師匠が必須でないのが悟りの道

 スポーツ・芸能・芸術などの分野で、その道を究めた師匠(マスター)がいて、そのマスターに師事(弟子入り)して後に続く、という人材育成体制が取られている場合が多い。

 私が語る「悟り」という分野においても、世界的に有名な覚者(実際はその集団内でのみ崇拝されていて、一歩外へ出ると誰もそんなこと認めてない実情あり)のもとに我も「悟りたい」と望む人が集い、集団を作っているものもある。

 中には、その師匠が最終的に「あなたは悟っていると認めます」というような認定をするところもあるらしい。筆者はそれを初めて聞いた時「はぁ?」と思ったものだ。私の認識する「悟り」とはずいぶん違うものだ、と思ったからだ。



●悟りとは、ある万民共通の絶対基準があって、それに適合するのかしないのか、という公平性のあるものではない。

 まったくもって科学的な「悟っている」意識状態の公式化など不可能である。

 悟りとは、その本人がそれと分かるものでしかなく、他人から決められる筋合いのものではない。



 筆者は、賢者テラとして活動するに至るまで、他者に「私って悟ったと思うんですけど、(あなたから見て)悟ってますかね?」と相談したことは一度もない。なぜなら、他者に聞かなくてもどう考えても明らかだからだ。なんで他人に認められないといけないのか、まったく理解できない。すべてのソースは自分の中にあり、自分がすべてでありすべてが自分だ、と分かることが悟りの一側面である。皮膚の外側と内側の間に断絶や区別などないことが理解される。そんな状態のはずなのに、幻想上の「他人の承認がいる」という思考回路にどうしてなるのか。判断するのに十分でしょう、自分の内側がひとつの宇宙でありすべての答えがそこにあるのだから!



 スポーツや芸能とはちょっと違うのが、悟りの世界である。

 前者においては、師匠のもつ最高の技(奥義)を授けるのに、やはりその師匠が最後の仕上げを弟子にしなければならない。なぜなら、師匠だけがその情報と技術を持ってお入り、もう死んでも悔いなしと思えるほどにきちんと伝受しないといけないからだ。



●悟りの世界では、最後の仕上げの段階では師匠は用無しである。いなくていい。



 そう。仕上げは「自分一人」なのだ。

 生まれてくるときも一人。死ぬときも一人。自身の正体に気付くのも一人。

 確かに、本を読めば悟りについて書いてあり、お金を払えばそれらしい人物のセミナーや講演にいくらでも参加できる。また、自分に自信がない人たちは大勢が認める「権威」に悟っていると認めてもらうことで安心が買える、と思っているのだろう。

 はっきり言うが、悟りは誰か「それを得ている」と少なくない人が認めているマスターに教わらないと得られないものでは絶対にない。近いものを言えば、ニュートンが木からリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則をひらめいた、みたいなことだ。(実話というよりも伝説的な盛り話だろう)要は「気付き」なのだ。気付きって、自我でどんなにウンコラ頑張ってもこないでしょ? ギフト以外での訪れ方はない。

 別に悟り系スピリチュアルでそれらしい話のシャワーを浴びたら悟りやすい、というものでもない。すべてのことは繋がっているのだ。入り口は何からでもいい。形よりも、悟りと一見関係のない仕事や人間関係でベストを尽くしているほうが「繋がり」やすいと個人的には思う。

 悟り系の話や環境を選びすぎている時点で、悟りを得たい(得れる可能性を高めたい)という下心、もっと言えば「執着」になっているのだ。悟りを追い求めるのに、知らないうちに執着を補強しているという滑稽さに気付きなさいよ。

 なんで、みんな覚者の話を聞けば悟りやすいかもとか、そういう人物の近くにいれば(波動を浴びれば)悟りが起きやすいかも、とかアホなことを考えるんだろう。

 覚者の話は、面白いから聞くもんだ。ここでの話も、皆さんを悟りにいざなうためにあるなど、誤解もいいところだ。ここで私の書いていることを千回読んでも、あなたは悟ったりなどしませんよ!

 


 悟ったかどうかなど、自分で答えが出せない(人に認めてもらわないと堂々と言えない)なんてのは、それはすでに悟りではない証拠ですよ!



●悟りとは、超主観である。それを得たと認識することは、この幻想世界を生きる個としては誉められたものではなくかなり不適切であり、この上ない傲慢である。だから釈迦もキリストも、大変な人生行路となったのである。



 厳密には主観ではない。主観・客観超えたところにあるのが悟りだ。だが、私たちが人としての思考回路と肉体を持つ限り、本当のそれには届かない。だから「この次元を超えた何かがある」と夢想することができるのみで、その範囲内で悟りを語ることを「超主観」と言っているのである。この意味が汲み取れない者は、悪いことは言わないから悟りなど求めず別のことに熱中したほうがいい。

 とにかく個人的には、いくら偉い先生でも他人に悟ったかどうか判定してもらわないと認められないなんてキモっ! と思うんである。

 自立しなさいよ! と思う。

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