【2-18】罪悪感とシチュー

 キャサリンから銀のシチューポットを受け取ったジョセフは丁寧な仕草でキリエの前にそれを置き、そっと蓋を外してくれる。現れたのは、ほくほくと湯気を立てているミルクシチュー。マルティヌス教会で食べていた「シチューもどき」とは違い、色も匂いも濃い。


 ──これが、本当のシチュー。そう思った瞬間、キリエの脳内にとある子どもたちの顔がよぎる。ふとしたときに思い出してしまう彼らの顔が、今は随分と鮮明な記憶として蘇った。


「キリエ様、慣れないことの連続でお疲れでしょう。今回はパンとシチューだけですし、作法などはお気になさらず、お好きなように召し上がってくださいませ」

「ありがとうございます。……まずは、神に祈りを」


 パンを置きながら優しい言葉を掛けてくれるジョセフに対し礼を言ってから、キリエは膝の上で両手を組み、瞳を閉じる。正面でもリアムが祈りの体勢に入ったらしいことが、気配で伝わってきた。

 王都へ無事に着いたこと、リアムと離れずに過ごせるようになった心強さ、食事を与えられているという恵み、それらへの感謝を祈りつつも、キリエの頭の片隅では「あの子たち」がざわついている。シチューの匂いが余計にそうさせているのは明白だった。


 祈りの手を解いて顔を上げると、皆があたたかい眼差しでキリエを見ている。彼らの目は、キリエがスプーンを手に取ることを期待していた。その期待に応えるべく、キリエは「いただきます」と言ってから銀のスプーンをそっと手に取る。今まで木の匙しか持ったことがない指先にとって、銀食器は随分と冷えた感触に思えた。


 おずおずと匙をシチューに浸し、控えめに掬い上げる。そっと唇を近づけて恐る恐る口に含んだシチューは、温かく、なめらかで、濃厚で、優しい味がした。──これが、本当のシチューなのだ。


「美味しいです」

「ありがとうございます。お口に合ったのでしたら、とても嬉しいですわ」

「美味しいです、すごく、……っ、ぉ、おいし、……っ」

「……キリエ様?」


 味の感想に喜びの声を上げたキャサリンだったが、キリエの様子がおかしいことに気づき、すぐに心配そうな顔に変わる。

 キリエは、泣いていた。ここ数日、涙ぐむことはあっても実際に泣いたことはない。しかし、今は大粒の涙を流し、身体を震わせて泣いていた。


「キリエ、どうした?」


 数秒間、唖然としていたリアムだが、すぐに我に返って席を立つ。そして彼は使用人たちを押しのけるようにしてキリエへ駆け寄り、椅子の横に膝をついて顔を覗き込んできた。


「どうした、キリエ。泣くほど嫌なら、無理をして食べることはない」

「ち、ちが……っ、嫌なんじゃなくて、本当に美味しくて、おいしいから、あの子たちに申し訳なくて……っ」

「あの子たち? ……マルティヌス教会の子どもたちか?」

「そうだけど、そうじゃな……っ、です」


 リアムは困惑しながらもキリエの背を撫で、根気よく問いかけてくる。


「キリエ。ゆっくりでいい。話せる範囲だけで構わないから、何をそんなに悲しんでいるのか教えてくれないか?」


 キリエは嗚咽と共に頷き、ぽつりぽつりと話し始めた。



 ◇



 それは、今から八年前──キリエが十歳のときのこと。とある流行病が蔓延し、ルース地方で多くの人間が亡くなった時期があった。

 より死亡率が高かったのは栄養不足の幼児で、マルティヌス教会でも三歳から七歳までの孤児が計十二名亡くなった。キリエやエステルと他の子どもたちの間に大きな年齢差があるのは、その事情があったからだ。


 貧しい教会では医者に診せる資金を繰り出せず、栄養価のある食料を確保するのも難しかった。当時は流行病に加え、天災の影響で作物があまり収穫できず、食料品の値段が高騰していたという不幸も重なっていたのだ。


 衰弱し、高熱にうなされていた子どもの一人が、「シチューが食べたい」と弱々しく呟いた。時々、教会で出しているような薄めたシチューではなく、絵本で見るような本物のシチューが食べてみたい、死ぬ前に一度食べてみたい、と。その子どもの言葉を皮切りに、病床の他の子どもたちも口々に「本当のシチューを食べてみたい」と譫言のように繰り返した。──そして、次々に死んでいった。


 その子どもたちの死期が迫っていると幼心に察したキリエは、周りの農家や街の人々の家を一軒一軒回って頭を下げた。一回だけでいい、少量だけでいいからシチューを作りたい、その材料を恵んでほしい、と。

 しかし、当時はどの家庭も食糧難で、自分たちが食べていくので精一杯という状況だ。街中には裕福な家庭がいくつもあったが、複雑な面持ちでの門前払いを受けただけだった。結局、どこからも施しは受けられず、死んでいく子どもたちには薄めたシチューすら与えられなかった。


 成長して働くようになったキリエは、少しでも多く賃金を得られたときには必ず「シチューもどき」を教会の子どもたちに食べさせるようになった。「あの子たち」へ与えられなかった分を、今の子どもたちへ与えることで、罪悪感を拭いたかったのかもしれない。



 ◇



「急に泣き出したりして、すみません。せっかくのお食事の席に水を差すようなことをしてしまって、本当にごめんなさい。……とても美味しいから、こんなシチューをあの子たちにも食べさせてあげたかったな、と。そう思ったら、つい、涙が」


 過去の出来事を話しているうちに落ち着いてきたキリエの涙は一度止まっていたのだが、また一筋ぽろりと零れる。リアムが手を伸ばし、指先でその雫を拭ってくれた。そして、大きな手のひらが銀髪の頭を撫でてくる。


「謝らなくていい。ありがとう、話してくれて。……そうか、だからお前はあまり食べられなかったんだな」


 キリエが少食である原因に過去の経験からの罪悪感が絡んでいることを把握したリアムは深々と頷き、頭を撫でていた手をそのまま滑らせるようにして主の肩へ触れた。


「キリエ。王都までの道中でも話したが、これからのキリエは忙しくなるし、慌ただしい日々を乗り切っていくには丈夫な身体が必要だ。だから、キリエにはきちんと食事をとってほしい」

「……はい」

「我がサリバン家の食事は、決して贅沢なものではない。この家の財力やキャシーの思想の関係で、正直なところ街中の一般家庭と変わらない献立内容だ。だから、キリエが罪悪感をおぼえる必要はないんだ」

「……でも、」

「キリエが元気に活動していくことで、きっと多くの子どもたちが救われる未来に繋がるだろう。お前が看取った子どもたちだって、キリエが罪悪感を持ったまま満足に食べられずにいるよりも、健やかに生きていくことを望んでくれるはずだ。キリエは『あの子たち』を忘れたりしないだろう? それで十分だ。その祈りで十分なんだ、キリエ」


 リアムの言葉が、キリエの心の片隅で凍りついていた何かを緩やかに溶かしてゆく。まだ完全に消えたわけではないけれど、燻り続けていた罪悪感の火種はだいぶ小さくなった。


「はい。……ちゃんといただきます、今度こそ」


 涙を拭い自然な微笑を浮かべたキリエを見て、周囲の三人もほっとしたように息をつく。場の空気が和んだところで、キャサリンが穏やかに言った。


「シチュー、温め直してきますわね」

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