またつまらぬものを斬ってしまった
国民的人気アニメ・ルパン三世名物のひとつと言えば、石川五ェ門の名ゼリフ——
●『またつまらぬものを斬ってしまった……』
これである。
笑いを誘うこのセリフ、突き詰めればどういう心情から出る言葉だろうか?
文字通りに考えたら、斬鉄剣という刀は素晴らしい刀なので、それを振るう対象である「斬る何か」も、相応に価値あるもの・斬る値打ちのあるものでないといけない。間違っても、敵のズボンやパンツなんかであってはならない。
それなのに、斬鉄剣で「斬るに値しない」と五エ門が思うものを、斬らねばならくなる状況が皮肉にも生まれ、仕方なくその「つまらないもの」を斬る。
そういう目に遭う自分への「自嘲」的な言葉だと思われる。
でも、この「自嘲」は、決して悪いものではない。
思うに、五ェ門はこの瞬間少なからず「幸せ」なのだと思う。もちろん、本人がそれに自覚的かどうかは別として、だが。
個々人で、その人なりのアイデンティティというものがある。平たく言えば、「自分自身をどう思えるか。何者と考えているか」である。
五ェ門には、彼なりの「武士道」「侍(サムライ)道」 というものがあるのだろう。自分の行動の規範、価値判断の基準・そして拠り所。そこからズレるということは、自分らしさを失う、ということになる。
しかし、エゴ(自我・主観)が決めつけた自分らしさ、って何だろう?
もちろん、それで生きるしかない我々は、自我をそう悪く言ってもしょうがない。でも、それは完璧に正味の「自分」を捉えきっているとは言い難い。
人というものは、人生を終える瞬間まで「完璧になることのない自分像への肉薄」をする。そういうことで言えば、30歳になろうが40歳になろうが「自分というものの絶対像」などつかんでいないのである。常に、バージョンアップの余地を残すものだ。
60代になっても70代になっても新たな体験を死ぬまで味わい続けて、最後まで更新し続けていく。
五ェ門なりの生きる上での信条・美学。そういったものも、彼の自我が認めるものに過ぎない。
ゆえに、五ェ門がその時々の自身の価値観で「つまらぬものを斬った」と思っても、時折どこかで「そうは思っていない自分」「まんざらでもない自分」を発見しているのだ。
●つまらないものを斬ったと言いながら、実はどこかでは愉快な部分もあるのだ。
「笑い」とは、どうして生まれるか?
それは、単純には「落差」である。
ある基準をまず提示する。その後で、それとはズレたものを見せる。そのふたつの事象の間に、差があればあるほど、笑いも大きくなる。低いところから物が落ちるより、より高いところから落ちたほうが衝撃が強いからである。
五ェ門の場合も、自分の「こうあるべき」という基準と、実際にやっていること(つまらないものを斬る)との落差のゆえに、実はそこに「愉快さ」が生じているのである。
もちろん、それが文字通り不快な経験に終わることも多い。でも——
●そのあなたが考える「あなたらしさとはズレる違う行為」をしても、それが結果誰かのためになることなら、あなたはそこに「面白さ」を感じるのである。
何だかな、とは思いながらどこかで愉快痛快だったりするのだ。そういう体験も、生きる醍醐味のひとつである。
そういう不思議な感情を重ねて、「自分らしさとは」という定義が更新されていく。で、いつのまにやらその昔「あり得ない」と思っていたものが、ある時当たり前に昇格していたり。
だから、人生は面白い。
ルパン三世を見ていて、「またつまらぬものを斬ってしまった——」と言った時の石川五エ門の口元が、「笑っているように見える」時もある。彼も、実はどこかで自分の「落差」を面白がっているのかもしれない。
だから私たちも、楽しもうではないか。
人のために、誰かの笑顔のために。あなたなりに決めた「自分」の範囲の殻を突き破る時。らしくない、振る舞いを思いきる時。
そこに、笑いが生まれる。そして、幸せが生まれる。
それを体験した時、あなたは「らしくない行動は無益」だと二度と思わないだろう。あなたの決める「らしさ」など、とっさの本心の知恵には及ばないのだ。
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