頭悪い人は情が深い

 今回の記事は、有名なひろゆき氏の使う『頭悪い』という言葉を使って挑発的な記事を書いてみることにする。

 ひろゆき氏が、例の4630万円を誤送金されたのに返さない事件で、警察が本人逮捕に動いたことを受けて「警察が動く案件ではない。使い込んだ分返せって気持ちは分かるけど、これは民事の範疇。法律上違法とも書いてない」とコメント。

 このネット記事に対しては、賛否のうちの「否」のほうが多い。これはまぁ筆者の予想通りではある。そういう意見になる人は多いだろうなぁって。



 皆さんは、『頭悪い』という言葉を聞くと、いい気持ちは決してしないだろう。言われたら、なんだか自分という人間を否定されたようで。

 でも、筆者はこの言葉を次のように定義している。



●何かの現象(出来事)に遭遇した時、それを落ち着いてありのままに見るという作業が、過去の経験や獲得し凝り固まってしまった考え方(人生観)が我慢できずすっとばされてしまう。そうして、感情を優先させて物事を判断してしまうこと。



 これがいわゆる「バカ」の定義である。皆さんが単純に連想するような、鼻垂らして「うへへ~」なんて何も考えていないような腑抜けのことではない。冷静に見ず感情が勝ってしまう傾向にある人のことである。

 私は別に法律に詳しいわけではない。ないが、いろいろな情報を集めるにひろゆき氏の言うことはそう的外れではないと思う。芸能人弁護士として有名な本村弁護士も「容疑者も被害者的な立場」とコメントし、橋下徹氏に至っては「私が容疑者側の弁護人になったら、逆に慰謝料請求やる」とまで。

 ここで、ひろゆき氏をはじめとする物の見方と、怒れる一般大衆の見方とはどこが違うのか?



 感情として「ゆるせない」というのが、皆さんの意見を作る成分の99%。

 要は、汗せずして間違って振り込まれた金をせしめたことがゆるせない。

 皆さん倫理とか良識とか道理を曲げてはいけないとか格好いいこと言ってるが、訳すと「ズルいぞ」と言っている。しかも、その金が「国民の血税」、つまり自分たちが汗したものから出ているということがさらに一層の反感を買っている。しかも額が高額だ。百万程度なら国民の反応も薄かったかもしれないが、何せ四千万である。

 自分は苦労してこれだけしか得られず難儀しているのに、コイツが誤送金の四千万をせしめて逃げ切るなんて、あってはならない! だから、事実上こういうことが想定されてこなくて、厳密に罰するには穴がありすぎるのが現行法。いくら感情的にゆるせなくても、理詰めでいくとひろゆき氏の言うようなことになる。

 なので、頭がいい人というのは——



●感情をコントロールできる人。

 もちろん人間なので、ゆるせないとか義憤に燃える気持ちだってないわけではない。でも、冷静に世の中の現行の決まりを見渡して、これはこうなるなと「パフェは別腹」で考えることができる人たち。要は感情に流されない人である。



 ネット記事のコメント欄には、いかにも頭よさそうに「このことが通るなら天の道理を曲げることになる」なんて哲学的な表現をしているものがあったが、筆者からすると申し訳ないが噴飯ものである。単に感情的になっているくせに、天の道理ときたもんだ!

 筆者は、そういう意見の9割は、コメントを書き込むスピードがむちゃ早いと思う。自分の中のエゴを刺激され、嘔吐物が喉にせりあがってくるように出てきたはずだ。焦る気持ちで、はやく言い放ってしまいたくて皆書いてるだろう。断言するが、それを書いてる時のその人の心情って「決して幸せではない」だろう。



●真の批判というものは、しても居心地悪い感情にならないものである。

 言っている時にイヤな気持ちになるなら、それはいくら言葉上正しい意見でも、どこかが間違っているのだ。



 筆者は少なくともそうである。歯に衣着せぬ本書では、他者には批判と聞こえる内容もごまんとある。だがそのどれひとつとして、言ったあとで筆者が嫌な気持ちに襲われたことはただの一度もない。

 下に見ているわけではないが、多分皆さんが何かを批判している時っていうのは、かなりアップアップした落ち着かない状況で言っているんだろうなと思う。過度にムキになっていると言ったほうがいいのか。

 今日のこの記事を読んで、筆者が「結局お前もとんでもない被害者が利するようなことを言うひろゆき側の人間か」と思うだけの人なら、頭悪いということ。そうじゃないんだよ、この記事の趣旨は。

 さぁ、あなたなら今日のこの記事から要らぬ装飾語をそぎ落として、何か一つでも学びを得ることができるかな? それとも読む先からネコババ憎しの感情が先に立って、もうその先から何も考えたくなくなり「悪いことを悪いと言って何が悪い?」と思考停止に陥るのか。



 でも筆者はそのように言う一方で、頭悪いということはいいことかもしれない、と思うことがある。筆者はどうしても悟り視点から考えてしまうが、感情優先脳もいいなぁ、って。

『杜子春』という芥川龍之介の名作短編小説がある。主人公の杜子春は仙人になりたいと、仙人に弟子入り志願をする。そこで仙人から出された試験は『わしがもどるまでここに座り続け、一言もしゃべらないこと』だった。でも最後、自分の親がムチ打たれる光景を見せられ『おかあさーん』と叫んでしまう。

 仙人が「やっぱりダメだったな」と声をかけるも、杜子春には悔しさのかけらもない。もういいんです、僕は田舎に戻って百姓やって生きていきます、と。吹っ切れたような表情で。

 ~してはいけないという原則よりも、それを破ってでも叫ぶことを選んだ杜子春。そこには間違いなく親への「愛」があった。仙人にはなれなかったが、彼は誰にも負けないほど「人間らしい人間」だった。

 そう考えたら、頭いいよりも頭悪いほうが、人生としての彩りは鮮やかなのかなぁ、とちょっとうらやましかったりもする。

 


 最後に、話は変わるが「こんな横領行為をしでかした男を悪いと責めるばかりではなく、なぜこういう行為をする人をこの世から出してしまったのか、そういう人を生み出すこの社会自体に改善点はないのか、そっちのほうを考えることが先」なのではないか? ゆるせない、というのはこの問題の当事者・関係者たちに任せておけばよく、外野の私たちはもっと建設的なことを考えたらいいのだ。

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