外側 vs 内側
えっと、まずそもそも内側と外側という区別自体が幻想、という役に立たない究極視座の話にすると、地では何の役にも立たないので、却下。人間の作った認識定義に過ぎない、という考えもこの世界で生活しないといけない我々には無意味。
なので、今回の話はおとなしく「外側(物質・現象界)と内側(心・精神界)」というのがあるという地の流儀に従って、お話を展開することにする。
色んなスピリチュアルの先生が大事と認めている、ある内容がある。これは、スピリチュアルに生きることで得られることが期待される効果のひとつのようである。
●外側のことに、内側が影響されなくなる。
外界で起きることが、人間の心を左右しないということである。
よくイメージされるのは、たとえばある人にとって辛い状況、悲しい出来事、不都合な展開などが現象として起きたとしても、その人の心の中の信念は変わらない。平安は変わらない、という状況。
体の自由は奪えても、心の自由は奪えない、という格好いいセリフも世にはある。例えば小公女セーラやおしんのような「逆境に負けない心」というのが、分かりやすいか。
人間は、油断するとすぐに外側で起きることに影響・左右される。嫌なことが起きたら、心がブルーになる。車に乗っていて警察に交通違反で捕まったその日は、かなり頑張ってもなかなか心からハッピーになりにくい。逆に、とてもいいことが起きたら、努力などしなくても自然と心が浮き立つ。
古今東西の宗教やスピリチュアルは、そんな「外側に左右されやすい心」を未熟な状態・成長の余地のある状態として、様々なメソッドを通じて「不動心(簡単には左右されない・ぶれない精神)」へと成長、完成させようと努力してきた。
そこで今回のテーマ。『外側に影響されない内側』など作れるのか? 実際になれるのか? ということへの筆者の回答だが——
●不可能。
……まず、それが今日の結論である。順を追って説明してみよう。
たとえば、あなたが芸能人を目指す! と言って家を飛び出したとしよう。原因は、両親の理解を得られなかったからである。
現実を見ろとか、手堅く生きろとか、お前には無理とか、夢を壊すようなことばかり言われた。生半可な決意でそう言ったのではないあなたは、ならば応援してもらわなくていい、自分の力で生きて、夢をかなえてやる! この分からず屋! と言って家出をしたのだ。
確かに、この時間軸だけのことで言えば、あなたの内側は「両親の反対」という外側の現象には、左右されなかったと言える。
しかし。東京に単身出て来たあなたは、生活がなかなか軌道に乗らない。チャンスも、なかなかつかめない。
どちらかというと、夢よりも生活を維持するためのとりあえずの仕事に割くエネルギーのほうが大きくなりがち。そんなあなたの居場所をどう突き止めたのか、両親からの仕送りが届いた。お金だけでなく野菜とか、日持ちのする食糧までも段ボールで届く。
手紙もついていて、それを読むと「ああは言われたけど、父ちゃんも母ちゃんもやっぱり心配してくれてるんだ……」と、親心が心にしみたあなたは涙する。
手紙の末尾には、「辛かったらいつでも帰っておいで」と結ばれていた。
親心は嬉しい、愛されていることが分かって、感謝があふれてくる。
でも、あなたは帰らない。夢をつかむまでは。やっぱりそこは変わらない。
さて、この場合。確かにあなたは「外側(親からの温かい心配)に内側が影響されなかった(でも結果、親の言葉に甘えて家に帰ろうかとはならなかった)」とは言える。しかし、それは正確ではなかろう。
●実は、あなたの心は大きく影響を受けている。
ものすごく、その時々で外界の影響で変化をしている。
ただ、「夢をあきらめたかどうか」というものすごく大枠な基準で、「最終判断が変わっていない」というだけの話である。なので、「外側に内側が影響されない」という日本語表現は、思いきっり適切ではない。
「不動心」など、本当にはない。あると思えるだけである。
大枠で選ぶことが結果として変わらないことだけをもって、「外側に影響されてない」と言ってしまっているだけである。その内情は、めちゃめちゃ影響されている。ただ、なんとかそれまで継続してきた結論に踏みとどまっているだけのことである。
だから、スピリチュアル実践者が何か勘違いして「外側に絶対に影響されない無敵の不動心」なるものをイメージして、得ようと頑張るとすれば、めっちゃ誤ったイメージだということ。
●ヒトの外側と内側(肉体と精神・有形と無形)を隔てているのは、めっちゃ薄くて、通気口としての穴が無数に空いている、風通しの良い膜状のもの。常に、双方のエリアであらゆる要素が行き来している。
それが、我々の世界の時間の流れの中で、常に起きていることである。
人間の「白か黒か」という単純かつ二者択一的な認識判断が、「左右された、されない」という浅い次元で心の世界を捉えているばかりである。
どんなにすごい覚者でも、お解脱あそばして消えてしまってないなら、常に外界の影響を受けている。他人と会話したらその影響を間違いなく受けている。
人は、どんな精神レベルにあろうと関係なく、外界で起きることの影響は免れない。もちろん、要らぬ他人のお節介的意見や、「どうせ無理」などのネガティブな感情にいちいち左右されない強い心を持とうとすること、そのために自分を磨くことは素晴らしい。
ただ、変に「絶対に揺れない」とか「外側で起きることになんかビクともしない」なんていうイメージで気張るのはやめて、リラックスしてほしいと思うのである。
どだい、無理なんだから。
筆者はかつて、小説を書くのが好きだった。
5年前、自分で書き上げて「これは素晴らしい! 最高の作品だ!」と思ったものがある。(それを勢いでどこかの短編小説の懸賞に送った記憶がある。結果何にも引っかからなかった)
●当時としては、本気でそう思ったのである。
今となっては、いやぁお恥ずかしい限りで……ということろだ。
私も、変化した。「成長」したのだ。
だから、今の時点であなたが 「外で何が起きようが何を言われて干渉されようが、絶対にこの信念は変わらない」と思ったとしても、だ。物事が常に変化するこの世界では、あなたは勝てない。人生途中の今のあなたの「不動心」など、そう大したものではないのだ。
だから、おかしな「りきみ」は捨てよう。何事もブレなければいいというものではない。変えなければエラい、というケースばかりでもない。
ブレることで初めて見えてくるものもある。揺れることで、気付く世界もある。
外側のことに内側が影響されない、とは文字通り捉えるとえらくズレたイメージだ。もちろん生きていく便宜上、短期的スパンで何かの信念や確信を「貫く」のはよい。(夢を叶える、目標達成など)しかし、長期的には変化の波をサーフィンし、外側を敵視せず一緒に「混ざる」のがいい。
(もちろん、自らサーフィンするのと単に波に襲われ呑まれるのとは違う)
ちょっと過去の人物で申し訳ないが、長州小力が「キレてないっすよ! ゼンゼンキレてませんから!」と言う時——
それは、辛うじてキレてないかもしれないが、その一歩手前なのと同じである!
(実はキレてるかもしれない、ということころが笑いを誘う)
もーこうなったらどっちでもいいじゃん、という感じ。スピリチュアル的に向上したら、外側に内側が左右されない、というのは実に一面的な評価のバロメーターにすぎない。本当の向上とは、一口に言えないが多分次のようなことだと思う。
●影響されないのが強いのではない。
それでは、「必要な影響」まで逃してしまう。
下手をすると、場合によっては「外側の影響を受けない」ように気を付けることは頑迷さに転じることがあり、また弱さになる可能性もある。
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