断捨離の本質

 有名通信販売大手の『ジャパネットたかた』がまだ先代の名物社長の時代に、こんなニュースがあった。

 ある時、それまで約8500種類ほどもあった取扱商品を、割以下の約600種類に絞り込む方針を決めた。販売商品をあえて少なくすることで、顧客サービスの充実を図ろうとするねらいがあった。

 間口を広げ商品の種類が多くなり過ぎると、いち商品に対して割ける情報提供量が減ってしまう。扱う商品を絞り込めば、情報量も増やせ在庫も抱えやすいので、これまでより迅速な納入が可能となる。

 絞り込みは英断と思うが、でもまさか「9割削減」とはちと極端ではないか?

 このニュースに関して一般の反応としては、絞り込みそのものより9割、ということころに反応して「減らし過ぎじゃ? それが裏目に出なきゃいいけど」という感想も少なくなかった。




 一時、『断捨離』という言葉が流行した。

 筆者も昔、興味を持って関連本を買って読んだ。

 奥さんは読みかけたが結局途中で放り投げ、今ではすっかり忘れ去っている。

 私は基本的に、これはうまく用いさえすればよいものであると思っている。ただし、今言ったようにあくまでも「うまく用いられれば」である。

 断捨離の理屈のどの部分に強く反応したかによって、効果にズレが生じる。



 断捨離関連本の中に、家のスペースに対する考え方が書かれてあった。

 家賃を払っていたら、それはもちろん家全体のスペースに対して支払っている。

 ということは、もしあなたが万年、あまり使わない邪魔なものを部屋の片隅に置き続けているとしたら、そのスペースは「死んでいる」。お金を払っているのに、何も生かせていない。

 そのような指摘をした上で、断捨離はせっかく使えるスペースを十二分に生かそうよ、というオススメなのだ。(北斗神拳の説明みたいやな)でも、これはあるネガティブな視点に反応しやすい人種が読むと、行動のたね(動機)自体がおかしなことになる。

 イエス・キリストも実はたねによって決まる、つまり表面的な行動よりもその動機が重要であると指摘している。だから、人によっては同じ断捨離を学んで実行するのでも、次のような動機(種)で断捨離してしまう危険がある。



●損をしたくない。



 そう。今の世の中、「損得」に心が縛られている人も多いのだ。

 スペースを使わないもので塞がせておくなんて、勿体ないことをしていますよ。お金がムダになってますよ——。

 そのような言い方で言われると、「確かに、損をするのはまずい」ということで多くの人はなんとかしようと考えるだろう。

 ただし筋金入りの「片付けられない人」は、断捨離のその理論をもってしても不安にさせることはできないが。(笑) 本当に屈強なツワモノである。

 でも、スピリチュアルを多少なりともかじった皆さんなら、分かるでしょう。「損をするのはヤダ」という思いの種(動機)でやる断捨離が、いかにショボイかを。

 いかに、意味が浅いかを。



 筆者は、断捨離とは「生きる上での、自然な流れに従った反応」だと思うのだ。

 体が老廃物を出し、一定期間をかけて細胞が全部入れ替わる。人間の体が生命として自動的にやっていることは、まさに断捨離に通じるものがある。

 間違えてほしくないが、「(意図的に)要らないものを捨て、大事なものを残す」という感覚ちょっとは違う。あくまでも、自然な流れとして離すもの、残るものがあるだけで、そこに価値の上下はない。

 本来、人から言われてやるものではなし。太古の昔、あるいは高度な精神文明を築いた星では、断捨離は息を吸うのに近い感覚であったろう。



 しかし今の地球では、独自のゲーム過程で、人類にちょっと偏った「クセ」が体に染み込んだ。自己保存の本能だ。

 それ自体は生き物としておかしくはないのだが、そこに「恐れ」が加わった。

 自身が快適に生きるのに、他者と比べて「そうはなっていない」という相対的評価を見せつけられること。それによって、自分が「人より損をしている」という認識を突きつけられることに、不快感と恐れを抱くようになった。

 そのクセはやがて、人間にとって逆に「自然なもの」としての地位を獲得し、どちらかというと当たり前になった。人間の在り方のスタンダードとして取って代わってしまった。



 そのことに魂のどこかで危機感を抱く者が、スピリチュアルな発信によって「本来」 に戻そうとするのである。スピリチュアルとは、新しい何かに進化・新生するというよりも原点回帰であり、王道復古である。歴史の進行上身に付けてしまったゼイ肉を削ぎ落し、そもそもの自然に戻るのである。

 だから、断捨離はイヤイヤ行うくらいならやめたほうがいい。

(ただし、あなたの同居人が喜ぶなら、あなたがイヤでもやる意味はある)

 したいからするのであり、気持ちよいからするのである。

 そもそも、本で説得されないといけない、というのがいかに我々がズレているかの証明である。



「私は損をしているかもしれない」という恐れを何とかしようとしてする断捨離ほど、勿体ないないものはない。同じするなら、恐れを何とかしようとするよりも「気持ちいいなぁ」なのである。

 それをすることで得られる「快」に目を向けられれば、上々である。

 でもこれは、「気持ちよさに目を向けるんだ!」と無理やり頑張るのはやはりヘン。筆者が厳しく本書内で繰り返しているように、それは「年月の積み重ねによる自然な産物」なのだ。その結果、どこかの時点で勝手に「自分も変わったなぁと観察されるもの」なのだ。

 表面的でない究極の断捨離とは、意図してはできないもの。育てた人間性そのものがあなたの表層意識を介せず反射的に、自動的に仕事をするのだ。

 自然と、断捨離の穏やかな面、気持ちよい面に意識を向けていける自分を発見するためには、本当に今ここの「感覚」を大事にしつつ、向き合い続けていくしかない。

 そのような時を重ね続けるしかない。



 冒頭に挙げたジャパネットたかたの『断捨離戦略』が、収益を上げようとする焦りや、利益ありきでぶち上げた「打算」なのか、そうでなくて本当に顧客を思った自然な流れだったのか、本当のところは分からない。ただジャパネット好きの筆者としては、健康な企業の体質として必要なタイミングで自然に出てきたものであった、と思いたい。

 断捨離は、水の流れのように自然に、が極意である。

 無理をしてでもやる場合は、それをすることで他人が明らかに喜ぶ場合に限る。

(イヤイヤでもあなたが汚部屋を片付けたら、同居人や親兄弟知人は喜ぶ)

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