言葉の重み
皆さんは、大正期から昭和期にかけて活躍した俳人・『種田山頭火』を知っているだろうか。筆者がこの人物のことを知ったのは、中学の時国語の教科書に句が紹介されていたからだ。
彼は、私たちが馴染みのある五七五の「定型俳句」ではなく、「自由律俳句」を詠むのが特徴。当時のチューボーにすぎない私の感性では、「こ、こんなんでええのん? 評価されるのん?」。そう思って、世の中って分からんと首を振った。
こんなの、僕でも書けそうだ。これで有名になって教科書に載るんなら、僕も何か書きゃ売れるだろうか? そんな失礼な考えを、山頭火に対して持ってしまった。
今思うと、非常に失礼した!
中学時代という、人生そのもの関するデータがまだまだ充実していない時期において読んだから、「なんじゃこの当たり前な話」「これで俳句として評価されるのなら、自分も書けそう」という感想になるが、これが中高年になった今になって読むと、その短くある意味そっけない言葉の中に、ある「重み」を見出せる。
山頭火の人生をネットで調べてみたら、かなり波乱万丈の、壮絶な人生だった。
ここに書くとかなりブルーになるので、興味のある方は調べて読んでみてくださいませ。分離した個としての知的生命体の特権を使って「比較」で考えてみると——
●私が山頭火だったら、耐えられたかどうか分からない。
それくらいに、すごい内容だった。確かに人の人生にはすべからく、横並びで比べようもない意義と価値があるとは思うが、そうは言ってもこの人の人生には「壮絶」と言わしめるものがある。
そういう背景が彼にあることを知ってなお句を読むと、その理解が縦にも横にも高さにも、どんどん広がりを見せていく。
●うしろすがたのしぐれてゆくか
●どうしようもない私が歩いている
●まっすぐな道でさみしい
●風の中おのれを責めつつ歩む
子どもの頃なら、「……だから、なに?」と言ってしまいそうな内容だが、今読むと色々な情景が浮かび上がってきて、自分の内側から何かが呼び覚まされるきっかけとなり、胸を打つ。
言葉それ自体が素晴らしいという話ではなく、たったこれだけの言葉で人の心に何かを想起させるのが、巧みすぎるのだ。
これが誰にでもできるなん、てとんでもない。まさに山頭火の旅人生ならでは。その中からしか生まれ得ない言葉たちであった。
ちなみに、筆者が個人的に一番気に入っているがこれだったのが……
●咳をしてもひとり
間違いなく、私が中学生の時の教科書ではこの句を山頭火の作としていた。
私も、長年そう思ってきた。でも実際は、尾崎放哉という人物の句らしい。
山頭火がこの句を知って共感し、自分もそれに応えるような返句を詠んでいるから、厳密には無関係ではない。どちらかというと、有名なのは尾崎よりも山頭火のほうなので、どこかで間違って山頭火の作品とされてしまったのかもしれない。
私が一番好きな句が、実は山頭火の純粋な著作ではなかった、という皮肉。
人生とは、実にミステリアス。この調子だと、今までこれが当たり前と思ってきたけど、これは実は違う! ということが他にもボロボロありそうな予感。
咳をしてもひとり——
音にしてたった9文字。
それだけなのに、私にはその咳をする人物の居るであろう空間、そしてそこの静寂がありありと浮かんでくる。そして、咳がそのうつろな空間に鈍く響き渡る様。その音のか弱いエネルギーが、だんだんに空間に吸収され、消えていく様子。音に消えられ、それでも一人そこにただ居続ける作者の胸の内——。
もちろん、私は山頭火ではないので、あくまでも自分の体験や感覚に準拠する想像に過ぎない。でも彼の句は、書くことを仕事とする私に、言葉の重み、そして大切さを伝えてくれる。
筆者は、とにかく言葉が多い。
そう言うと、愛ある読者様はそのことを逆に褒めてくれたりする。それは、とてもありがたく、励みになる。
でも、いかに私が言葉多いことがその持ち味でも、「一言の重み」は知っていたいのだ。それを、沢山の言葉という木の葉に埋もれさせ、薄め誤魔化してはならない。
言葉の多いことが「短所のカバー」として用いられるのではなく、
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