こっちでできてあっちでできないのはなんで?

 昔の日本のドラマで『西遊記』がある。主演は堺正章。今どきの若い人は知らないだろうが、当時大人気だった。ゴダイゴの歌う英語の主題歌は、今とは違いすべて英語の歌で斬新だった。エンディングテーマの『ガンダーラ』は、これまで英語の歌詞しか歌わなかったゴダイゴがそのこだわりをあえて捨てて挑んだ日本語歌詞の歌。これがもし売れなかったら解散しよう、とまで腹を括っていたようだ。

 その西遊記のエピソードの中に、『鬼子母神』が三蔵法師一行の敵として登場する回がある。鬼子母神は自分に千人の子どもがありながら他人の子どもをさらって食べるという妖怪で、被害に合った村にたまたま立ち寄った三蔵法師一行が退治を依頼される、という流れになる。

 そういうことで鬼子母神の棲み家に乗り込むのだが、やたら強く勝機を見出せない。和田アキ子が演じているんだから、めっぽう強いのは当然か!

 そこでお釈迦様が助け舟を出す。細かいやりとりは省くが、お釈迦様は千人いる鬼子母神の子どものなかから一番可愛がられている末っ子を捕まえ、気の進まない悟空を操ってその子どもを殺させる。もちろんそれは鬼子母神に教訓を与えるためで、最後には生き返らせてあげるのだが。

 子を失う悲しみ苦しみを身をもって知った鬼子母神に、お釈迦様は語りかける。

「鬼子母神よ。おまえは千人いる子どものうち、一人亡くなっただけでもそれだけ辛い思いをしなければならないのだ。お前と違い人間の母親の持つ子どもの数は数人だ。一人欠けるとどれだけ辛い思いをしなければならないか分かるだろう?」



 鬼子母神は、今の世にたくさんいる。もしかしたら、地球人口のほとんどが鬼子母神かもしれない。



●皆、自分に近いものは大事にでき、遠いものは同じように大事にできない。



 映画とかで、悪の組織のボスは他人を血も涙もなく殺したり、ひどい拷問をしても眉ひとつ動かさず平気で見ていられるのに、妻や子どもの待つ家へ帰れば子煩悩で愛妻家の良き父親にスイッチできる。

 もっといやな言い方をすれば、自分のためになる(利益を生む)ものは大事にでき、その妨害となる者、あるいはどうでもよい者には何が起きてもそれほど(あるいはまったく)心が痛まない、ということである。

 これは、全く不思議な現象だ。人間は一応知的生命で頭が良いはずだ。なのになぜ、こんな単純なことが分からない? 身内にできることを、なぜもっと他人にも同じように適用できない?



 考え方の使い分け、ということをしてもよいケースはひとつだけだ。

 筆者がよく言ってきたことで、「よそはよそ。ウチはウチ」精神である。

 他人と自分を比較して、他人の成功や富をうらやましがったり嫉妬したり、あるいは成功した他人とうまくいかない自分とを比較し「どうせ私なんて」と自己卑下する時。そういう時に比較することの愚かさを知るためにも、自己肯定感をもつためにも「よそはよそ、ウチはウチ」と考えてることで、同一の俎上でいっしょくたに考えることを避けるのである。

 でも、でもですよ。人にやさしくあろうとすることに境界線など要らんのですよ。分けて考えなくていいんですよ! よそもウチも大事にできてこそ、平和が来るのですよ! それを分からない地球人類じゃないでしょ?

 では、なぜそうしないで放置? 面倒くさいからでしょう。余裕がないほど忙しいからでしょう。あるいは、そんなことしなくてもとりあえず幸せって思える程度に生きていけるからでしょう。(自分たちだけは)


 

 鬼子母神の例は極端だが、人は皆大なり小なり鬼子母神の要素を持っている。

 そこに気付き、大事な人にはできないのに赤の他人や敵だと平気でできてしまうことがあるという自らの残酷性に気付き、少しでも世界に愛を配りませんか。

 日本の改革とか世界の平和とか大きなことを言う前に、まずは草の根運動的にあなたの周囲の人間関係から働きかけてみるしか天国への一歩は始まらないのです。

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