Q&Aのコーナー第九十六回「悟りの境地は退化するか」

 Q.


 ここの記事で『スピリチュアルはやめるためにある』というのを読んでなるほどとは思いましたが、ひとつ疑問も湧いてきました。

 スピリチュアルはやめるためにある、という言葉はいつ何時でも言える言葉なのでしょうか? たとえばですがいったんそのような状態(スピリチュアルを卒業した状態)になったとして、後々になって頼るケースが生じることはありませんか?

 そうなれば、一度卒業してもまた頼らねばならないという「退化」は起きるということでしょうか。「悟り」という境地にも、同じことは起きますか?



 A.


 はい、起きます。

 残念ですが、この宇宙ではどうしてもそういう仕様になります。仕方のないことなのです。すべてが変化する・コンマ一秒でも過ぎたら前とはまった同じではあり得ないという諸行無常なこの世界の宿命です。

 もちろん、スピリチュアル卒業程度の霊的境地を最後まで守り抜けるシナリオの人も多々出るでしょうが、それも人生色々。不可抗力で、以前達成した状態から「陥落する」人もいて不思議ではありません。



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 筆者は、スピリチュアルを学校にたとえて論じたことがある。

 学校とは、いつまでもいるところじゃないでしょう? いつか卒業していなくなるためにあり、そのあと社会で活躍するための準備期間(学習・訓練期間)としてあるでしょう?

 人がいつまでも学校にいたらタイヘンです。年をとって学生服が似合わなくなったあなたはビジュアル的にも邪魔者になります。(笑)大人になっても学校にいていいのは、学校の先生だけです。

 だから大半の人は、一定の成長を経たらスピリチュアルをやめるのです。やめるというより、一定のシステムや理論に頼らなくても生きていけるようになるだけで、決してスピリチュアル自体に意味や価値がないというわけではありません。

 学校の先生に当たるのが、スピリチュアルでメシを食ういわゆる「先生方」です。そういう人は後進の指導のために続けることは問題ない。問題ないというより、半ば「血」であり「使命」といった感じでしょうか。



 冒頭のA(アンサー)でも述べたが、この世界の最大の特徴は「諸行無常」である。平たく言えば、すべての物事は常にまったく同じではあり得ない。変化し続けるということである。

 確かに、人間の目では10秒前の椅子と今の椅子、さらに10秒後の椅子に違いがあるとは思えない。まったく同じに見えるだろう。でも実は、人間のスペックでは捉えられないというだけで、実は変化している。5秒前のあなたと今のあなたと、5秒後のあなたは同じではない。



●この世界の物事は、常にどのような方向にも「変化し得る」可能性をもって動いている。この事実は、現状に満足できず変化したい人には福音となり、現状に満足し維持したい者には憎むべき敵となる。



 その観点から、この世界では「いったん何かの基準を達成しても、その基準を満たさない状態に戻る可能性もある」となる。

 分かりやすい話をしよう。確かにあなたはかつて中学・高校を卒業しているだろう。でも、あなたがその年頃のお子さんの宿題をのぞき込んでみたら、すぐに問題が解けますか?

 二次関数? 微分積分? 連立方程式? 

 確かにやったけど、もう忘れちゃったよ~!

 皆さん、そんな感じではないだろうか。じゃあ、今のあなたがその問題を解けるようになるには? もう一度学びなおすしかないでしょう!

 獲得したはずのスピリチュアル的な境地が退化し得る(失うことがあり得る)というのは、ちょうどそういうことなのである。



 プロのスポーツ選手がトレーニングを数日さぼるだけで、取り戻すのに二週間ほどかかるというような話を聞いたことがある。筋肉と一緒で、使っていないと退化するのだ。ならば、一度悟りの境地や「目覚めた!」と思われる境地に浸れたとしても、そこで安心しきっているとどうなると思いますか?

 大勢の人は勘違いしている。悟りとは、いったんたどり着いたら退化したり失われたりはしない。もしそうなるなら、それは悟りなんかではない、と。

 悟りというものを重く大事に考えているからこその言葉なんだろうが、大事なことを見落としている。私たちが身を置くこの世界の、揺るぐことのない性質を。すべてのものは、常にいかようにも変化し得る、という。

 誤解してほしくないのは、私が言ってるのは可能性の話で、もちろん「失わない」人も多くいるという点だ。失う人も出るくらい、この世界ではあらゆる可能性のことが長い視点ではまんべんなく起きている、ということだ。

 悟りといっても、この世界で人間が肉体と「自他の分離意識」を所持したままでする悟りなど、生半可なものでしかない。確かに真の悟りというものはあるが、この世界に生きたままでは手が届かないもの。手が届く程度のものは、残念ながら時間経過により変化にさらされるという宿命を免れ得ない。



 じゃあ筆者は、悟りという看板を掲げて情報発信している以上、日々霊的筋肉を鍛えていると思いますか? 悟りが錆びないよう、日々勉強に励んでいると思いますか?

 ブッブー。まったくです! ぶっちゃけ、悟りなんか消えてしまってもいいと思っています! 大事なのは、思いやりと助け合いの心です。仏教的に言えば『慈悲』です。決して、皆さん大好きな「愛」じゃないですよ。まぁ、愛もいいもんだけど。

 私が生きる範囲で、大切な人を守り日々を生きていけたらそれが一番です。人によっては、悟り(スピリチュアル的に高い境地)があるからこそ大切な人を守れるんじゃ? という意見の人もいるかもしれません。でも筆者は反対です。

 逆にそういう境地が、普通の幸せを邪魔する可能性のほうが高い。イエス・キリストのたどった人生を考えてみなさい。ブッダなどは、愛する奥さんと子どもを捨てたんですよ? 真理の追求のために。



●なまじ高い精神性を持ちすぎると、ちょっと感覚がおかしくなって、あなた自身はよくても周りが良く思わない状況が生じます。



 うん、あなたは幸せなんです。でも、周囲が理解しない。自分がよければいいのかもしれませんが、せっかく人の間と書いて人間として生きているので、人との関係性で生じる幸せのほうがよっぽど大事だと思うんですが!

 神人合一の至福の境地、など私に言わせると大した価値はありません。あなたはこの世界に一体何をしに来たのか? と説教したい。

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