自己肯定の仕方を間違うとえらいことに

 スピリチュアルの世界でも、自己啓発とか成功哲学の世界でももてはやされている、『自己肯定』という概念について改めて考えてみよう。

 ひと昔前、アナと雪の女王が流行ったのをきっかけに、『自分を好きになる』『ありのままの自分でいい』というフレーズが広く人の心をとらえた。競争社会・同調圧力社会の中で低い自己評価しかもてず、苦しんでいた人々の支持を得た。

 筆者は、この「自己評価が上がる」ということ自体には反対ではない。それで幸せにな気持ちで気分よく生きられるならよいことだ。

 だが、皆「自己評価を上げる」ということばかりに注目して、失敗する傾向にある。たとえば、筆者の恥をあえてさらすが、ネットショップで「コール・オブ・デューティー」というTVゲームのソフトを買おうとした。見ると、おおなんと2千円で売っているではないか!

 日頃、悟りの視点がどうのと偉そうに言っている筆者が情けないことだが、飛びついて買ってあとで違和感を感じてタイトルを確認したら、ゲーム名は間違いないんだが……「本商品は、DLC(ダウンロードコンテンツ)です。本体の拡張シナリオとなりますので、ゲームソフト本体がないと遊んでいただけません」。

 つまり、ゲーム本体があること前提の追加シナリオだったのだ。それで安かったわけだ。本体は八千円するもんね! いくらセールだからってそこまで安くなるわけないだろ、私! テヘッ

 自己肯定というものも、これと同じなのだ。



●自己肯定というのは、DLC(拡張シナリオ)である。

 ゲームソフト本体を持っていないと、自己肯定はちゃんとできないのだ。

 さて、何かをあなたが習得していないと自己肯定なんかしても意味がないのであるが、その本体とは何か? それは、落ち着きである。

 落ち着きとは、常に「自己肯定ができるようになる」前の視点を失わずに持ち、どの一線を越えたら「過ぎた自己肯定により自分らしさが失われてしまうのか」が理解できる状態を維持することである。



 以下に挙げるのは、実話である。(ただ色々言葉を変えてある)

 あるところに、Aという中年男性がいた。仕事は、システムエンジニア。

 ルックスはそれほどいけてなく、太り気味でメガネ。着ている服も「着れればいい」という感じで無頓着。それでも、Aさんの人柄に惚れ込んだ今の奥さんと結婚。かわいい娘も生まれて、それなりに幸せな日々を送っていた。

 ある日のこと。クジ運悪くPTAの会長になってしまうのだが、奥さんの仕事のほうが忙しく、どちらかというと在宅ワークの多いAさんのほうが会長として会合や取り組みに顔を出すようになった。

 最初は仕方なしにやっていたが、Aさんはそっち方面で色々と斬新なアイデアを出し、活動を成功させていった。いつしかAさんは周囲のママさんの絶大な支持を得るようになった。

 褒められれば伸びるAさんは、ついにPTA活動のためのスマホアプリまで開発し、それがPTAだけではなく他でも応用できるぞ、と評判になり、その学校界隈を超えて有名人になっていった。



 地域の名物男となったAさんはある時、近所の高校の文化祭に協力することとなった。そこで、美少女女子高生のBに出会うこととなるが、これがAさんの崩壊の序曲となった。

 BのほうからAさんに近づいた。BはアプリのことがきっかけでAさんを知り、尊敬の念を抱いていたので声をかけたのだった。Bも、最初は純粋な憧憬が動機だった。

 Aさんもそれは同じで、最初は相手が女子高生だということはさほど意識しておらず、ああそれはうれしいなくらいの認識で、まったく危機感はなかった。

 だが、一緒に活動をするうちに、おかしな意味で二人の距離は縮まっていった。そしてついに、文化祭が終了し二人が会う理由がなくなってからも関係が続いた。

 そしてついに、二人が一線を超える日が来た。これだけ、日ごろモテないはずの中年男と飛びぬけてカワイイJKが二人っきりだったら、妙な気にもなりますわ。

 AさんはBを抱いた。BももともとAさんへの尊敬があったから、その尊敬のゆえに体をゆるしてもいいような思いになっていた。ただ、その後もずっとその認識でいることができなかったBは、自分のしたことを本当に良かったのかと悩むことになる。その時には感情の高ぶりで考えられなかったが、Aさんには家庭があるのだ。

 これがBに相談を受けた両親の知るところとなり、Aさんがそれまでに築き上げてきたものが崩壊した。その後どうなったかについては語るまい。皆さんのご想像にお任せする。



 Aさんは自分の失敗を振り返って、次のように述懐していた。

「オレ、どうかしていたんです。人気が出て自分が知らない人が~さんですよね? と自分を知っているような状況に慣れてなくて、浮かれてしまっていたと思うんです。

 落ち着いて考えたら、自分が無名な時に、外側ではなく正味の自分を好きになってくれた大事な奥さんがいて。子どもがいて。こんな幸せなことはないはずだったんです。それを裏切るような、失うような行為をどうしてできたんだろう? って今でも後悔しているんです。歴史を勉強して、英雄の失脚の影に美女在り、みたいな他人事をまさか自分が体験するとは思いませんでした。

 自分は、この目の前の美少女の男として釣り合う人間だ。彼女を抱いてもおかしくないイケてる男なんだ、と思っちゃったんですよね。これだけ有能さを発揮して世間に還元したオレへのご褒美で、食わぬは恥くらいの傲慢な思いがあったように思います。でも、今は完全に夢から醒めました……」



 今の話から得られる教訓が分かりますか?

 ただ自己肯定ということだけができても、下積みのないところに自己肯定という荷物を乗っけると、安定せず落下してしまうということを。危なっかしいということを。そこには「落ち着き」がいるのです。

 読者の皆さんにはありませんか? ニュースで痴漢で捕まって人生を棒に振った男性や、ありえない行為をして捕まった人のことを聞いて『どうしてそんなことができたんだろう? 奥さんも子どももいて、ダメなことくらいちょっと考えたら分かるだろうに。私なら絶対にそんなことはしないな』と見下すことが。



●アンタに見下す資格はないんだよ。アンタだって危ないんだよ。ただ、事件になった人とは違って運よく『宇宙から試されていない(そういう試練が降りかからずに済んでいるというだけ)』だけだ。



 試練を受けたまさにここぞという瞬間に、対岸の火事の人が思いつける『そんなことをしたらあとでどうなるか』が考えられないのである。魂の成熟がないと。

 ただ、肥大化した自己肯定感にふさわしいものを罪悪感なくいただくようなことになるのである。心が弱ければ。

 心が弱いこと自体は悪ではない。ただ、それでは悲劇を生みやすい。自分だけならまだしも、さっきの場合なら相手のJKや奥さん・子どもを巻き込んだ事故になる。

 ここまでのケースはまれだろうが、あなたが自己肯定というものを目指す時、何の考えもなしに『自分好き~ありのままでいいんだもんね~』をやる時、自分を甘やかしすぎるとろくなことにならない、ということだけは言っておこう。

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