Q&Aのコーナー第百七回 「私には愛が分かりません」
Q.
私は、愛というものがよく分かりません。分からないものはもってないと思うので、子どもたちにはもしかしたら「親から愛されていないのでは」と思われているかもしれません。そんな私でも、今からでも愛が分かる人間になれるでしょうか?
A.
愛が分かりません、と言える時点であなたは大丈夫です。
本当にあなたが愛を分かっているかどうかなど関係なく、あなたに問題はありません。これからも子どもたちと素敵な人生を歩まれてください。
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もうね、質問文を読んでいる時点から思っちゃったわけよ。
「この人、確信犯からイヤミ(自慢?)で言ってるんじゃないよね?」って。金持ちがハンカチ落として、「あ~らいやだシャネルのハンカチーフが……」みたいな?
でも筆者がひねくれているから邪推しちゃうんだろう。この場合は、本当に質問者が「自分は愛が分からない」と悩んでいるのだとしよう。
●愛が分からないと本気で悩めるほどの人なら、愛が分かったつもりでいる数千人よりも愛が分かっている。
愛とは、その正体はこの世で捉えようがない。
プリズムのようにその見た目・色は状況により変幻自在で、時として倫理道徳や善悪を越えてしまうので、愛と呼べるものすべてが「善であり良きもの」であるとはとても言えない。
また愛とは、その場所の瞬間の縛りの中だけでしか通用しない特殊なもの。
まさにその当事者しか価値を理解できず、外野には異常とさえ思えてしまうことも。そんな、抱いた本人さえ時として分からなくなるのが愛であり、そんなものが「分かる」なんて筆者にはとてもじゃないが言えない。
過去の記事で、賢者とは何でも知っている者ではなく「何を分かって良くて、何を分からなくていいかの線引きができる者」のことだと言った。まさに「愛とは何か」は、人がこの世界で生きるのに「分からなくてもいい」カテゴリーに入る。
大事なのは人や家族を実際に好きになることであり、科学的にそれを「分析」し愛を科学的真理として分かろうなど身の程知らずもいいところだ。放っておきなさい。
会話の中に「愛」という言葉が連発される人を、私は基本信用しない。
昔教会に属してましたから、いましたよ。まるで息を吐くように「愛」が会話の端々に出てくる。牧師もキライだ。余所行きの言葉で「神の愛」「イエスの愛」を語る。残念でした!イエス様はあなたがたが信じているほど人類のことは愛してないよ。そして、あなたの説教にも愛は宿っていないと分かっているよ!
確かに、一般人の間では宗教やスピリチュアルの関係者ほどには、会話の端々に「愛」という言葉は登場しないが、それでもTVドラマや映画、音楽のほとんどは「愛」がテーマである。人々は、朝から晩まで「愛」が素晴らしいと洗脳されている。そこまで洗脳されている割には、皆思ったほど愛がない。
イエス・キリスト自身が皮肉にも言っているではないか。
●自分を愛してくれる人 を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
【マタイによる福音書5章46~47節】
引用から省いたが、この聖句の少し前でイエスは「敵を愛せよ」と言っている。神は良い者の上にも悪い者の上にも雨を降らせてくださるではないか、と。神が差別しないなら、なぜ我々風情にそれをする資格があるのだ? と問うている。
世の大勢が洗脳されている「愛」は、そこに善しかからなまない、という縛りである。犯罪を犯した者・悪いことをしたものにかける情けはない。だから人々は、自分の愛する者、つまり愛することによって利益があり、いい気分にしかならない者にしか愛を注がず、それで完璧だと思っている。
これだけネット社会でバッシングが多いのも、そのバッシングを書き込む人は普通の善良な市民であり社会人であるが、ゴミクズはどれだけ攻撃しても問題ないと思っているのだ。かえって社会のためになっているとさえ思っているかもしれない。
アメリカでも、南北戦争以前は奴隷制度が当たり前で、白人の一般家庭で仲良く平和そうなところでも、こと奴隷の扱いとなると性格がガラッと変わる旦那もいただろう。実に器用に思えるが、黒人の虐待と愛する家族と楽しく暮らすというのが実際両立していたのだ。完璧に分けて考える思考が確立していたからだ。
今の時代、自分の愛する者だけを愛してもそんなの当たり前だと指摘するイエスの声はかき消されており、世のドラマは我が子を愛するそれだけで、愛する異性を守り抜くそれだけで拍手喝采な世界だ。敵を愛せよなんて、誰もが無視するだろう。
●イエスの基準に照らせば、ほとんどの人は愛の深いところまでを分かっていない。
だから、「そもそも私って愛を分かってないんじゃない?」と思えるのは、あなたの魂の成長の第一歩である。
愛という言葉がメディアに氾濫する世の中で、愛が分かった気になっている人間が多い中で、質問者のような人は貴重である。この方が心配するほどにお子さんは傷付いていないし、むしろ感謝しているくらいなのではないか。
分かってないのでは、と思えるということはそれだけ真摯に向き合っているからに他ならない。普通はむしろ改まって考えたりしません。
あなたとあなたの家族が幸せになる程度でしたら、その内内だけで愛し合っておればよいでしょう。でも時代は切羽詰まったところまできています。あなたの外の悲惨や社会問題にも目を向けないと、勝ち組さんだけようこそ夢の国へ!とはなりません。金持ちはアホなんで考えませんが、あなたが着ているその服の繊維、その高級車に使われているネジ、あなたの豪邸を建てるのに使われたそのクギ、誰が作りましたか? あなたじゃないよね? なになに、オレはカネを払ったから偉い? じゃあ、その人たちが世から消えたら誰がクギやネジを作るんです?
愛という言葉はどこまで適用しないと世界が平和にならないのか、考えるべき時のように感じている。今までのように、自己責任における負け組には容赦なし・世に善と呼ばれるもの(仮面で隠しているだけかもしれないのに)だけを称賛し、そうでないものは踏みつけ。
それをやる先に、明るい未来などない。
愛が大事とかいう話よりも、仏教的概念である「慈悲」のほうが考え方としては数段優れていると思う。
自分が好きなものしか好かない、どこかベタッとしたような愛じゃなく、平等に注がれる博愛的な眼差し(慈悲)こそが、今後の世界を救うカギだと私は思っている。
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