罠の戦争

『罠の戦争』というドラマが今放映中である。

 草彅剛主演で、「銭の戦争」「嘘の戦争」に続く戦争シリーズの第3弾である。息子を瀕死の重体に追いやった事件の犯人と、それを隠蔽しようとする国会議員への復讐に燃える議員秘書の姿を描く。



 権力のためなら、自分の子どものためなら他人はどうなってもかまわない国会議員という悪役で出ている(主人公が打倒目標としているボスキャラ)本田博太郎の演技が、憎いほどに上手い。(で、実際憎い)架空の話とはいえ、見ている視聴者に腹を立てさせることができるのは、さすがと言える。

 で、私たちはこういうドラマを見て、見せる側が意図的に「こいつは悪ですよ」と示す者に腹を立て、コイツは成敗されんといかんばい! 復讐されて当然! という気持ちになる。そして主人公とその協力者たちを応援し、最後悪役が追い詰められ報いを受けたならば、「よかった」「これでいいんだ」という納得と共にカタルシスを得る。晴らせぬ恨みを晴らす裏稼業を描いた時代劇『必殺シリーズ(仕事人)』などもそういうところがある。



 私たちは、人間というものをついつい一面的に見てしまう。

 たとえば、ヒトラーと聞けば真っ先に「悪人」と連想する。マザー・テレサと聞けば真っ先に「善人」と連想する。しかし、悟りの視点からはこの二人に価値の差はない。というか、腹が立つ人もいるだろうが人の本質としては、この二人の間の差はたった紙一重である。

 人というのは、誰でも例外なく多面的である。いい部分があれば、そうでない部分、つまりは欠点がある。ここに生じる個人差とは、「何に長けていて(どこが強くて)何が苦手か(弱いか)」の分布が色々だという点だ。

 世の中で、法律に触れることもせず警察のお世話にもなることなく、善人として一生を終えるような人がいても、心の中で誰かをいわれなく悪く思い、差別していたはずだ。ただ、それが表向きは「他人の目に目に見えた現象として触れることがなかった」というだけのことで、人間心の内の善と悪の要素はほぼほぼバランスが取れているのだ。

 逆に、殺人事件を犯したり逮捕され不名誉にも犯罪者として報道されてしまったような人は、たまたま「その心の中の悪い部分(弱い部分)が現実に世に見られる形で現出してしまった」だけに過ぎない。善良な(?)一般市民は「あんなやつは死刑だ」とか「あんなことするなんて信じられない」と言うが、実は愚かにも忘れている。紙一重の差で、たまたまあなたが人様から悪人だといわれないで済んでいるだけだということを。



 自分の心がけや努力で、己を律し高めることが出来ると信じている人には嫌われることを言おう。



●この世界で犯罪者となって日陰者に転落するか、何も罪を犯さず最後まで安定した人生を送れるかどうかは、もはや個人の力や努力の差というより「運」である。



 運とは、自分の力だけではどうにもならない環境や外部の大きな流れの力によって、決められたある道に抗えず押し出される、という経験を人生でするかどうかというところである。すべて自分の意志と力でどうにかなる、と豪語する人はいっぺん「どうにも選択肢などない。自分の意志で選び取るなど不可能」となる人の状況を味わってみればいいのだ。



 紹介したドラマの悪役の国会議員だって、あれはドラマだし限られた時間のものだから、その人物の「悪いところ」だけしか描かない。だからその情報しか受け取らない私たちは当然「悪の代名詞」として見て、その人物を全力で憎むことになる。そして主人公は、その悪役に陥れられたかわいそうな人、また悪に正しい裁きを下そうと頑張る姿に「いい人」というイメージを重ねる。その主人公だって国会議員と同じ人間で、そのトータルな人生の中では誰かを憎んだり、差別したり、人目には触れていないだけで胸を張れないような恥ずかしい行為をしたこともあるはずである。

 筆者は、人間というもののもつ悲しい性質を、この一言で言い表す。



●パフェは別腹


 

 いくら普通の食事をたらふく食っても、デザートはその同じカテゴリーには入らないので、食べるお腹は残っているということである。

 本田博太郎演じる悪徳国会議員も、実はそれほど悪人ではない。息子は大事だし、地球上の人間の圧倒的多数には普通に接する。ただ立場上の政敵は別腹(そいつらがどうなろうが、人としての良心は痛まない)なのだ。人には、圧倒的多数には善良に常識的に接することが出来るのに、この人にだけはそれを当てはめれない、という人物が人生で一人二人出てくるものなのだ。

 善側の主人公だって、この記事を読んでいるあなただって、一人や二人はいるはずである。同じ人間として(痛みを与えたら痛みを感じると想像して何も不利益なことを相手にできない、という対象として)見れていない人物が。いやいやそんな人はいませんよ、と言う人がいるかもしれないが、そいつは嘘つきか、もしくは自分の内面に真正面から向き合う勇気のない者である。

 その「別腹」な人間が誰か、そいつらが何をするかにかかっているのだ。どうしても我慢がならなかったり、成り行きによってそいつを攻撃してしまい、世の中でアウト判定されてしまうか。それとも、その別腹がそうおかしな動きもせず、あなたもそこまで刺激されないので一生胸に秘めたまま「何事も起こらぬまま」終わるか。後者だと、その人物は最後まで「善良な一般市民」でいられる。



 私はこういうドラマを観る時、悪役にももっと描かれていない人生の部分があり、善役にも描かれていない醜い人生のエピソードがあると思いながら見ている。

 つまりは、人としての価値の差を考えずイコールに見ている。でももちろんそれに徹していたらドラマを楽しめないので、分かっていてあえて騙されてあげる。制作側が「こいつを正義役として見てね。こいつは悪役だからね!」と願っているとおりにしてあげる。

 でも、水戸黄門ばりの「善と悪があまりにもはっきりしている」見せられ方になれると、人間実は成長しない。悪を憎む心は大事ではあるが、下手をすると大雑把に見て決めつけてしまい、大義を盾に「悪だから」と慈悲もなく罰するような人間になってしまっては無意味だ。

 そういう意味では、宗教(特にキリスト教)なども実は怖い。あれほどしっかり油と水のように明確に分けているものはない。人はそれほど単純ではない。光と闇、という表現も危ない。

 人は、宇宙のすべてなのだ。すべてということは、すべての可能性が内にあるということだ。ということは、環境とあなたの置かれた精神状態との化学反応によって、平時には想像できない事件を起こす、あるいは巻き込まれる可能性もあるということだ。そこにはまってしまい、世に不名誉な情報で知らされた人間を「人間をクズ」のように言い、自分はたまたまそうなっていないだけなのを棚に上げて自分はまともな人間だ、と思い込むのは傲慢だからやめたほうがいい。

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