対機説法

【対機説法】


 仏陀は、インドで生まれ菩提樹の下で成道してから、さまざまな人に応じて説法をした。

 しかしそれら衆生 (大衆個々人) の性格や気質はそれぞれ異なる。

 そのために各人に合わせて教えを種種雑多に説いた。

 それぞれの精神能力に応じた内容、表現を使い分けた。

 これを対機説法たいきせっぽう臨機応変りんきおうへんという。



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 他者に何かを説くという場合、この手法が最も優れていると言える。

 これは、文章化するより「目の前に人がいる場合」に話し言葉で語るほうが使いやすく、文章を読ませるより効果的である。

 文章で無理にこれをしようとすると、読み手が幼いと混乱する。なぜなら、比較すればまったく正反対と思われる内容を、同じ人物の口から聞く場合があるからだ。

 たとえば、イエス・キリストという人物を例にとって考えてみよう。



●イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」



【マルコによる福音書 11章22~24節】



 信仰は奇跡を起こす、という話になっているが、現代風にすると「思考(意識)は現実化する」である。どっかで聞いたような……? ってもろ「引き寄せの法則」そのものである。

 そのことは、「祈り求めるもの(心から願うこと)はすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」という一文からも明らかである。

 ホラ、見ろ! イエス・キリストだって引き寄せ(意識の現実化。つまり、起きることを変えられる。支配できる)を認めているじゃないか! と言いたい人も出てくるだろうが、まぁ待て。

 別のところでイエスは、次のようなことも言っている。



●しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。

 天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 (中略)

 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。

 髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。

 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。

 それ以上のことは、悪い者から出るのである。



【マタイによる福音書 5章34~37節より抜粋】



「誓う」とは何か。

 人に対して、あることの実行を固く約束すること。

 また、自分の心中で固く決意する。誓約する。(今だけではなく、未来のこともその誓いの範疇に含まれる)まぁ、そういったことである。

 言い換えれば、まだ起こってもいない未来に対して「絶対こうします、こうなります」と保証しているようなものである。そういうのを「安請け合い」と筆者なら呼ぶ。

 ミスチルではないが、『Tomorrow never knows』なのがこの世界。

 イエスは、髪の毛一本さえ自分の力で黒くも白くもできない人間風情が、まだ起こってもいない、あらゆる可能性を含んだ未来に対して「絶対こうすると約束する」ことを出過ぎたマネだと言い切ったのである。

 これは、「私は将来豊かになる!」「人生で素敵なことが起きる!」などとアファーメーション(宣言)し、もうすでに得られたと信じることを支持しているとは思えない内容である。むしろそれを『傲慢』というニュアンスすら漂わせている。

 イエスは、最初に紹介した聖句では願いが叶うと心から信じることを奨励していたのに、ここでは「そんなこと思い通りにコントロールできないのだから、出過ぎたマネ」と、反対のことを言っている。



●イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子(イエス)は、父(神)のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。(中略)

 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。

 わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」



【ヨハネによる福音書 5章19~20、30節】



 これなども、さっきと同じ論調だ。

 特に、「わたしは自分では何もできない」という言葉に注目。

 イエスはここでは、「人間が意識次第で何でもできる、と勘違いしている傲慢性」 に警鐘を鳴らす内容を語っている。読みようによっては、宇宙シナリオ(起きること)はすべて決まっているかのような記述だ。父のなさること(与えられた人生の脚本)通りでなければ、自分からは何事もできない(自分の意志で何かしているつもりでも、結局すべてシナリオ通り)とも読める。



 さて、材料が出そろったところで、なぜイエスの説教(とされている内容)において、このような相反する内容(意識次第で奇跡は起こせる・あなたは自分では何もできないし変えられない)が同時に含まれているのだろうか?



●イエスは、「対機説法」しかしていないからである。



 聖書の記事を書いたのは、イエス本人ではなく他人である。

 本人は、まさか自分の言葉が集められてまとまった文章にされる(本になる)とは考えなかった。ゆえに、色々な人に合わせてその都度説教していた内容がいっしょくたにされ、結果一見矛盾する内容が同居することとなったのである。

「淫らな目で女性を見る者は、すでに姦淫したのである。そんなことをする手は切り落とせ。そんなことをする目はえぐって捨てろ」という話と、「姦淫の現場で捕えられた女性が責められているのを、この中で罪のある者から石を投げろ、と言って優しく助ける」という話も同居し、どっちもイエスの行動として伝えられている。



 思うに、「信じれば山でも動く というイエスの説教は、あまりにも自信を失っていて、自分では何もできない、くらいに思いこんでいる人を目の前にして、彼を助けるために言った言葉ではないだろうか。

 逆に「誓うな(まだ起きてもいないことで絶対こうなる、などと軽々しく言うな)」は、引き寄せの指導者みたく「私ってすごいんです! また、こんなものを引き寄せちゃいましたぁ! もう、快進撃が止まりません! 皆さんも、私みたくされたらいかがですかぁ?」 みたいに調子に乗り過ぎている人や自信過剰な人に対して「どうどう」と落ち着かせるためにした説教なのではないか。

 つまり、相手の精神状態や成長段階に応じて、たとえ正反対のことでも言ってのけたと思われる。イエスには「絶対こう」という理屈はなく、運命決定論であろうが意識次第ですべてが可能だろうが、武器のように使い分けたと思われる。



 スピリチュアルにおいて、本や不特定多数に語る講演会の内容では、ある程度の主旨一貫性がないと聞く者が混乱するので、親切さを考えれば気を付ける必要がある。

 しかし対個人では、もうそれこそ自由に、その人に役立つとあれば槍でも鉄砲でも持ってこい、である。大事なのはこちらが「正しいこと」を伝えることにあるのではなく、どんな手段を使おうが「その人の考え方の極端さを是正し、バランスを取ってあげる」ことに成功するなら、それが一番大事だということ。

 それができないで、やれ内容の正しさだの一貫性だのにこだわっていたら、本末転倒である。



 筆者は、本書の内容はほとんどが対機説法になっていると思っている。

 だから、読者によっては日によっては記事を比較して「あれっ」と思われる内容もあると思う。それは日々、筆者の目の前に想定されている記事の対象人物像が違うからである。

 あなたにとって「今日の記事は合わない、要らない」と思われたら、捨て置いていい。逆に「今日の記事は私のためかも?」と思えるなら、それにはよく耳を傾けたらいい。

 この文章を読んでいるあなたが筆者の目の前にいるならそれが一番いいが、そうもいかない。とはいえ、不特定多数に発信するのは、ある意味対機説法より難しい。

 でも、手探りながらも、今日も何かの記事を書き続けるのが筆者のライフワークなのである。

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