Q&Aのコーナー第八十四回「一休さんが生きていたら是非聞いてみたい!」

Q.


 一休さんの残した句「死にはせぬ どこへも行かぬ 此処に居る たづねはするな ものは云わぬぞ」の解釈について、テラさんはどう読むか知りたいです。



A.


 本当のところは、一休さん本人に聞かないと分かりません。

 でも、私の勝手な解釈を述べさせていただくなら「オレのたどり着いた境地にお前たちは来るな」ということだと思います。



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 ついに50代となって年を食った筆者くらいの世代であれば、幼年期にアニメ「一休さん」を見て育った人も少なくないのではないか。

 あのアニメのせいで、歴史上のそれなりに偉大な人物「足利義満」に間の抜けた情けないオッサンキャラのイメージが焼き付いてしまい、今でもそれは離れていない。実際の義満はもっとできるヤツだったはずだろうと思うのだが! 一休さんにやりこめられる負けのイメージしかない。

 それを言うなら一休さんもだ。アニメのせいで一休さんと言えば「子ども」で、とんち小僧というイメージしかない人もいる。でも、日本史での一休さんや悟りの世界での一休さんはまず「一休宗純」という大人であるし、悟りを得た非二元マスターである。本来は、大人一休さんのほうが大いに語られるべきなのである。



 さて。冒頭に紹介しているのは一休さんが詠んだとされている句(短歌)である。

 古文ではあるが、そこまで難解でもなく、読めば現代人でも分かるようなレベルだ。だがたとえ言葉としての意味は把握できても、結局何を言っているのか、そう言った真意は何なのかさっぱり分からないのが普通だと思う。

 もちろん本人に直接聞かないと真意など分かりっこないから、彼がもう世にいない現実では正解は霧の中だ。でも、ひまつぶしに筆者が自分なりに「私ならこう読み解く」というのを紹介してみようと思う。



●死にはせぬ



 スピリチュアルではそう珍しくない概念。

 某スピリチュアルな医者(スピリチュアル本を何冊も出している)が言い出したので有名。人は死なない、とかなんとか。もちろんそれは肉体が死なないという文字通りの意味ではなく、魂に焦点を当てた「入れ物ではなく意識としての人間存在が肉体の死なんかで亡くなりはしない」ということだと捉えたほうがいい。

 文字通りの不老不死など、ファンタジーかマンガの中だけの話だと思ったほうがいい。ゆえにここで一休さんが言っているのは「見える体としての自分は朽ちるが、私という人間存在が消えてなくなるわけではない」と言っており、彼は地球ゲームをやっているプレイヤー意識こそが私たちの共通の正体で、個々の肉体はチェスの駒にすぎず、それが生まれたり亡くなったりしたところで、大きな視座からは死は何の問題もないことを知っていた。



●どこへも行かぬ 此処に居る



 スカーレット・ヨハンソン主演の「ルーシー」という映画が最も参考になる。

 彼女は脳が100%覚醒し、自身がルーシーという名の、無数に人がいる中の個としての一人だというのが錯覚であると知る。そして自分の正体は形や場所、時間すら超えた「クリエイター(神)」そのものであるということも。

 そこまで分かれば、人間形態を維持しつつゲーム画面の中の立体映像にすぎない自分の中に閉じ込められているのがバカらしくなる。だからルーシーは映画の最後で


〇I am everywhere. (わたしはいたるところにいる)


 という言葉を残した。一種の汎神論であるが、要は自分はすべてであるという自覚だ。自分は肉体(皮膚の内側)ではなく、周囲の空気も他人もドアも建物も、大地もこの宇宙も実は自分であり違いはない、という境地だ。彼女にとってはもう、自分と外の世界との境目がないのだ。

 一休さんが言っているのは、ある場所にとどまり続けるから「どこへも行かぬ」のではなく、自分は世界のすべてであるから、どこだって自分なので「どこへも行きようがないだろうが! だから私が死んでもやっぱりここにおることになるのじゃ。屁理屈だがな!」ということをユーモラスに皮肉を込めて言ったもの。



●たづねはするな ものは云わぬぞ



 自分は本当は一個人としての人間ではない、すべてが自分であり、分離があるように見えるのはこの現実世界が夢(すなわち幻想)のようなものだから——。

 まさにこれはノンデュアリティ(非二元)のことを言ったものである。だが、非二元という内容の宿命として、「普通に考えたのでは意味が分からない」話だということがある。悟りというか、ディープなスピリチュアル的思考に耐えうる素地のある人間には通じるが、世の平均的な常識普通人たちには「あんた頭大丈夫?」と言われかねない内容なわけだ。

 現代ですら、その手のお話が昔よりもちょっとは市民権を得てきたという程度で、マイナーはマイナーだ。ましてや日本の室町時代に「あなたはいない。他人はいない。この世はゲーム画面の中のようなもので本当には存在しない」などと言っても理解されないだろう。

 ゆえに、悟りを得て世界の実相に迫ってしまった彼は、「人に言うてもしゃーないなこんな話。誰も理解せんぞ?」と思ったはずだ。だから、彼自身は死んで自分はどうなり、どこへ行くのか大枠での見当はついた。(というか、そんなこと彼にはどうでもよかった)でも正直に自らの確信を披露したところで、聞いた者の頭に「?」が躍るだけでまったくお互いの利益にならない、と分かっていた。

 だから、面倒くさいので「誰の得にもならんので、もうこの話はせんよ」と周囲に釘を刺したのだ。



  ある人は言った。「悟りとは犯罪だ」。

 その本人はいいが、あまりにも当人とその周囲のとらえる世界がズレるので、時として問題を巻き起こす。

 一休さんは、自分は悪気はないけども聞かれたことに正直に答えることで「その人が理解できず混乱する(場合によっては気分を害し腹を立てる)こともあるだろう」と分かっていた。

 ゆえに、この句の言外の意味としては「私の所へ来るな(生半可に悟りを求めるな)。私を無理に分かろうとするな」という親切からの警告であったのではないだろうか。

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