いえいえそれは可哀想

『かなりや(歌を忘れたカナリヤ)』という日本の古くからの動揺がある。

 私がまだ幼少期。この歌は、怖い歌として記憶された。

 なぜそういう組み合わせになったのかは分からないが、私の思い出の中では、どこかで見てしまった「会社員のお父さん風の男が、道端で倒れて動かない画像(おそらく死んでいる)」と、カナリヤの歌が、なぜかセットなのである。

 私の頭の中では、自分のお父さんが死んで動かなくなっている映像のバックに、この童謡が流れている、という感じで記憶が再生される。

 幼い頃、この記憶がプレイバックしたら、筆者は訳も分からず泣いて、お母さんに抱っこしてもらったような気がする。言葉で説明できなかったはずなので、母は私が何を思いだして泣いていたのかの実際を知ったら、きっとびっくりして気味悪がるだろうと思う。

 私にとってこの童謡は、父の死を連想させるのである。



 幸いにも、現実の我が父はバズーカー砲を撃ち込んでも死ななさそうな、豪放磊落な男だ。私が歳を重ね、幼児から少年になる頃「ああ、このオトンは簡単には死なんわ」と理解でき、この歌を思い出して恐怖におびえることはなくなった。

 今じゃ全く平気で、思い出すと苦笑いが出てくる。



 童謡には、実はもともと「恐ろしい歌詞」であるものが少なくない。

 ここで色々例を挙げて、皆さんを怖がらせるのがこの記事の趣旨ではないので、やめとこう! 特に、日本の童謡はやめとこう! (日本のは、飛びぬけて怖い……)

 外国のならまだマシ、ってことで「マザーグース」を引用してみよう。



●My mother has killed me (お母さんが私を殺した)



 My mother has killed me,

 My father is eating me,

 My brothers and sisters sit under the table,

 Picking up bury them under the cold marble stones



※お母さんが私を殺して

 お父さんが私を食べている

 兄弟たちはテーブルの下で私の骨を拾い

 冷たい大理石の下に埋めたの



 親の言うことを聞かない子供に対するいましめ、として作られた歌。

 でも、言うこと聞かないからって食べなくても……



●There was a man, a very untidy man (一人の男が死んだ)



 There was a man,a very untidy man,

 Whose fingers could no where be found

 to put in his tomb.

 He had rolled his head far underneath the bed:

 He had left his legs and arms lying

 all over the room.



※一人の男が死んだのさ

 すごくだらしの無い男

 頭はごろんとベッドの下に

 手足はバラバラ部屋中に

 ちらかしっぱなしだしっぱなし



 この歌も、片付けをきちんとしない子供へのいましめの意図で作られた。

 でも、どう見てもバラバラ殺人……



 もっと色々あるが、今日の記事の目的は怖い童謡を紹介することではないので、このヘンで。さて、ここでひとつ考えていただきたいことがある。

 どうして、優しい気持ちになるような童謡だけでなく、この手の「怖い童謡」も作られたのか? ひとつ、理由として考えられるのは——



●子供を怖がらせて、しつけするため



 こう言うと、賛否あるだろうなとは思う。でも、私個人としては子育てに「恐れ」を利用するのは決して悪くはない、と考える。

 たとえば、子どもに「絶対にしてほしくないこと」があるとする。

 でも、子どもは面白さや興味本位の遊び心が先に立つ上、「なぜそれがいけないか、場合によってはどんな恐ろしい結果になるか」を想像する力に欠けている。

 優しく言い聞かせ続けても、残念ながら大人ほどの情報とそれに基づくシュミレーション力もないので、きっと自力では怖さを理解できない。かといって、実際を体験さすわけにもいかない。

 じゃあどうするしかないかというと、「怖がらせるのである」。

 火遊びをしてほしくないなら、「火遊びが怖くなるような歌を作る」。

 近くの森は、暗くなってから行くと迷子になったり、狼や熊に襲われる危険もあったりするなら、「夜の森は怖いぞ」という歌にする。子どもが好奇心から気軽に夜の森に行かないためのストッパーである。

 私の小さい頃の話で言うと、夜遅くまで起きていたら 「子取り」(人さらい)がやって来るぞ~と脅された。でも実は、私は親の言う「子取り」を、お空を飛ぶ「小鳥」と勘違いして話を聞いていたので、怖くなくてこのしつけが「全く無意味だった」ことは親には内緒である。

 


 スピリチュアル脳になってしまった人の中には、たとえ目的を達するのに有効であっても「子育てに恐れをつかうのを肯定するとは!」と反発する人もいることだろう。でも、それは「きれいごと」である。

 こどもを死なせず、大人に育て上げるためには、多少「恐れ」の世話になるのは仕方がないとと考える。「怖さ」を教えないで、どうやって車に、道路に飛び込まない子どもに育てることができるのか?


 

●皆さんは恐れを悪者と考えやすいが——

 恐れは、愛と直結している。



 たとえば、私は幼少時に、サラリーマン風の男が道端で倒れて死ぬ絵か映像を見たらしく、それがトラウマのようになっていた。その後、思い出しちゃ泣いていた。

 もちろん、それを思い出すトリガーは、当時よく聞いていたカナリヤの歌だった。

 今から思えば、確かに子ども心に嫌な記憶だったけれど、いいこともあった。

 その怖い記憶のおかげで、こう思えたことも確かである。

 お父さんに、絶対に死んでほしくない。いつまでも、元気でいてほしい——。



 失う恐れを体験したことで、逆にそれが「お父さんを守りたい」という原動力となった。そこから発展して、愛する人や大好きな人を失うというのがどんな気持ちか、嫌だけど分かった。だから、そんなことが起きないように僕が全力で守るんだ! というふうに、幼い私に決心めいたものが宿ったことも事実である。

 恐れがあるからこそ、その恐れを乗り越えよう、という強い気持ちが生まれる。恐れがあるからこそ、何かを失った時の痛みや悲しさを想像し、理解することができる。その理解のおかげで、自分にとって本当に大切なものが何か、に思い至る。



 筆者は小学生の頃、ある大人をからかい半分で傷付けた。

 いつも笑顔で温和な人だったので、その人が怒っている姿など想像できなかった。だから、私は何も怖くなかった。安心して、その人物の悪口を言った。

 すると、ある時点で、相手の顔がめっちゃ歪んだ。初めて見る怖い表情に、私はひるんだ。普段の優しい声からは想像もつかない大きく怖い声が出、私は暴力を振るわれた。平たく言えば、痛い平手打ちをくらった。

 今なら、親や教師やPTAがしゃしゃり出てきて問題になるのだろうが、昭和50年代前半のことで、時代的にまだ大らかだった、先生のビンタとか、当たり前のような時代だった。

 私は、打ちのめされた。怖くて大泣きした。この時ほど大人を恐れた時はない。親でさえ、おしりを叩くくらいはしたがビンタはなかったから。

 でも、私は学習した。こういうことを人に言ったら、人を怒らせる。場合によっては大変なことになる、ということ。他者との距離感をつかむという点で勉強になった。その時の経験が、その後の私の人との向き合い方に大きな影響を与えている。

 


「恐れ」は、決して敵ではないし、この世に要らない要素ではない。無くすべきではない。うまく利用すれば、教育的効果も期待できると同時に「愛」へと直結する。

 なぜなら恐怖は、怖いからこそ大事なものを守ろうとするエネルギーを生じさせてくれるから。

 動物もそうだが、本能的恐怖は命を脅かす脅威から身を守ることの大切さを身に付けさせてくれる。恐怖という言葉にべっとりと付いてしまった良くない「イメージ」のせいで、スピリチュアル住人にはすこぶる評判が悪いのがこの「恐れ」である。

 マザー・テレサは愛の反対語を「無関心」と言ったが、奇跡のコースという教えでは 「恐れ(つまり恐怖)」であると言った。そういう場合もあるかもしれないが、基本的に恐れは愛の敵ではなく、補強さえし得る仲の良い間柄であって、その点で奇跡のコースの理論は甘い。


 イメージばかり先行して嫌われるのが 「恐れ」 の感情であるがー

 その用い方次第では、他を大事にすることを覚えさせてくれ、守ることを決意させてくれる。

 生き物が寿命まで生存し抜くためにも、必須な感情要素なのである。

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