何を守るのかを分かるように

『海のトリトン』という古いアニメ作品がある。

 ガンダムで有名な富野由悠季の初監督作品である。トリトン自体は手塚治虫(虫プロ)の原作であるが、その最終回においてもともとのお話を大きく改変したことで、話題を呼んだ作品である。それにより富野氏は虫プロに『出禁』になったという。さて、どんな問題のある改変をしたのか?



 悪(敵)を倒してハッピーエンド、をやめたのである。

 最終回、トリトンは敵であるポセンドン族の本拠地に乗り込む。トリトンが彼らと戦う理由は、自分の一族がポセイドン族に虐殺されたと聞かされていたから。

 しかし、そこでショッキングな真実を知ることになる。

 実はアトランティス人(トリトン一族が所属する)のほうが先にポセイドン族を利用し、ある目的のためにいけにえとして利用した。その生き残りが、憎いアトランティス人でもあるトリトンたちを倒すことで復讐することを心のよりどころとして戦ってきた、ということを。

 考える間も与えられず、トリトンは襲い来る巨大なポセイドン像と戦うことになる。いまいち身が入らず苦戦を強いられるものの、剣に引きずられるように何とか敵を撃破。その後トリトンは、どこへともなく旅立っていく——。



 日本でのアニメ・特撮番組には、ひと昔まえ明らかとも言えるひとつの方向性があった。それは「勧善懲悪」である。善が、正義が最後には勝って、悪が負けるというものである。

 しかし平成時代以降、この不文律が破られていく。仮面ライダーシリーズにおいても、たびたび「悪の側にも言い分がある。彼らにとってそうすることが彼らなりの善であり、正義の側にも実は問題があることがある」シーンが描かれた。

 特に「仮面ライダー龍騎」などは、昭和ライダーを演じた藤岡弘、が苦言を呈するほどだった。昭和を生きた中高年世代は、まさしく「勧善懲悪」の子供番組の洗礼を浴びた世代。確かに彼らからしたら今どきの「どちらが善でどちらが悪か分かりずらい」ような作品は、子どもたちの健全育成によくない、と思えるのだろう。

 子どもたちは幼い(判断力が育っていない、弱い)ので、そのようなドラマを見せてはいけない。幼いうちは、いいことはいい・悪いことは悪いと教えるハッキリ分かりやすいものであるべきだ、という意見である。

 これに関し、筆者の意見は「半分賛成・半分反対」である。



●賛成の理由


 一応、今の世の中で「悪い」と定められている行為がある。盗み・殺人・人権の蹂躙(意に染まないことを強制する)など。悪の組織が世界を支配する過程において、およそそのやることなすことが結果「悪」であるため、それは許してはいけないし、相手がやめないなら(説得できないなら)やむなく力で止めるしかない。

 この世の中で、こうすればこうなる、こうすること(善)が推奨される、という現実はよく分かっていた方がいい。たとえそれが建前に過ぎなくても。



●反対の理由


 一見、子どものことを思った意見のようで、実はバカにしている。

 こんなハナタレ小僧たちに、善とはその立場によって決まるもので、結果その善と善がぶつかるため、「善 vs 悪」という構図は実は単純化の極みであり正確ではない、なんて教えて理解できるわけがない、と決めつけている。まだ早い、そんなドラマはせめて中高生になってくらいからでいい、と。

 その点、若草物語を書いたオルコットはよく分かった人だった。若草物語というのは邦題で、原題は「Little Woman」。訳せば「小さな貴婦人たち」。子どもは子どもという、大人とは違う未熟な命ではなく、あくまでも小さな大人に過ぎない、という命の視点である。

 筆者も、確かに知的に整理は難しくても、なんとなくの「肌感覚」で、ほんとうに大切なことは「感じ取る」と思うのだ。意味が分からないだろ? じゃなく、感じることがまず先だ。これを見てどう感じた? ということこそ大事。

 子どもには、その「感じ取る」力が十分にある。



 ゆえに、アニメ特撮全般として「勧善懲悪半分・善悪の境界曖昧が半分」くらいを世に提供するのがいいのではないかと勝手に考える。

 ただ、勧善懲悪を描く作品に、注文を付けたいことがひとつある。



●正義を守るというが、平和を守るというが、その「守るべきもの」が見えてこない。そこをもっと分かるような作品にしてほしい。



『帰ってきたウルトラマン』に、「怪獣使いと少年」という話がある。

 地球人のためになることをしたある宇宙人を誤解して、彼に迫害を加える地球人。そしてついに、その命を奪ってしまう。地球を守るために来たウルトラマンだが、これには怒る。そして、その宇宙人がいるからこそおとなしくしていた地底怪獣が目覚め、暴れだす。ウルトラマンは最初「こんなやつらのために戦うのか」と複雑な心境になるが、最後には変身して戦う。

 ウルトラマンは思ったことだろう。守るべき平和とは何か。ただ地球人が侵略の危機にさらされず安全に生きることだろうか。でも地球人がこんな残酷な心を持ち、こんな振る舞いをするなら、ただ平和を守ることだけではなんと無力なことか! もっとやるべきことが実はあるのだろう……



 正義の側は、ただ「悪」と呼ばれる何かと戦ってばかり。「悪がなぜ悪なのか」も見えてこないし、正義の味方も「彼らは何を守るために毎回そんなことをしているのか」があまり描かれない。

 世界の平和を守る、とかみんなの笑顔を守る、とかかなり抽象的で曖昧な表現がよくされるが、その平和自体の質はとりあえず問われない。自民党が支配し、格差が広がり少子化に歯止めが効かず、度を越したいじめが学校にはびこる世界の「平和」を守るということか。確かに質は良くはないが、とりあえず目先の脅威はなんとかすべきだろう、そのためにも悪を倒す必要はある、ということなら筋が通っているが、そこは絶対言わないだろうね。

 笑えるのは、いじめっこが仮面ライダーごっこで「オレ仮面ライダーね。おまえ悪いヤツ」と蹴ったりしして弱い子をいじめる現実。昭和世代に文句を言いたいのは、ただ勧善懲悪を言うばかりで「善とは何か、悪とは何か」という前提をほったらかしにしているから、このいじめっ子のように「自分が善(正しい)」と置き換えてしまえる。せっかく勧善懲悪の仮面ライダーを見ているのに、こんな子どもができるようでは意味がない。



●正義の側は、悪をパンチキックし放題。それで逆に褒められる。

 正しければなんでもあり、という曲解をも生むのが「勧善懲悪」。

 そこが問題だと私は思うのだ。

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