Q&Aのコーナー第九十二回「才能は世のために生かすべき?」

 Q.


 折角才能があっても、あえて自分は普通に暮らす(それで活躍し、世間に還元する方向に進まない)という人生もあると思いますが、せっかく持って生まれたギフト(才能)は生かさなければ罪だ、という考え方があります。筆者さんは、そこをどう考えますか?



 A.


 おかしいと思います。

 傲慢な考え方だと思います。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 筆者は、こういう話ってすべて『結果論』だと思うのだ。

 ある若い女性が田舎から上京した。アイドルスターになる夢を抱いて。

 来るときはタイヘンだった。親や周囲から「そんなものなれるわけがない。なれると言っても、なりたい人が大勢いる中のほんの一握りでしょ? あなたがその一握りに入るとはとても思えない」と言われ反対された。頼むから父ちゃん母ちゃんの心の負担を増やさないでくれ、地元でいい会社・いい結婚相手を見つけて安心させておくれ、とも。

 でも、その女性は心の声に従った。かなりの部分育ててくれた親の頼みに抗うのはきつかったが、それでも彼女は夢を追うことを選んだ。

 彼女は良い出会い、よい協力者、よい芸能事務所に恵まれ、スターへの道を歩み、数年後にはTVで見ない日はないほどの国民的スターとなった。

 で、あとになってこういう言葉が言われることだろう。



●もしもあの時、彼女が親への思いやりを優先して夢を断念していたら?

 日本は、彼女という才能を知ることなく、彼女がいない芸能界というものを経験していたことだろう。そしてそれは明らかに、テレビ・映画・大きくはエンタメ界における大きな損失となったことだろう。彼女が親の反対を押し切ってまで我々の前に現れてくれたことを感謝せねばなるまい。



 今回の質問文は、ちょうど上記の裏返しになる。

 それだけの才能をもっていながら生かさないなど、もったいない。いや、むしろ罪だ。どうあっても彼女は表舞台に登場すべき、と。

 私たちが物事を考える時のクセだが、必ず一定の基準というものを設ける。今回で言うと、才能(ギフト)というものについて論じているわけだが、次のような無意識化の決めつけがなされている。



●才能=(すべて)良いもの、本人にとっても万民にとっても益になるもの(益にしかならないもの)

 =すべての人のために役立てられるほうがいい

 =役立てられないなんてもったいない

 =もったいないことは罪。だって、その人物の才能が世に出ないことは大きな損失だから!



 我々は頭が悪い。今の世の中見てみ? 気に入れば祭り上げブームをつくる。で、それが飽きれば(相手にも生活があり人生があることなどどうでもよく)使い捨てにする。良いものなら世は放っておかない、などという言葉はこの世界では必ずしも成立せず、ある程度カネコネその他本業とは関係ない部分で表に出る者も多く、そこだけの中から見て「この分野ではこれが最高!」とやっている可能性もある。

 フランダースの犬のネロ君、ゴッホの絵、人間のエゴのせいで日の目を見ない「本物の才能たち」も多いのだ。そんな世界をこさえておいて「才能は生かさないと罪」だと? アホ言いなさんな、ならばもっとこの世界をもっとクリーンな競争のできる世界にしてから言いなさいよ。矛盾してるやろ!

 今の話で、『スケバン刑事』のマンガ原作の序盤(海槌三姉妹編)に出てきた、絵の才能があったが汚い陰謀のせいで殺された少女を思い出したよ。世は複雑なところなので、必ずしも才能に対して例外なく優遇するわけではないんですよ。自分の進路の邪魔になったら排除しにかかるんですよ。



 悟りの視点からは、「生かせなかった才能」という考え方をしない。

 私たちが確認できるのは、死に至るまでの一本の映画としての人生である。最後まで、ああしておけばとかこれを選んでいたら、というのはひとつも分からずに終わる。分からないこと、もしものことを考えないのが悟り人である。

 だから、結果的に生かせた才能があるなら「よかったね」なのである。結果そうならなかったら、そうならなかったということだけが確固たる事実なのである。その人物が「本当は才能があるのに生かせなった」というのは事実ではなく、ただの推測である。他人が勝手に思う、バイアスかかりまくりの感想に過ぎない。それは、誰にも分からないことなのだ。

 筆者は、結果として生かすことができたら才能が生かせてよかったね、と言う。生かせなかったら、そのことではもう何も言わない。あなた、これこれができただろうにもったいないね、なんてことは言わない。



●生かせてない才能、なんて誰も本当のところは分からない。

 それを分かったつもりになっているのは、傲慢である。



 イチロー選手が世に出ていなかったとしたら、と考える。

 プロ野球選手になれて、アメリカのメジャーリーグで磨かれたからこそ、あそこまでの名選手になれた。もしその道筋をたどれていなかったら、その経験を通過できなかったら「野球がうまいオッサン」として、市井の人として人生を終えていたかもしれない。

 その一市民、一オッサンのイチローを見て「あなた、もし才能を生かしていたらアメリカのメジャーリーグでも活躍して、伝説の名選手として殿堂入りも果たしていたよ!」と言い当てられる人がいるとは思えない。

 才能(ギフト)のあるなしは、本人が決めることであり、本人にしか価値判断できないことである。周囲の他人は非凡ならざるものを感じた人をスカウトしたりはできる。ただ、その返事がノーであっても、残念がったり文句を言ったりしてはいけない。他人がどう思おうが、自分をどうするも最終的にはその人次第。



 悟りの世界観は、世の引き寄せとか成功哲学とはだいぶかけ離れる。すべて起きるべきことが起こり、起きたことならそのすべては必然であった。その複雑に絡み合った糸を解きほぐすと見えてくるのが「縁起」である。平たくは、すべてはご縁です、お陰様ですっていうやつで、欧米風に言えば「バタフライ・エフェクト」という言葉が当てられる。

 宇宙の仕組みとはそうしたもので、すべては本来のワンネスにはないはずの分離した「個」がそれぞれの勝手な行動から足し算・引き算が行われ結果社会の大まかな動きが定められる。そんな世界の中では、同じ夢を抱いた者が同じ努力をしたからといって同じ結果が出ない。生まれた場所、時期、親、周囲の環境、出会った先生や友達、触れた書物や思想・人生観など実に無数の要素によって結果にバイアスがかかる。その視点からは、世に売れたから才能があったというのは言えても、なかったから売れなかったという理屈は成立しない場合がある。

 皆さんのキライな言葉で言えば運。いい言葉で言えば「お蔭様」。要するにアンタ、恵まれていたってことね。

 そこが分からずに「どうだ! オレ様の才能は」と天狗になり、すべて自分の実力で今の自分があるかのような物言いになる、鼻につく成功者がいるのは残念だ。



●個人の成功など、お陰様以外の何者でもないんだということに早く気付くといいよ。そうすれば、世で大きな成功を収めた人物が怠けていると落ち込む最大の悲劇を回避できる可能性が高まるよ。



 世のすべては縁起であり、すべて生じる現象としての結果が良くも悪くも「お蔭様」以外の何者でもあり得ない、という視点が分かれば、今回の質問は出てこない。罪でもなんでもなく「その人はただそうであるだけ」。

 すべての可能性を味わうために作られたのがこの世界。ならば「才能はあったけど色々あって生かせなかったというストーリーの人生」だってコレクションしないといけないではないか。

 そういう役割を背負った魂があったなら、それを「才能は皆生かせるべき」なんて言うのは大変失礼じゃないのか?

 最後に、才能を世に生かせた、成功したとされる人物がもつべき心構えについて、イエス・キリストの聖書の言葉から引用しよう。



●命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足らないしもべです。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。


【新約聖書 ルカによる福音書17章9-10節】

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