案外気付かないでやっている間違い
『5人のジュンコ』という、WOWWOW発のオリジナルドラマがある。
全5話と、完結まで見るのにはそれほど負担のない長さ。似たような作品で「フジコ」というえげつないなドラマがあり、かつて筆者もこの作品についてコメントしたことがあると思う。
こちら(ジュンコ)のほうが、フジコと比べて描写上のグロさは少ないが、それでも見た後のやるせなさと後味の悪さはフジコと肩を並べている。言っちゃうと、「本当に悪いヤツが最後には生き残る」ところ。
スピリチュアル的には、「そうやって助かって生き残ってオカネをせしめて快適に生きても、魂レベルでは幸せじゃない」とか言って、悪人が現象上勝ち組として暮らすことを腐したりするが、「そんな幸せは本当の幸せじゃない」と糾弾することに大して意味があるとは思えない。
●生きてこそ「なんぼ」でしょ?
ある程度の生存保証と安定があってこそ、でしょ?
魂さえキレイやったら、あとは悪人に奪われても構わない、ってか?
シナリオ上仕方ないように思えるものがあるとしても、この世ゲームは生きてこそのゲームである。
この世界において、一生懸命誠実に生きている(これも客観的判定が難しい)人こそが、悪どく生きるヤツよりいい目を見る世界でないと皆さん納得いかないのではないか?
悪いことをしてカネを儲けても、人を騙して自分がいい目を見ても、そんな幸せは本当じゃない、なんて陰口言って間接的にブツブツ責めてる場合じゃないでしょ。そういうことが起きない世界にするために、動いていかんと仕方ないでしょ。
こういうドラマって、そのための「起爆剤」だと思うのだ。
決して、視聴者の悪趣味な欲望を満たすためのものじゃない。
世界を批判しているというのではなく、「このままでいいですか?」と聞かれているのだ。
もちろん、あなたの家族は今のところ問題もなく、平和な平凡を勝ち取っているかもしれない。でも、放っておくと明日は我が身かもしれない。
くじと言うのは、当たる確率が低くても「引き続ける」 なら当たる確率は増える。世界が変わらず新しい一日を迎える、ということは「その世界の枠内で起きる可能性があるすべてのことのクジを引く」のと同じ。999回、あなたは空くじを引いたかもしれないが1000回目はどうかな?
脅すのはこのへんにして、ドラマの内容に移ろう。
ネタバレをしてしまうが、それでもよい方は先をどうぞ。
ある連続詐欺殺人事件を軸に、それと関わる5人の女性に焦点を当てたドラマ。
皆、漢字は違うが「ジュンコ」という名前になっているというユニークな設定。
佐竹 純子(小池栄子)という女性が、その事件の容疑者として警察に捕まる。
それを追うジャーナリストの田辺 絢子(松雪泰子)は、事件を調べているうちに、ただ佐竹だけを悪者とした場合、整合性の取れない事実に行き当たる。
視点を変えて見ると、そこには今までどちらかというと「被害者」だと思っていたある人物の別の姿が見えてきて……その時、「悪女・佐竹純子」 の誕生秘話と、その誕生を生んだ別の「真の悪魔」の正体が明らかになる。
この物語の面白さのひとつに、「どんでん返し」がある。
同じ事件が、視点を変えるだけでまったく印象が変わってくる。
佐竹純子が逮捕され、その過去が暴露され世間の誰もが彼女を「一番の悪者」と考えた。その前提で事件を見ると、ただ佐竹だけが悪い、で終わる。
事実、警察はそれ以上見抜けない。ただ田辺絢子だけが、誰よりも深く事件を追ううちに、ふとある視点で考えてみることを思いつけた。
佐竹純子が事件の実行に関与したことは間違いない。でも、彼女がすべての犯人だと考えると行き詰る。
もしかしたら、「佐竹も片棒はかついだが、本当の悪が別にいるのではないか?」
そのように整理し直した時、すべてのパズルのピースがはまる。
我々はつい、外部から与えられた情報への先入観をもって、判断してしまう。
そして、あまりにも「当たり前」だと思っているので、その当たり前を疑うことがない。まさに、あなたの「柔軟性」が試されることにもなる。
あなたはどれくらい、利害関係や「こうであってほしい」という願望に縛られることなく、物事を見つめることができますか?自分のエゴ・フィルターに気付けるだけの勇気と謙虚さがありますか?
田辺絢子は、かつて生きる目的を失っていた自分を救ってくれた先生を、誰よりも大事に思っている。その先生のために生きることが、彼女の生きがいと言っても過言ではなかった。
その先生が、ある不祥事を犯す。
田辺は、先生にはまだ使命があり、この世が必要とする人だと考え、「自分がやりました」と、その不祥事の張本人であるとウソをついて警察に出頭。
さて皆さん、こういう「自己犠牲」は美しいものだと思いますか?
これはまるっきりの勘違い。まさに、エゴ。
この世界で、幸せだと思いにくいけど幸せなことって何か分かります?
『自分がしたことの責任を、自分でちゃんと取れること』。
これ、意外と嫌われます。
万引きしたら、バレるよりバレないほうがうれしい。交通事故でも、「自分は悪くありません」と言い続けることで、あっさり認めていたよりも軽い罰になれば儲けものでしょう。
人間、陰で多少ずるいことや卑怯なことをしても、結果オーライならほっとする?
いやいや、そっちのほうが大変です!
バレたりしたらむしろあなたは不運だと思うでしょうが、やったことの責任をできるだけ早い時期に(何年もたたないうちに)背負えるということは、大きな視座でみるとむしろ幸運なこと。
先生は、自分でやったことの影響は自分で受け止める必要があった。
(先生が冤罪で、実際に何もしてないという場合はまた別)
それが、先生自身がどんな人生でも「自分が主人公でいられる」人生。
そこを、田辺が先生を守ろうと「自分が犯人です」と助けてしまうことは、田辺が「間接的に先生を奴隷にしてしまうこと」になる。これ、田辺の気持ちがピュアかどうかとか関係ない。
この自己犠牲は、最低のクズ行為である。どうも人間は、ある一点でなかなかおバカさんである。
●自分が良かれと思ってやっていることが、実は相手にとってよくないものである、という事実に気付けずに、ずっと勘違いしたまま気持ちよくその「勘違い」を提供し続ける。
これをやっていることに、「灯台下暗し」で気付けない。この要素が、この世界の「生き辛さ」の立役者の一人である。
皆さんはないかな? 全力で生きているのに、これがベストだと思って日々努力してないわけでもないのに、何か人生がうまくいかない。他人との関係がいつも空回りする、という時。
ちょっと、自分が「これでいい」と思ってやっている他者への向き合い方や声かけ、アドバイスなどを一度「まったく自由な視点から、色々眺めまわしてみる のもいい。
最後、自分の正体を田辺に知られた真犯人が、自分を捕まえるどころか田辺自身が犯罪者として(ウソで)警察に捕まったことをTVニュースで見て、アハハと高笑いする。
結局、田辺は自分と自分の納得の世界だけに生きた。
先生を守ることの前には、悪魔のような真犯人が世間で人知れず生き続けることがどれだけの人を不幸にするか、などどうでもよかったのだ。
真犯人の「バカじゃないの」という高笑いは、あながち的外れでもない。大きな視座から見ても、それは非常に勿体ないこと。
●世界で一番勿体ないこと。
それは、その人にしかできないことがあるのに、その人がそれを放棄すること。
田辺絢子は連続殺人の真犯人を明らかにして捕まえ、世間を安心させることよりも、自身の愛着にしがみついた。
それが人間という分離意識の弱さでもあり、逆にまた生きることを面白くする「愛しさ」でもある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます