9:リーデンドルフ

「何?視察を行いたいと?」


 今日も今日とて美香を送り届けに柊也の部屋を訪問したハインリヒは、柊也からの突然の申し出に眉を顰めた。


「ええ、それと、できればその時に、ハインリヒ殿の見解を伺えればと」


 ハインリヒの訝しげな返事にも柊也は気にせず、首肯し、笑みを浮かべる。その態度がハインリヒの神経を逆なで、彼は苛立ちを覚えた。聞くところによると、昨日この男は体調不良と称して一日中伏せていたそうだが、今日の様子を見る限り、病み上がりとは到底思えない。仮病を使ってでも部屋から出てこないこの男に対し、ハインリヒは内心で腸が煮えくり返る思いだった。


 正直、ハインリヒは柊也の顔を見たくもない。にも拘らず、毎日の様にこの男と顔を突き合わせているのは、美香が講義の帰り際に必ず柊也の部屋を訪れるからだ。


「お、先輩、ついに本領発揮ですね。で、どちらの設定で行くんですか?現代チート?それとも『待て!これは孔明の罠だ!』の方?」

「何で、ここで俺が罠をかけなきゃいけないんだよ…」


 勝手に柊也の執務椅子に座り、机に散らかる書物を覗き込んでいた美香が顔を上げ、柊也に軽口を叩く。その自然な二人のやり取りが、ハインリヒの心に新たなささくれを生んだ。


「どちらかというと、現代チートの方だな。…と、ハインリヒ殿、失礼しました。ここから少し離れた所に、リーデンドルフと呼ばれる湖があると伺いました。聞けば、豊かな水源であるにも関わらず、現在のところ何ら人の手が加わっていないと」

「私達がいた元の世界では、土木技術が発達していました。私はこの通り素質も右腕もなく、自らの知識以外に武器を持ちません。であれば、元の世界の知識を活かして、この国に貢献しようかと考えています」

「そのため、まずはリーデンドルフを訪れ、ヴェルツブルグへの灌漑事業を検討したいと考えています。ハインリヒ殿には、その視察に同行いただき、現地で魔術師としての知見をお聞かせいただきたいのです。灌漑工事に魔法が活用できるだろうと、私は思いますので」

「ほう…、シュウヤ殿、少し時間をくれるか?」

「ええ、どうぞ」


 柊也の申し出に、ハインリヒは返事を保留し、そのまま考え込む。


 先日のリヒャルトとの会合の時にリヒャルトから放たれた言葉の矢は、ハインリヒの心に深く突き刺さり、それ以来、ハインリヒは内心でのたうち回っていた。しかも矢には陰惨な毒が塗りたくられており、傷口は膿み、ハインリヒの心はすでにどす黒く濁っている。


「視察は、いつ頃を予定している?」

「ハインリヒ殿のご都合の良い時で構いませんが、…3日後はいかがでしょう?彼女の講義がないので、ハインリヒ殿のご都合もつきやすいのでは」

「3日後か…」


 そう、3日後はリヒャルトが催すお茶会に美香が招待されており、ハインリヒの講義がない。ハインリヒも、特に他の予定を入れていなかった。


 実は、美香がリヒャルトのお茶会に招待された事も、ハインリヒは気がかりであった。ハインリヒにとっては意外な事に、リヒャルトは柊也と美香の二人の関係に好意的で、先日の会合でも二人の進展を気にかけている。第一、リヒャルトがこれまでお茶会を催した事など、ほとんどない。であれば今回のお茶会は、リヒャルトが美香を後押しするために何か画策したものだと考えられる。ハインリヒはそう疑った。実のところ、美香の歓心を得たいリヒャルトがレティシアのお茶会を真似ただけなのだが、ハインリヒはそうは捉えなかった。


 その結果、ハインリヒは、このお茶会がタイムリミットだと結論付けた。このお茶会が開催された夜、二人の間に決定的な進展があるかもしれない。つまり、それまでに行動しなければならない。


「…良かろう。その日の視察に同行しよう。馬車や人員はもう手配したかね?」

「殿下には、騎士の同行のご許可をいただきましたが、それ以外はまだ」

「なら、その辺は私が調整しておこう。任せたまえ」

「ありがとうございます」


 一礼する柊也を尻目に、ハインリヒは早々に部屋を辞した。3日後となると、ハインリヒとしてもあまり時間がなく、早急に策を練らなければならない。しかし、王城の衆目をどうかいくぐるか悩み続けていたハインリヒにとって、人目のほとんどないリーデンドルフへの視察は、僥倖と言えた。


「へぇー、先輩って、土木関係の知識も持っているんですね。意外だなぁ」

「ああ、大学受験で何処に行くか迷った科目の一つでね、少し齧った事があるんだ」


 嘘である。リーデンドルフへ向かうための口実でしかない。美香に対して本当の事を言えない柊也は、良心の呵責を覚えながら、そう答えた。




 ***


 リーデンドルフへの視察を明日に控えた、その日の夜。夕食を済ませた二人は就寝までの間、いつも通りの雑談をして過ごしている。


「いよいよ明日、視察ですね。先輩、初めてのお使い、本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ」

「本当に?保護者がついて行かなくても平気?」

「おまえ、俺の事を何だと思っているんだ…」


 軽い口調で美香が茶々を入れ、柊也が突っ込む、二人の間で恒例となったやり取り。しかし、柊也は内心でかなり動揺していた。自分が生き残るためには避け得ない、唯一の道。これ以外に取り得る手段はないという決心は微塵も変わりがないが、それでも美香に対し何も伝えずに去る事を思うと、忸怩たる思いでいっぱいだった。心の整理は全てついたつもりでいたのに、何で今頃…。


「…ねぇ、先輩。何か隠し事、してません?」

「いや、そんな事ないぞ」


 口の中がカラカラに乾く。くそっ!女ってのは、何でこんな時、鋭いんだ!そう心の中で悪態を付きながら柊也は、突然じっと見つめてきた美香を、全身全霊をかけ見つめ返した。


「…はぁ。男の人って、どうしてこう、頑固なんだろ」


 やがて、美香はそう呟くと横を向いて目を閉じ、呆れたように息を吐き出す。そして、再び柊也の方を向くと、いつも通りの軽い口調で、言葉を紡いだ。


「先輩、必ず無事に帰って来て下さいね。無事に帰って来たら、…私が、ご褒美を差し上げます!」

「何だ、ご褒美って」

「秘密です。どうしても知りたければ、無事に帰って来て下さいね」

「はぁ、わかったよ」

「いや、ため息をつきたいのは、私の方なんですが…」


 こうして夜は更けていき、やがて視察の日を迎えた。




 ***


 車輪が不快な音を立てながら小石を踏みしめ、やがて回転を止めた。後には、木のざわめきと、鳥の鳴き声だけが残される。


 馬車から降りた柊也は、美欧大学のキャンパスとは比較にならない雄大な自然に圧倒され、しばらくその場に立ち尽くした。馬車道は辛うじて自然の侵食を免れ、その存在を示しているが、上を見上げると左側から木々の枝が高波の様に覆いかぶさっており、隙あらば柊也を飲み込まんと構えているように見えた。一方、右側は視界が開け、対岸の木々が美しい稜線を描いているが、手前に目を向けると、大きく張り出した岩棚の先には何もなく、岩棚の下には湖が広がっている。湖面は暗青色の暗い水面をたたえ、透明度はあまり良いとは言えない。


 ヴェルツブルグを出発して、馬車で南西へ2時間。柊也達は、リーデンドルフ湖畔へ足を踏み入れていた。同行者は6名。ハインリヒと、騎士が4名。それと、リーデンドルフ方面の道に明るい事を買われ、雇われた御者である。出発にあたり護衛がやや少ないのでは、という声も一部から出たが、王国随一の魔術師であるハインリヒが同行する事もあり、計画は変更されなかった。


 騎士達が、2人が馬上で、2人が馬を降り警戒に当たる中、柊也とハインリヒは岩棚に足を踏み入れ、湖面を見下ろしながら意見を交わす。


「水質は良さそうな感じですが、話に聞いていた以上に険しい地形ですね」

「ああ、ヴェルツブルグと湖の間にある山が邪魔でな。水がヴェルツブルグとは逆の方向へ流れてしまうのだよ」

「なるほど…。これは、トンネルでも掘らないと厳しいかもしれませんね」

「トンネルだと?そんな事ができるのか?」

「こればかりは、地質を調べてみない事には何とも」


 次第に熱を帯び始める二人の会話に聞き耳を立てていた騎士達であったが、やがて二人とは別の方角から押し寄せる声に気づき、その方向を振り向く。そして…。


「敵襲っ!」


 騎士の突然の警告に二人が振り向く。そこには思い思いの姿をした14~5人の男達が森から駆け下り、今まさに騎士達に襲い掛かろうとしていた。

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