最高の美人が「あの人美人」と言えば何が起きるか
TVタレント(女優)の佐々木希が、テレビ番組である女子アナウンサーの友人のことを「すっごい美人」と評価した。
そのことを、その女子アナのインスタ写真とともに紹介するニュース記事があった。ネット記事だったので、読者がコメントできるようになっており、こんなコメントがあった。
●佐々木希さんは美人だと言うけれど(もちろんその友人が美人じゃないなんてことは絶対ないけど)佐々木希さんほどではないとどうしても思ってしまう。佐々木さんが一番
実は筆者も、似たようなことを思った。(笑)
もちろん感じ方には個人差があり、好き好きである。でも、寄せられるコメントを読んでみる限りこのコメントと同じような感想をもった者は少なくないようだった。
もちろん、佐々木希さんは自分の利益を嗅ぎ分けフェイントや確信犯的嘘や忖度などを使いこなす腹黒い人ではないと思う。今回の言動も、素直に心から「そう思って」のことなんだろう。
でも、素直すぎるのもどうだろう。個人の感じ方の違いはどうしようもないとはいえ、自分ような人間が他人を「美人」と言えばどのように受け取られるのか、もうちょっと用心してもいいとは思う。
筆者は、賢者テラと名乗り始めて活動を開始した最初の数か月、ブログはあまり他人に閲覧されず、ブログでの情報発信者としては「箸にも棒にもかからない」状態だった。もちろん、人間だから「人気が出たらいいなぁ」「それでお金も稼げたら」とは思いましたよ。でも、それはあくまで「そうなればなおいいなぁ」という程度で、一番の目的は「書きたかった」。発信することそれ自体が目的であり喜びであったから、結果というか副産物としてのアクセス数や登録者数など、増えるに越したことはないが少ないからといって私を落ち込ませることはできなかった。
でもそんなある日、当時(今も)スピリチュアル界で影響力のあるある人物が私のブログを知り、目にとめて自身のSNSで紹介してくださった。その直後、ある日を境にアクセス数が数倍も違うことにびっくり仰天した。
その時から4,5年ほどは大勢の人に知ってもらえ、全国で講演もし、本まで出させていただいていわゆる「日の目を見る」経験をさせていただいた。でも活動10年目にさしかかろうかという現在は、ひっそりブログ更新とアクセス数の少ない動画を時々アップするのみである。
私は、この経験を通してひとつ忘れてはならない大事なことがあると思った。
●有名な方に紹介される前と後で、賢者テラは何も変わっていない。
一生懸命ブログを書いても、コネもなくただのいち市民が必死に書くスピリチュアルブログは、それほど読まれない。
でも、何かの縁というか巡り合わせというか、たまたま有名人の目に好意的に受け止められ、紹介されるという宝くじに当たるかのような確率のことが起きた。千人の一般市民が何かブログを書いても、そんなことにはまずならない。いや、千人が一万人でも起きないかもしれない。
それ以降数年は、先生と呼ばれどこへ行っても優遇され(まるで杜子春が金持ちであった時期のよう)、普通じゃ味わえない経験をさせていただいたので、そのこと自体はよかったと思う。でも、ある年を境に仕事も減り、やがてゼロになり一般就職という流れになって、普通なら「私は失敗した」「人気が落ちて残念」と下を向いてしまうものだが、私は逆だった。
私は何も変わっていない、ということが私の強力な自信の基盤なのだ。
●有名人が評価する → その有名人の評価ゆえに「いいものだろう」と、本当の意味での吟味もなく飛びつく → 動機がそもそもその程度なので、何を言っているかでなく「追いかけるメリットがなければ簡単に離れる」
〇有名人が評価する前からの私と、評価されてからの私はなんら変わらず同じ → 人気が落ちる → その後の私も最初からと変わらず同じ自分 → ならば変わったのは周りが勝手に変わっていたので、私には何ら問題がない
そう。私は不動で、周囲が夜空の星のようにどんどん動いていただけ。
その動きに一喜一憂する必要などない。
芥川龍之介の描いた杜子春は、三回大金持ちになる体験をしてもうお腹いっぱいになって、お金要らない友達要らない仙人になりたい! と言った。それは、惑わせてくる幻想を見破り、生きる本質を掴んだのだ。
私は私。人は人。すべては移ろい変化するが、私が私であり続けることは生きている期間限定だけど可能だ。私という命の価値が、外側のものによって上下させられたり変化させらりたりするものではないということが本当だとしたら、私たちは他者の評価によって何ら惑わされなくていい。
佐々木希は美人。彼女が紹介した女子アナも美人。ただし、佐々木とは切り離して感じることが必要。
佐々木希は有名人になる前もあとも同じ本人。女子アナも佐々木に美人と言われようが言われてまいが、変わらぬその人。どっちがどうではない。
●ひとつひとつをありのままに見ず、損得や横並びの評価でばかり考えるから、苦が生じるのだ。
苦から解放されるには、横並びの視点を脇に置いて、縦(宇宙における命としての、宇宙そのものとしての自分)が見えること。そのためにも、人によっては浮世でさんざん「もうこりごり」という目に遭うのも手だ。杜子春のように。
筆者の評価は、誰か有名な人に紹介されたとか、紹介されなくなったとかで変わることはない。だからこそ、これだけ時がたって色々言われてきて、「さすがにもう賢者テラなんてやつ気にしている人はいないだろう」と大勢が考えても、それでも関わってくださる人がいる。数は少なくとも、私はそれだけで全盛期に負けないほどうれしい。
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