最高である必要はない

 ハウス世界名作劇場シリーズで『愛少女ポリアンナ物語』というアニメがある。その主人公のポリアンナは、どんなことからでもいいことを見つけて喜ぶ「よかった探し」というものをする子で、それは彼女の周囲に大きな影響を与えていく。

 ある時、メイドのナンシーが「自分の名前が好きではない」という話をする。ナンシーには兄弟がたくさんいて、母親は自分を産んだあとでハーレクインみたいな恋愛小説にドはまりし、そこに出てくるような素敵な(実際いたら恥ずかしいかも)名前をそれ以降の兄弟たちには付けるようになった。だから、他の弟や妹たちはみんな凝った名前なのに、自分だけ平凡なナンシーだなんてひどくないです? とポリアンナに愚痴を言ったのだ。

 それを聞いたポリアンナは、くすくす笑ってこう答えた。

「ってかあんた、自分が『ヘプジバ』って名前じゃなかったことを喜びなさいよ」

「ヘプジバですって!」



 日本人は訳されたものを読んでいるだけなので、作品が書かれた当時のアメリカの人間ではないので、それが一体どれだけ恥ずかしい名前なのか、正味の重みは分からない。でも、良くはない例えだが「草井運子」並の破壊力はあるのでは、と勝手に想像する。

 ポリアンナは、その名を持った人物の苦労話をナンシーに話す。すると、先ほどの曇った表情から打って変わって大笑いになり、笑いすぎなのか救われたからなのかうっすら目に涙を浮かべて「お嬢様、ありがとうございます。これでちょっとは自分がナンシーって名前だってこと、喜べそうですよ」



 宗教にもスピリチュアルにも色々ある。いわばピンキリだ。

 分かりやすい御利益を謳い大勢を惹きつけやすいものから、高尚だが厳しい掟と修行があり、仮に正しくても「そこまではちょっと……」と遠慮したくなるような高度なものまである。後者は、永平寺で修行僧になるようなことを想像してもらえればだいたい間違いない。

 皆ではないが、スピリチュアルを真剣にやる人の中には、こう考える人がいる。



●やるからには、その信じる内容は絶対正しくないといけない。

 最高の教えでないといけない。



 そう思うからこそ真剣に求道し、自分がこれこそはと思う教えを見つけたなら全力でそれに取り組むのであろう。反動で、それ以外の教えは間違い、あるいは「いい線行ってても惜しい」くらいの評価となり、正しいと自信を持つ自らの信念を広めようとする。

 筆者もその昔、人は「最高の教え」に常に従うべきと考えた。賢者テラとなってブログに書いたことがあるが「他者との比較によって得る安心や幸福感はニセモノ」ということをメッセージしたことがある。

 飢餓に苦しむ国もあるのに、こちらは食べ物に関してはそこまで困ることはないので感謝。ミサイルが飛んでくるような、常に危険な戦争状態にある国もあるのに、日本はとりあえず安全で平和で感謝。あの子のように不細工でなくて感謝、等々。

 自分より恵まれない他者の状況と比較することで、自分の方がマシあるいは恵まれているという、その比較の差額によって自分のほうの優位性を感じ、それによって安堵を得ること。筆者はいつぞやはそれは本物の幸せではなく、偽りものだというようなことを言った。

 本当の幸せとは、何かとの比較とに生じるものではない。そんなことせずとも、自らを高めることですべてはご縁でありお蔭様であることに気付き、ただただふつふつと湧いてくる感謝の思いこそがまがい物でない幸せの境地であると。



 私は、今でもそれは自分なりに正しいとは思っているし、撤回する気もない。

 ただ、ちょっとばかり別の視点も生まれた。



●その人の段階によっては、うまくするなら別にいいじゃん。比較でいい気分になっても。



 先ほど例に挙げたナンシーの件では、自分の名前よりひどいのを知ることで、自分はマシと思うことで慰めを得られた。でもそれは、厳しいことを言えば「比較による幸せ」である。それは誰にも壊されることのない堅牢な「幸福」ではなく、一時的で脆いものである。

 でも、皆が皆高度な思想で生きられるわけではないのだ。厳しい修行を潜り抜けたような人は、どうしても「自分ができるものだから、できない人を下に見る」傾向にある。まれに突き抜けて悟り、すべてに価値の差などないことに意識が開ける場合は別であるが。

 歯医者に行って、椅子に座らされたら周囲をグルリと見渡してみたらいい。

 なんだかよく分からない、何に使うのか分からない器具や機械がズラリと並んでいるはずだ。あなたのちょっとした虫歯や歯石取りくらいのことでは、その中のほんのちょっとしか使われない。より重症な症状や難しい治療に使われるものもあり、あなたには一生使用されない器具もあるだろう。



●高度な道具は、それだけたいへんで重い症状に立ち向かうためにだけ使われる。

 虫歯程度の治療なら、ある決まった道具ばかりが使用対象となるが、当然それでは高度な治療には対応できない。



 悟り系スピリチュアル(非二元など)で語られる深遠で禅問答のような内容や、聞けば正しくてツッコミどころもないけど、でも凡人はそこまでしたくないやという高度な精神論は、それでもないと本当に人生の悩みを解決できない、精神的に高度すぎる悩みにだけ適用できればいいのだ。

 そういう人種にだけ使われたらいいのだ。思索的にそこまで高度な悩みの生じない一般人においては、比較論でもいいのだ。それでお手軽に幸せ感が得られるなら、かまわないじゃないかと私も思うようになった。一般平均的な人生を送る人に、重篤な症状に対応する高度な特殊機器を使用する必要がないのだ。

 ただし、比較による幸せを手に入れる場合は注意点がある。



①比較する対象が生きた人間や特定の集団であった場合、その者の耳に入ったりして気分を損ねたり、名誉を傷付けたりしないよう十分注意する。要するに、バレないようにこっそりやれということ。



②比較はしても、命として見下さないこと。その者に何かあれば手を差し伸べるぞ、くらいの気持ちを持てればなおよし。



 教えは、思想や信念は最高・絶対である必要はない。

 ただ、その瞬間のあなたにフィットし、心が軽くなるならそれでよい。私はもうここで、何を信じて生きるかなど究極どうでもよいことを宣言する。

 最後に補足すれば、ナンシーが救われたのは、単に自分よりひどい名前の人物がいたことでだけではない。もちろんポリアンナの「ナンシーを励まそう」という思いやり自体がうれしかったのであるし、そんなヘンじゃないよ、あなたの名前好きよという予想できるようなありきたりな慰めではなく、自分の予想を上回る意外な話だったので、本人の中にスピリチュアルで言う「気付き」が起こったということも見逃せないだろう。

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