ダダっ子
ウチの長女が4歳の時の話。
幼稚園が長期の休みに突入したので、さっそく「アンパンマン」の映画を見に連れて行った。それ自体はとっても喜んでくれた。
最近の映画館は、イオンなど複合商業施設と合体しているところが多い。映画の帰り、買い物などしていると夕食をとってもおかしくない時間になった。
そこで、レストラン街かフードコートで食べていこうかという話になった。
筆者は、娘にいくつかお店を提案した。(懐具合を勘定して)
すると娘は、かつてそのエリアで入ったことのあるビュッフェ形式のレストランに行きたい、と言ってきた。ちょっと高級感のある、割高な所。
ああそういえば、私も昔は講演会とかいっぱいして収入あったっけ……でも今はぶっちゃけカネがないので、できれば出費を抑えたいところ。
その昔、スピリチュアルの師匠と仰いでいた人物の教えは「オカネがなくても贅沢をすること」だった。「ない」と考えるから、その通りの現実が生じるのだそうな。
借金をしてでも贅沢をすれば、意識が変わる。そして現実が変わる。「感謝」して楽しみ、気持ちよくお金を出した分は必ず返ってくる——。
今になってよく考えたら無責任な言葉だ。当時は「そうなのか!」と感激して本当に実行したものだが、今では全然その気なし。
はっきり言うが、それでうまくいったら「たまたま」。あなたの人生にはたまたま「それがフィットした」というだけのこと。
万民が公式のように応用してうまくいくものじゃありません。やるなら自己責任で。いくら感謝しようが出した分以上のオカネが絶対に入ってくるという保証はどこにもありません。
出す時の感謝が本物だったとかニセモノだったとか、そんな曖昧なことも判定できません。皆さんが失敗しても、指導者は責任取りません。
だから、普段の私は財布のヒモは固めにしている。
当たり前の話である。意識が現実を作るのに、とか言わないで放っておいてほしい。ないものはない。なかったら稼ぐ。他に何か?
なんでそれが、リッチな気分でいればいい、という偏った精神論になるのか? 100人中何人が、それで本当に指導者のようになったのか?
筆者と奥さんは、ごめんだけど別のお店にしようね、と娘をなだめにかかった。
(4歳の子に私の仕事や経済状態の変化は呑み込みずらいようだ)
もちろん、これがダメだからこれで我慢せい、ではサイテーの対応なので、誘導したいお店の良いところアピールは欠かさない。
それでも本人は納得せず、「ヤダヤダ、あのお店でないとイヤダ」と言い張った。
こちらは、怒鳴り付けこそしないが、認めるわけにはいかない。
これはもちろん親として人間としてのエゴだが、「映画に連れていったことだけでも感謝してほしいのに」という思いが湧いてきた。
娘は納得できなくて泣いた。
なんで、感謝されてもいいくらいなのに映画見せてやって最後泣かれなきゃいけないのか。気分悪く帰らなきゃいけないのか? そんな感情も湧いてくる。
悟りとか、そんなことはどうでもいい。こんな感情が出て来たら高次元人間失格、とかバカバカしい。いちいちそれに向き合っていくのが生きるということである。
まぁとにかく、家族がそんな状態で、あえてどこかで食事しても美味しくない。筆者の娘だけあって一度決めたらなかなか妥協案を受け入れないので、かなりの確率で食べてくれない。だから、お金も大事なのでそのまま家に帰ることにした。
食事は、結局家で作った。泣き疲れて(あとは映画の集中疲れ)、車の中で寝た。
2時間ほどして起きたが、その時にはケロッとして遊んでいた。
もちろん幼児のことでもあるので、単にわがままというよりも「疲れと眠気が、そのようなグズグズを生みだしている」ということもある。その辺の事情は汲むとしても、それでもダメなものはダメである。
そういう体験を重ねて、子どもはこの世で生きていく力をつけるのだ。
これも、大人からの勝手な観点と承知で、こう言ってみる。
もっと、賢く立ちまわればいいのに。
たとえばAとBを、どっちともほしい場合。
AかBか、どちらかしかダメという状況があって。もしどっちかを決められない(両方欲しいということが譲れない)ならどっちもあげない、という場合。
どちらかでももらっておいた方が、両方得られないよりいいだろう。
筆者の場合、大人として自分の生きたい生き方を選択する者として、この「どちらも得られない」といういばらの道をあえて選ぶことがある。
それはもちろん、気まぐれ勝手や感情から安逸に選択してるのではなく、そうなっても文句を言わないという覚悟をもってのことだが、4歳の娘がそのような意味合いで選択しているとは思えない。
今の日本が、ちょうどそうだ。
娘を通して、現代人が今の社会システムに合わせて生きようとすることで陥っている「違和感」を見せられた思いだ。娘が泣いたのは、人間の内側の「自分の本心の叫びと社会が求めてくるものとのズレ」の象徴である。
それこそが、人を狂わせる。他人から見た「不可思議な行動」「奇行」となる。なんであの人は、自分に一銭の得にもならないあんなことをしたのだろう? という種類のことである。
でも、それはその人物の世界なりの理由が必ずある。
様々な形で抑圧された人間は、どこかでその発散場所を求める。
日頃他者や強い立場の者から抑圧・搾取されているので、自分が主役あるいは上の立場になった時(オフの時のお店のお客、あるいはネットやメディアで視聴者の立場に立った時)自分がされていることを他人にもする。
相手に「完璧さ」を要求する。でなければ「失格」と息巻く。
それが今のバッシング社会、ネット(SNS)炎上社会、クレーム社会である。それで精神の均衡を取っている、という何とも皮肉な立場にある人もいるのである。
うちの娘のように、「映画じゃ足りない。高級レストランも!」と言うのと同じで、政治家や芸能人に「まったく落ち度をゆるさない、完璧を要求する(というかそれが当たり前)」のが皆さんである。有名税という言葉を好んで使う者が、有名人は落ち度があれば責められて当然という認識でこき下ろす。良心はまったく痛まない。
もちろん、有名人は大勢の人に影響する立場にいるので、一定の厳しさはもちろん必要ではある。しかし現代の雰囲気は「1ミリのズレもゆるさない、見逃さない」勢いである。これは極端すぎる。
そういう職業が必要なことも分からないではないが、それにつけても週刊文春さんなどはちと頑張り過ぎな感じがする。そんなに次々血祭りに上げなくてよいのに。
人間完璧じゃないので、あそこまでの勢いで数をスクープしていると、冤罪や誤認も出てきかねない。
●現代人に必要なのは、妥協である。
AもBも、と完璧最短を行こうとするのではなく、とりあえずAにしとく、とか地道に自分たちの利益を挙げていく道である。そういう賢さが必要なのだ。
皆、完璧な美しさや体面に囚われて、実利を見失っている。「損して徳取れ」ということわざを完全に見失っている。
筆者が小学校二年の時だったか。
コイン集め(古いオカネ)と切手集め、という渋い趣味をやっていた。
ある時、父がその専門店に連れて行ってくれて、好きなコインか切手をひとつ買ってやる、と言ってくれた。その時の私にはどうしても欲しいコインと切手があり、どちらかに決めがたかった。だから、私は気持ちに正直に「両方買って」とねばった。
父は最後にキレて、何も買ってくれずに私を車に押し込めて、エンジンをかけた。
「どちらかに決められないんなら、どっちも買わん。帰るぞ」
実際に、車は走りだした。ああ、このままではどっちも得れずに帰ることになる——。
幼い頭で落ち着いて考えた。わがまま言って両方損するなら、今折れてどちからに決めたほうが得だ。そこで私は、ハンドルを握る父に言った。
「切手のほうだけでいいから、買って」
普通は、もう走りだしてからずいぶん経つなら、店に戻るのは面倒だ。
「また今度な」となるところであるが、父のすごいところは来た道をまた戻ってくれたことである。私がどっちかに決めたその瞬間、迷わずユーターンしてくれた。
その経験をした時、筆者は小学二年生。で、当時のうちの娘はまだ幼稚園。だからこれからだな、と思った。
今の日本も、重大な岐路に立たされ何かの重大な選択を迫られた時「賢く選ぶ」ということを覚えておいてほしい。あれもこれもと、すべてに完璧な選択などない。ましてや、大事な何かを犠牲にしてでも得る価値のある選択など、そう簡単にはない。
欲張って一足飛びに「理想案」に飛びつくより、まずは手堅く今の幸せをある程度守れる「妥協案」にするほうが賢いこともある。
もちろん、時によっては痛みを伴う「大きな思いきった決断や改革」をすべきケースというのはある。ただ、今のこの国はまだそのタイミングではない。
その時だ、と思えば筆者も記事で言うし、私が言わずとも賢明な読者諸氏は賢く情報を取捨選択し、自ら感じ、悟るであろう。
そのインスピレーションを大事にされたらよい。
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