夜霧の騎士と聖なる銀月

羽鳥くらら

第1章

【1-1】プロローグ-夜霧-

 獣の遠吠えがいくつも重なって聞こえる森の中、少女は泣きながら懸命に走っていた。夜になる前に森を抜けるはずだったのだが、道に迷っている間に周囲はすっかり昏くなってしまったのだ。


 森には狼や凶暴な野犬がいるから行ってはいけないよ、特に夜は近付いてはいけないよ、そう念入りに言い聞かされていたのに、それを破ってしまったのは少女の落ち度だ。

 しかし、少女は決して好奇心だけで森へ足を踏み入れたわけではない。ただ、荒い息で闊歩している動物たちに話が通じるとは思えなかった。


 陽が落ちるとともに気温がグッと下がり、少女が吐き出す息も白く濁る。体が震えているのは寒さのせいか、それとも恐怖のせいなのか。


「あっ!」


 がむしゃらに走っているうちに、大きな石につまづいてしまった少女は容易く転んでひざを擦りむいた。


「うぅ……、いたいよぉ」


 転倒したことで緊張の糸がプツリと切れてしまい、少女はその場でひざを抱えて本格的に泣き始める。涙を流したところで何も解決しないことは幼い頭脳でも理解しているが、彼女は六歳だ。それ以上、頑張れそうになかった。


 グルルルル──、と低い唸り声が迫ってくる。狼か、あるいは野犬か。どちらにせよ、少女にとってありがたい存在ではないことは明白だった。

 きっと、捕まってすぐに鋭い爪で肉を抉られ、食べられてしまうのだ。その苦痛と恐怖を想像した少女は、絶望と共に抱えたひざへ額を押しつけた。

 草や枯葉を踏みしめながら、何かが近付いてくる。明らかに人間のものではない呼吸音は、ひとつではない。獣たちに蹂躙されることを思い、少女が噛みしめている奥歯が震えてカチカチと音を立て始めたとき、


「エステル!」


 少女の名を呼ぶ声が響いた。

 少女──エステルは弾かれたように面を上げ、獣たちは不思議と唸り声を止める。夜闇の静寂の中、急いで駆けつけたと思われる少年の乱れた呼吸の音だけが響いていた。

 少女を庇うように両腕を広げて立つ少年の銀髪がさらりと風になびく。少女と背丈が変わらず、体つきも幼いばかりか標準よりも細いというのに、今のエステルにとっては何よりも頼もしい後ろ姿に見えた。


「キリエ……っ」

「エステル、怪我はありませんか?」


 キリエは、三頭の大きな野犬と対峙しながらも優しく問いかけてくる。八歳ながらも常日頃から敬語で話す穏やかな少年は、命を落としかねない今の場面でも落ち着きはらっていた。


「うぅ、ちょっとだけ……」

「野犬のせいですか?」

「ううん、転んだの」

「そうですか……、かわいそうに。教会に帰ったら、シスターに手当てしてもらいましょうね」

「帰れる? だって、こわい動物が……っ」

「大丈夫。僕が君を守ります」


 守ると言ってくれるのは嬉しいが、キリエもエステルとあまり年齢が変わらない非力な少年だ。むしろ、教会で暮らしている孤児たちの中でも最弱に入るだろう。

 ウゥゥ…と唸る野犬たち。怯えるエステルがそちらに視線を向けると、三対の鋭い双眸に射貫かれた。再び絶望的な恐怖を味わった少女は気づかなかったが、何故か野犬たちはキリエに対しては攻撃的な姿勢を見せず、ただひたすらにエステルを狙おうとしている。


 この状況をどう見定めたのか、しばらく考え込んでいたキリエは、その優しい銀色の瞳をエステルの方へ向けた。そして、少女のひざの傷が軽いものだと確認をして、小さく頷いて言う。


「エステル。僕が野犬たちの注意を引きつけるので、その間に君は全力で走ってください」

「え……」

「この道をまっすぐ走って、正面に大きな木がある分かれ道に着いたら右に曲がって、またまっすぐ。そうしたら、教会に着きますから」

「ダメ! ダメだよ、そんなの! それじゃあキリエが危ないじゃない!」


 エステルはこげ茶のおさげ髪をぶんぶんと振り回すようにして、必死に首を振った。

 確かに、教会には帰りたい。しかし、だからといってキリエを──家族を見捨てられるはずがない。恐怖を噛み殺しながら抵抗するエステルに、それでもキリエは微笑みかけた。


「大丈夫。ほら、僕ってあんまり怒られないでしょ?」

「う、うん……、それは、そうだけど」

「だから、きっと、野犬たちにも怒られないと思うんです」


 キリエが明言しているように、彼は誰かから叱責されることが殆ど無いし、悪意を向けられることもない。それはキリエ自身が品行方正で礼儀正しく賢い少年だからだろうが、それだけではなく何がしかの特異体質ではないかと思わせる不思議な感覚もあった。


 孤児は街の人々から何かと冷たい目を向けられがちなのだが、キリエに関しては何故かそうでもない。銀色の髪、そして銀色の瞳という大変珍しい色で生きているにも関わらず、そして銀髪・銀眼は伝説上の生命体である妖精人エルフだけが持つものだなどと言われているのに、奇異の目を向けられていないのだ。

 人間は「仲間はずれ」が大好きな生き物なのに、それは街の人々も例外ではないはずなのに、明らかに「異物」であろうキリエに対しあからさまに冷たい者はいなかった。


 だが、だからといってキリエの不可思議な雰囲気が野生動物にも通じるとは限らない。今のところ、獣たちは少年にはさほど敵意を向けようとはしていないようにも見えるが、絶対にそうとも言い切れないのだ。

 少女は幼い勇気を振り絞って、首を振り続ける。ジリジリとエステルに近付こうとする野犬たちの注意を逸らし盾になりながら、キリエはあえて明るい声を出した。


「エステル、君も僕もちゃんと教会に帰りましょう。そして、神父様とシスターたちに心配かけてごめんなさいって一緒に謝って、一緒におやすみをして、一緒におはようをしましょう。約束です」

「約束?」

「そう、約束。僕が約束を破ったこと、ありますか?」

「……ない」


 キリエはいつもまっすぐで、嘘をつかない。誰と交わした約束であろうと、必ず守る。それは、エステルもよく分かっている。それでも不安げに瞳を揺らす少女に対し、銀の少年は力強く頷いた。


「エステル、いい子だから僕を信じて」

「……、わかった。あたし、キリエを信じる」

「ありがとう。……さぁ、走って!」


 キリエの言葉に背を押され、少女は勢いよく立ち上がり、足がもつれそうになりながらも懸命に駆け始めた。エステルが動き出すと同時に、野犬が彼女を狙って追ってゆく。その導線を予想していたキリエが立ちはだかると、獣たちは牙を剥きながらも動きを止めた。


「お願いです、このまま見逃してください!」


 必死に訴える少年を襲う気配はないが、野犬たちは唸り声を絶やさずにエステルを狙い続けている。


「君たちの森に入ったのは謝ります! もう、来ませんから、だから──あッ!」


 キリエの隙をつき、真横を一頭がすり抜けて駆けて行ってしまった。少年がそちらを目で追っている間に、他の二頭もエステルを追ってゆく。

 蒼ざめたキリエが全力で野犬たちを追いかけるものの、少年の──それも運動が得意ではない脚では敵うはずがない。獣たちが迫る気配を感じて振り向いたエステルが、強張った顔で悲鳴を上げた。


「いや……っ、やだぁ! こないで! こないでよ!」

「エステル!」

「キリエ──!」


 少年と少女の心を、絶望が満たしてゆく。

 もう駄目だと思考を投げ捨てて観念したくなった二人が目を閉じたとき、大きな黒い影が野犬たちを蹴散らした。キャゥンッと鳴き声を上げた一頭が宙で弧を描いたのち、冷たい土に落ちた反動で何度か跳ね上がり、最終的には転倒する。死んではいないが、意識を失って痙攣していた。


「大丈夫か?」


 聞き覚えの無い声からの問い掛けを受け、キリエとエステルは恐る恐る目を開く。彼らの視界の中には、唸りながらもたじろいでいる野犬二匹、地面に伏して気絶している一匹の他、立派な体躯の黒い馬と、そこから降りてくる少年と青年の間の雰囲気を漂わせた男がいた。


 黒に近い紺鼠の髪、深い藍紫の瞳、そして左目の下に泣きぼくろがあり、身に纏っているのは純白の騎士服。そんな風貌の彼が誰であるのか、幼い子どもたちにも心当たりがあった。


夜霧よぎりの騎士様……」


 キリエの呟きを拾った若き騎士は少年を見て僅かに目を瞠った後、口元に笑みを刻んだ。


「その呼び名は気恥ずかしいからやめてほしいんだが……、話は後だ。すぐに終わらせるから、下がっていろ」

「──殺しちゃうんですか?」


 心優しい少年にとって、自分たちが襲われていた凶暴な野犬が相手とはいえ、命を奪うことには抵抗があるらしい。キリエのそんな懸念を感じ取ったのか、騎士は視線で野犬たちを威嚇しながらも首を振る。


「無闇に命を奪うのは好まない。安心しろ。追い払うか、気絶させるか、その程度の対処で済ませる」


 そう言い終わるやいなや、騎士は固い踵で地を打ち鳴らす。その挑発に乗せられた一頭が彼を目掛けて飛びかかっていくが、騎士は器用に野犬を躱してその脇腹を蹴り上げ、手にしていた剣の鞘で頭部を殴打した。その間、まばたきを二度する程度のまさに一瞬である。

 鮮やかな返り討ちに遭った野犬は、先ほど馬の脚に蹴られて倒れ伏していた仲間の側で気絶してしまった。残る一頭は、逃げるか歯向かうかを悩むように低く唸る。

 騎士はそれ以上は野犬を煽ろうとはせず、かといって自ら攻め込むこともせず、冷静に状況を見ていた。


 キリエは初対面だが、それでも彼が「夜霧の騎士」だろうと分かった。まだ王国騎士団に入ったばかりだというのに、王国一番の剣技の持ち主で、十五歳という若さを忘れさせるほど冷静沈着で鋭い状況判断をするという伝説の騎士。外遊中の護衛部隊に早速加わり、賊から国王の命を守る功績を上げたという話もあった。

 彼の髪も瞳も昏めの色彩ではあるが黒ではなく、霧がかった夜闇に近いということで、「夜霧の騎士」という名誉称号を授かったという。左目の下に泣きぼくろがあるという特徴も、噂通りである。


 夜霧の騎士は王国騎士団の精鋭で、本来は王都にいるはずだ。そんな彼がなぜ郊外の、それも滅多に人が近付かない森にいるのかは分からないが、背がまっすぐに伸びた立ち姿がなんとも頼もしい。


 不意に、最後の一頭となってしまった野犬が咆哮を上げる。どうやら立ち向かうことにしたらしい獣に対峙する騎士は、余裕の笑みをうっすらと浮かべた。


「おとなしく逃げればいいものを……まぁ、いい。受けて立ってやろう」


 騎士が逆手で招くのに誘われたかのように、野犬は力強く地を蹴る。勢いよく跳ね上がり敵の喉元を狙った野犬の素早さは相当なものだったが、夜霧の騎士は表情ひとつ変えることなく身を翻し、剣の柄で獣の顎を殴り上げた。


「あっけないものだな」


 つまらなそうな呟きと共に、騎士の長い脚が野犬を思いきり蹴り上げる。宙を舞っている野犬はもう戦意喪失していただろうが、若き騎士はついでと言わんばかりに敵の顔面に拳を叩き込んだ。力いっぱい殴られた野犬は四つの脚をだらりと垂れ下げたまま飛び、他の二頭と同じように地に伏して動かなくなった。


 少年と少女を怯えさせていた脅威は、騎士の介入によりまさにあっけない幕切れとなってしまった。呆然としている子どもたちを振り向き、夜霧の騎士はふっと笑う。


「さて、もう一度聞こう。──お前たち、大丈夫か?」

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