ぼくを探しに

 ロングセラー絵本で、『ぼくを探しに』がある。

(シルヴァスタイン作・倉橋由美子訳)

 何らかの形で一度は目にしたり、触れたりした人は多いのではないか。

 原題は、『The Missing Piece』(足りないかけら)。大昔の洋画の邦題のように、うまく意訳してある。

 主人公(名前は出て来ない。だから「ぼく」でもよいだろう)は、自分はどこかが「欠けている存在」だと自覚している。そのせいで幸せではないと思っている。

 だから、自分に欠けているその 欠片を探しにいこうと考える。



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 ぼくは、歌いながら転がる。「ぼくにピッタリのかけらを探しています」 と。

 体に欠けがあるので、その分早く転がることができない。

 だから途中で虫と話しこんだり、花の匂いを嗅いでみたり。

 蝶々もとまったりするし、ゆっくりすぎてカブトムシに追いこされることも。

 でも、その時が一番幸せ。



 苦労して、世界中を旅した。

 あるかけらは小さすぎ、また大きすぎ、長すぎたりした。

 やっとぴったりするものに出会えても、こう言われた。

「わたしはわたしで、自分だけのもの。誰かの欠片とかではないわ。」



 そしてやっと、ついに自分の失ったかけらに出会う日が来た。

 ぴったりだ! 喜びのあまり、ぼくは駆けだす。

 かけらが埋まって完全になったので、転がるスピードが増す。でもあまりに速すぎて、虫と話すために止まることもない。花の匂いを嗅ぐ余裕もない。

 回転が速すぎて蝶々もとまれない。ぼくは、じゃあ歌でも歌うか、と思ったけれど……あら、かけらが埋まって完全になって、口までふさがって歌えないや。



●結局、「完全になる」って何だろう?

 その結果、何を失っただろう?

 


 ああ、そうか! あることに気付いた「ぼく」は、折角見つけたかけらを、そっと体から外して手放した。

 そしてまた、ゆっくり転がり出して、歌う。

「さぁ、かけらを探しにいくぞ」



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 スピリチュアルにおいて、悟りとか完全性(意識的側面・愛において)を目指そうとしているような人には、この物語を読んで気付いてもらいたい。



●人間が完全を目指して達成してしまうことは、実は損失である。

 この世界から消えてしまう(解脱)予定がないのなら、欠けは埋めないがよい。

 その欠けの状態そのままでも幸せになるすべを、身に付けたらいいのである。



 この絵本は、欠けていると感じる今の自分が不十分として、より完璧な状態を目指そうとすることの愚かしさを説いている。もちろん、愚かだからやめろ、というメッセージではなく、ちゃんとやってみてから「愚かさに気付く」のでないと、生きた学びにならない。

 プロセスとして、やっぱり一時はもっと良い自分を追いかける時期があっても、ムダではない。むしろ、その時期を挟んだほうが、後の気付きの時の腑に落ち方が強化される。

 この絵本は、「予防できる過ちを避けて、合理的に最短で成長する」 ことを目指すためのものではない。ただ、道程の確認のためのものである。だから、この絵本は子どもにいいのはもちろんだが、もっといいのは「大人が読むこと」であろう。



 我々は、完璧でないことを目的として、そこにある今を味わうためにいる。

 欠けがあるから、ドラマが生まれる。あなたがもし意識体として「完璧」になどなったら、あなたは「ただ在る」ということ以外関心も興味もなくなり、感情の揺れや迷い、すべての動きが沈静化する。

 絵本で言うと、かけらを見つけて完全な球体となって速く転がるようになった「ぼく」と同じ状態。虫ともしゃべらなくなり、花の匂いを嗅ぎに止まりもしない。

(愛がないとか感性がなくなった、というよりも、それまでの物事の優先順位が確実に破壊されたのだ)



 だから、人は自分が完全になることをどこかで求めるけど、それは達成されてしまっては、いけないんだ。

 完璧になることは、私たちが願っている幸せとは、ちょっと違う質のものなんだ。

 そこが分かって求めているのなら、いい。止めるのはヤボだ。

 だが、分かってなくて漠然と憧れているだけなら、悪いことは言わないから、完全さを求めないほうがいい。できたら、そのこころざし(あるいは趣味?)を放棄してもらいたい。



 欠けがあるからこそ、幸せになれる。

 欠けがあることは、幸せになるためのひとつの条件である。

 欠けが埋まり、完璧になることは、この次元を超えた世界レベルでは大変結構なことである。しかし、あくまでこの次元にとどまり続ける前提なら、進んで不幸になるようなものである。

 ただ、自分に関わるものすべてを捨てる(執着を完全克服する)覚悟がある者なら、不幸ではないだろう。でも、そこまでする気がないのなら、あなたは自分が完璧になるなんて考えを忘れてしまったほうがいい。二度とそのような発想をしないのがいい。



 もちろん、仕事や人間関係でで失敗したなら、なぜ失敗したかを反省し直せばいい。それをしなくていいなどと言っているわけではない。

 ただ、「完璧」を捨てろと言っている。

 自分から「悪」を成しうる可能性を完全に排除するとか。完全なる愛だけの存在になるとか。そういう寝言を言うのをやめろ、というだけのことである。

 皮肉な話だが、あなたがそういうのを血眼になって目指すほど、結果としてあなたは周囲に迷惑をかける。家族や親友を泣かすはめになる。でも本人は、周囲を困らせているなんてちっとも気付かず、自らの「愛の純化」に精を出す。



 悟りという話にも通じるが、完全を求めれば求めるほど遠ざかる。

 逆説的だが、追うのをやめる・あるいは幸せは今目の前にあり、完全を追って得られる幸せよりもこっちのほうが美味しく、十分満足できるものであることに気付けば、ヘンな話「完全」に通じる道が開ける。

(注意:それだって人間肉体から認識する以上、本当の完全には遠い)



 悟りは、正攻法(最短距離でスマートに)では得難い。

 真正面から行くのはほぼ無理で、反対へ向かい地球を一周して、「悟りってやつの背中」に到達する、というアプローチがほとんどになるだろう。

 だから、どうしても自分の意志で「悟りたい」と希望する者は、むしろ逆走せよ。つまり、セミナーに出たり悟りの本を読んだりして前に進むのではなく、あきらめて手放せ。そして、今花の匂いを嗅ぎ、友達と話せ。自我をフルにつかって、感じろ。行動せよ。



 目指すより、かえってそうするほうがいいと思うぞ。

 老婆心ながら、「悟りたがり」のために言っておく。

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