Q&Aのコーナー第七十五回「なぜ究極の一元から二元が生じたの?」

Q.


 神がゲームをするために制限された世界を作りプレイをしているのはなんとなくわかりました。しかしゲームをプレイする目的は、楽しむためや暇潰し等を想像しますが、一元性の世界ではその考えが出る理由がわかりません。


 面白い ↔ つまらない

 暇 ↔ 忙しい


 上記の発想は二元性の世界観に思います。  



A.


 あなたのように考える人が出て来るから、私はスピリチュアルがキライなんです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 本書ならびに筆者の配信するメッセージが、なぜスピリチュアル一般を批判するような論調なのか? この質問は、その一番の理由をあぶり出してくれる。

 私たち人間は自他の区別があり主体 → 対象 というような「自我」という不安定で確実性のない視点から、何事も認識しないといけない。

 そんな信頼のおけない二元性視点で、この次元を超えた上位視点や、究極の「くう」が分かると思っている。

 覚者という人間が、もし本気で「宇宙の根本が分かった」と言うなら、失笑ものである。人間という形態をとっている以上、絶対に分からないのが、次元を超えた世界のことなのである。



 たとえば、竜宮城へ行ってきた浦島太郎なら、「オラすごいもの見てきた!」と色々説明できる。いくら不思議な世界でも、見て聞いて触れられるなら、二元性の範疇だ。

 しかし、我々の住む世界とはまったく流儀の違う世界があったとして、そこは「見る」「聞く」「話す」というシステムがないかもしれない。そういう認識法じゃないかもしれない。

 善悪とか、愛とか、心と体とか、そういう前提概念もあるかどうか怪しい。我々との共通項がいったいどれだけあるか。もしかしたら、ほとんどないかもしれない。

 こちらの論理的思考法、「こうだからこう」という、因果律を超えた(無視した)世界かもしれない。よく、私はワンネス体験をした、ワンネスが分かったと言う人がいるが、言葉で「分かった」なんて軽々しく言えるのは怪しい。失礼だが本当には分かってない可能性が高い。

 要は、一時の気分の高揚であり、幸せな勘違い。それが、神秘体験と言われるもののほとんどである。



 あんなもの、「分かる」ものじゃない。

 かといって、感じるものでもない。感じるのも分かるのも、「~を感じる」「~を分かる」というように、必ず目的語(対象)が要る。観察する主体と対象の、二者が要るのだ。

 ということは、自他の分離自体がないはずの「ワンネス」を分かる手段は、論理的にはない。論理的には、自他がない世界のことをそのシステムを持ったままの者が理解するなんて、本来あり得ないことである。

 ましてや、分離がないから対象に働きかけることがない全体性からの「メッセージ」など、ある訳がない。あったら詐欺である。

 何らかのメッセージを発信するというなら、それはワンネスや空という一元や絶対性とは無関係の、我々よりちょっと小マシな知的生命体、程度のことだ。

 ちなみに、この宇宙を創造したのは宗教では「神」とか呼ばれるが、別に宇宙の根源でも絶対者でもない。頂点を空とするならば、かなり下っ端な存在である。

 神は、何てことないただの上位次元に住むなにがしである。



 質問に戻るが、この世界でいくら自分たちの存在理由を考えても、ムダである。

 質問者自らが、それを証明している。この世界の論理的思考法で考えたら、当たり前だが行き詰る。なぜなら、水の容積を長さを測る定規で割り出そうとしているのと同じだから。

 そりゃ、一元のことなんてわかりません。

 自他がなく、自発的に何もしない。それが宇宙の究極なら、何かが生まれたりするわけがない。じゃあ、この世界は何? どう考えたらいい?



●分かりません。



 あきらめてください。それが究極の問いの答えです。

 ヒマな人は突き詰めて探求してくださってもいいですが、それよかもっと人の役に立つことしてください。

 特に今の時代は。そんなことが議論されても、世界は何も良くなりません。一元からなぜ二元が生じたか、の解答が発見されても、おそらく世界は変化しません。

 もっと大事なのは、思いやりと勇気です。

 それは、悟りとかスピリチュアルでいう「意識の高さ」と関係なく持てますから。

 むしろ、そんなものがあると言われている人ほど、思いやりも勇気もありませんから。



 筆者がスピリチュアルだいっきらいなわけ。

 何でもかんでも、分かると思っているところ。

 不可能はない。真理にたどり着けば、悟りに至れば、宇宙のすべてを理解できる。

 逆どす。

 たったひとつの真理は、これ。「分からない」。

 究極には、「分からない」です!

 でも、それを認めようとせず、何でも理詰めで知的に把握しようとする。で、力技でそれをして、何かを分かった気になる。

 これがキライで、筆者は主流スピリチュアルから決別したのである。嫌われることも厭わず。

 皆さんは認めたがらないので、私はもうどうでもいういやと思った。時代は私を必要としていないので、ならばと引っ込んだだけ。

 あとはもう、好きにしなさい。そして自分と国と世界が選んだ選択を、とくと味わいなさい。行きがかり上、私も最後まで付き合うから。



 私のメッセージが途中で雰囲気が変わったのは、私が変化したのではない。

 世界が変わったので、私も変わったのだ。

 途中から、「それどころじゃなくなった」からだ。壮大な宇宙論を垂れている場合じゃなくなった。家が火事なのに、落ち着いてパチンコなどしてられんでしょ。

 でも、ほぼ誰もそんな危機感はない。スピリチュアル界はむしろ、「わくわくしますね~」「これから素敵な時代になりますね~」などと不思議なことを言っている。

 もう、そんな群れに好かれなくていいと思った。



●一元から、なぜ二元が出たか。

 この世の思考法では、どうやっても説明不可。

 永遠にムリだろう。

 釈迦もキリストも伝えられなかったことを、誰ができるのか。

 できるものなら、もう過去の偉大な覚者がやっているはず。



 分からない。それが答えだ。

 努力が足りないとか、やり方が悪いとかいう次元の議論ではない。人間であることがすでにアウトなのだ。その時点で、もういくら考えてもムダなのだ。

 世界の根源など放っておいて。一元だの二元だの、悪化した経済と汚い世界を救えない高尚すぎる話は、もっと世界が安定してヒマができるまで脇に置いて。

 もっと、現実的にできることを考えませんか。スピリチュアル本も悟りの経典も引き寄せの本も捨てて、何か行動しませんか。

 分からないことをムリに考えようとせず、「分からないことを分からないままで置いておく勇気」を持ちませんか。「分からないことは分かるように努力する」ことが美徳化しすぎて、皆いいことだと思って何でも追求しますが、ものによっては追求するほどズレるものもあります。

 一元のことを考え、理解しようとすることはその最たるものです。



 何も、「悟った」「ワンネスを体感した」というのがすべてウソだろ、とは言いません。おっしゃるなら本当でしょうから、そこはいいです。

 ただし、その悟りやらワンネスやらをこの世次元的に「分かった」として、この世界の言葉でベラベラ言わないでほしい。娯楽としては構わないが、「ひとつの意見であり、真理かどうかは分からない」と言ってほしい。

 二元性しか分かり得ないはずのあなたが 「これが(次元を超えた世界を含めての)真理です」などと言うようなら、その人物の底が知れている。

 そんな人が人気になるような世界なら、私は喜んで身を引っ込める。

 あなたも一時は本を出し、講演などしてペラペラしゃべってたじゃないか、と言う人もあろう。おいおい。私はいつも「この世界に真理はない」と言ってきたよ。

 私は好きなことをしゃべっているだけで、別に信じなくも採用しなくてもいいと言ってきた。



 精神世界の内容は、突き詰めすぎるとこの足を付けた地から遊離してしまい、役に立たない理屈になってしまうのである。人に良くしてあげるとか、ゆるすとか、そのへんの次元でいいのだ。それ以上は、マニア倶楽部だ。ヘンタイだ。

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