~は~だ!にまつわるエトセトラ
とある大学構内の図書館にて。
英語の研究についての本や参考書がズラリと並ぶ棚があった。
そこに連続して並んでいた4冊の本のタイトルに、爆笑した。
図書館は静かにしないといけないので、すぐに口を押さえたが。
『英語は前置詞だ!』
『英語は冠詞だ!』
『英語は副詞だ!』
『動詞が分かれば英語が分かる』
捕捉だが、上記の4冊はそれぞれ著者も出版社も違い、互いに関連性はない。
ずいぶん昔の教師物のドラマの中に、二人の対照的な教師が登場していた。
仮に教師Aと教師Bとしてみよう。劇中いつも仲が悪かった。
教師Aは、生徒とのふれあいや理解を重んじる熱血人情派。
教師Bは、受け持った生徒の成績が少しでも上がること、そして有名校への合格者を一人でも多く出すことに価値を置く、実績重視タイプ。
この二人は、いつも自らの教育論をぶつけあう。
教師A:『教育とは、愛です!溢れる愛です!』
教師B:『いや、教育とは偏差値だ!』
……というふうに。
皆さんは、仮に『教育とは~だ』という言葉を作るとしたら、どんな言葉を入れるだろうか?
さて。今回記事のトップに掲げた話題に戻る。
どれも、実際に大学の図書館にあった英語の参考書である。
一冊一冊は、良い参考書なんだと思う。著者もそれぞれに、冗談などではなく大真面目に執筆したはずだ。
でも、こうやって並べていっぺんにタイトルを見ると、違和感が生じるのは否めない。さて、またここで問題です。読者の皆さんなら、「英語は~だ!」という言葉を作るなら、どんな言葉を埋めますか?
スピリチュアルという分野でも、古くは宗教や哲学という分野でもこれは常にある。たとえば、「人生とは~だ」という命題。
古今東西、無数の文学者、科学者、詩人、音楽家、冒険家、発明家といったような先駆者たちが、様々な言葉で表現している。似たような意味のものはあっても、全く同じという文章はない。
どれが「間違い」ということもなく、この世界には無数の個性があることを考えれば、ニーズがあるため「どれも正解」。逆に、ある特定のものを「一番の決定版、これ以外は2位以下の解釈あるいは間違い」と決めてしまったら、それは恐ろしいことになる。
腕が、「人間として生きるとは、腕だ」と思うかもしれない。
腕でしかあり得ず、腕しか経験しないから。
足が、「人間として生きるとは、足だ」と思うかもしれない。
足でしかあり得ず、足しか体験しないから。
腕も足も、体を統括して認識する「全体性」である田中さん、を経験しないから。
田中さんからしたら、腕は確かに自分の一部だけど、自分という存在そのものではない。
田中さんからしたら、足は確かに自分の一部だけど、自分という存在そのものではない。
この世界次元で生きる個々の人間は、今の「腕」とか「足」のようなものだ。
幻想で分離キャラをやっているので、(確信犯的に)全体性、すなわちワンネスを忘れている。
一部でしかない者が、一部しか体験してない者が、全体(人間存在とは、宇宙の真理とは)について把握しようとする。しかしここで問題が生じる。
●一部分でしかない者がいくら全体に対して「妄想」しても、結果としてそれは結局「その者自身を表現した」だけのことになりやすい。
例外があることは認めておく。
お役目なのか何なのか、まれに まかり間違って腕が田中さん自身を体験する」ことが起きる。これを人間で言うと、悟り(非二元への接触)である。
腕は、仲間である足や首にその驚くべき体験を興奮して語るも、理解されない。
しかも、腕というキャパシティで規格外の「田中さん全体性」を体験しているので、そのごとくを覚えていられず、断片的で劣化コピーのような表現に落ちる。それでも、たまに同じ宿命を負った「同志」が例え劣化版の全体性表現でも、アッと気付けることがある。
イエスは、よく言ったものだ。
●「狭き門より入れ。滅びに通じる門は広く、その道幅も広々としていて、そこから入る者が多い。しかし命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
今の時代はスピブーム・悟りブーム (実はもう下火?)で、「もうみんな悟ってる」とか「ありのままの自分を好きになるだけでOK」という甘やかし系がだいぶ優位になってきたので、ここではバランスを取ってちと厳しめにこのイエスの言葉を引用しておく。
この、まかり間違った「言い当てた言葉」は、なぜか不思議な調節機能が働きながら、「広まり過ぎず、潰され過ぎず」残り続ける。
でも、ここで注意が必要である。
千年前ほどにある教えがその当時の「言い当てた言葉」担当だったとして、現在もその教えが生き残っているから、それは千年たった今でもお役目として有効かというと、残念ながらアウトである。それは常に宿を「やどかり のように変える。しっかしりしていれば長く宿ることもあるが、飽きて(?)宿(殻)を変えるサイクルはけっこう早い。
重要な要素は、人・場所・タイミング・時代背景。使われる本人には、「まったくわけわかめな現象」としてしか映らないが!
話がそれかかったが。
「群盲象を撫でる」という言葉は結構有名だと思う。筆者もだいぶ前、本書内でもその話題で記事を書いた。各宗教や世界各地で色々なバージョンがあるが、私はジャイナ教の説明がいいかな。
●6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっている。
足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。
尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。
鼻を触った盲人は「木の枝のようです」 と答えた。
耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。
腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。
牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。
それを聞いた王は答えた。
「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」
最初話題に挙げた「英語とは~だ」と言う話に関しても。教師の「教育」への考え方の違い例に関しても。「スピリチュアル」に関しても。
今紹介した話に照らし合わせて、考えればスッキリするはずだ。どれも、ある意味すべて正解。でもある意味すべて間違い。
それは、人によるからだ。時代に、場所に、状況によるからだ。
だから、ほとんど趣味の問題でもあり、好きなものを選べばよい。それでいて、他人にも「好きなものを選ばせる」。その自由を認める。
ただし、地球ゲーム独自のローカルルールがあるため、そのル-ルを大きく逸脱する可能性のある選択には、もちろん抑止力をかけてよい。ただ、それだってよく見極めないと間違うことがあるが……
人生とは、~だ!
真理とは、~だ!
宇宙とは、~だ!
皆さん、こういう風に言いきってくれるものがお好きですよね?
だって、楽だから!
でも、それらはほとんどがある面での真理でしかない。
筆者はこの手の表現をかなり読んできたが、「象の異なる部分をさわった」ものがほとんどであると感じた。たまさか「言い当てた」ものでも、高名な覚者の借り物であったり受け売りであったり、言ってる本人が分かって使っているとは文脈から感じられないことも。
そこを潜り抜けたものに巡り会えるかは、もはや運。運という言い方がおキライなら、「運命の出会い」でいいかな。
しかも、単に出会っただけではだめで、あなたが「気付けるかどうか」という問題もある。視界に入っても、大して関心が持てずにスルーするみたいなこと。
文中で、これこそが真理です、と書いている教えがあるなら、ふたつのどちらかの理由で相手にしないで良い。
①分かっていない。カンチガイさんであり、実は気付きの浅いレベルである。
②仮に当たりが書いてあったとして、ストレートにさらすとは配慮がない。世には、様々な段階の人がいるのだから。その人は覚者かもしれないが、人間としてはどうかな??
②かな?っていう心配ならしなくていいよ。安心して。ほとんど見たことねーから。あ、言っておくと②の説明の文中で言った「覚者」の意味は、最近各地で絶賛急増中!の覚者の意味とは違うからね。
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