揮されたようで、熱にうなされる様子はなく、安らかな寝顔だった。柊也とシモンは肩を並べ、セレーネの寝顔を眺めている。


「…ねぇ、パパ」

「…どうした?」


 セレーネの方を向いたまま、シモンが柊也を呼ぶ。柊也は、そんなシモンの様子を窺い、気遣うように応じた。シモンが柊也を「パパ」と呼ぶのは、あの洞窟以来だった。


 シモンはなおもセレーネの方を向いたまま、柊也の左腕にしがみ付き、柊也の肩に頭を乗せる。


「…私を、置いて行かないでね。一緒に連れて行ってね」

「…ああ、勿論だ。何処へでも一緒に行こう」

「…うん…」


 そうして二人は互いに寄り添ったまま、セレーネの寝顔をずっと眺めていた。

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