思いやりの世界

 昔昔、筆者がまだ障がい者福祉施設の職員として働いていた頃。

 詳しくは言えないが、さる民間団体とコラボで、地域のイベントに携わったことがあった。もちろん、障がいをもつ皆さんに、地域との交流のチャンスを広げたい狙いがあってのことである。

 ただ、民間団体さんも善意で気持ちよくやってくれているのだが、いかんせん障がいをお持ちの方に接するノウハウがない。一般には良くても、彼らには通じない冗談もある。一応ウチは成人年齢の障がい者だけの施設だったのだが、見た目が幼い方も多いので、どうしても子どもに対応しているような感じにもなって、民間団体の方のせっかくの善意も何だか空回りみたな場面も多かった。

 交流事前に、軽く障がい福祉の理解のための研修でも開いて来ていただけていたら、少しは違ったのかもしれない。でもスケジュール的にそれも叶わず、で。



 イベントが終了し、片付けその他が終わって、ささやかな打ち上げみたいな場があった。そこで、私たち施設の職員と民間団体の職員さんで、労をねぎらい合った。さすがにアルコールはダメなので、ジュース片手に乾杯をした。

 別れ際に、お互いに握手を交わし「また是非ご一緒しましょう!」「またよろしく」と挨拶して、外目には和やかな雰囲気の中、手を振って別れを告げた。

 で、私たち施設の職員だけになった時に、ある同僚がポツリと一言。



「是非また、って言ったけど、やっぱ次はないよな……」



 他の皆も、同様のことは感じたようで、所々で「そうだよな……」という声が上がっていた。

 もちろん、今回のことを踏まえて色々改善すれば、次に繋げられると言えばそうだろう。でも、それは「きれいごと」である。

 確かに、向こうの「悪気ない対応のまずさ」くらいは、伝え合いでなんとかなる。でも、それ以上に決定的だったのが「イベント自体がたいして面白くなかった」という点。

 イベントの主導権は民間団体の方が取り、私たち施設の人間はそこにいかにして障がい者の方々に関わってもらうかのコーディネートに腐心した。こちらも、企画そのものに一枚噛めていたら、と思ったが後の祭り。

 とにもかくにも、次頑張ろうという思いよりも「もうあの人たちとはいい」というのが、申し訳ないが素直な思いであった。



 今のは筆者自身の体験であるが、皆さんにも大なり小なり似たことは起きないだろうか?

 仕事上でも、友達付き合いでも「またよろしくね」とか「今度またご一緒しましょう」とか言うが、それは文字通りの意味ではないことがある。心の奥底では「もう会うこともない」と思っているのにも関わらず、である。

 そういうのを、一般に「社交辞令」と呼ぶ。

「また、うちに遊びに来てくださいな」子どもの親同士でそんなことも言うことがあるが、時として空気を察しない人が本当に行って、地雷を踏むこともある。遊びに来てほしくなくとも、そのように言うものなのである。

 このあたり、外国人には文化的に理解しにくいかもしれない。特に京都の「上がってお茶漬けでもどうぞ」と言われたら、それはもう帰ってくれの意味だというのは、かなり有名な話である。



 本心はちょっと違うのに、でも社会生活を円滑にするために口にするのが良いとされる言葉を使うということ。そんなもの大嫌い、という人は多いだろう。

 特に、スピリチュアルの世界なんかでは嫌われそうだ。やっぱり素直が一番、ホンネを言えることが一番いい、という話にしかならないだろうから。

 筆者は、社交辞令も思いやりの一形態だ、と思って否定はしないスタンスだ。

 もちろんそれも、使い方を一歩間違えば、他者を傷付けたり自分が傷付いたり、ということはある。そういう点では、社交辞令そのものが全部良いものだ、とはとても言えない。

 この世界には、社交辞令を無難に使いこなすレベルの精神的達人が少ない。

 使い方がヘタなせいで、物事がうまくいくより傷付く割合の方が目立つこともあり、社交辞令は人気がない。悪者のように言われることも多くなった。

 でもこれは、名刀や高級包丁と同じで、下手に使うならケガをしやすいが、上手く使うなら互いに益をもたらす味方なのだ。だって、社交辞令だってもともとは「思いやり」を母として生まれてきたものだから。



 筆者がかつて、二度と一緒に仕事はごめんだ、と思った相手に「またよろしく」とか「楽しかったです」とか言ったのは、確かに社交辞令だ。しかし、これは何ら問題ないことだと思うし、さらに言えば「私はいいことを言った」と今では思っているくらいだ。

 もちろん、これからもずっと継続して関わっていく相手なら、ホンネの付き合いがいいに決まっている。なぜなら、こちらもこれからの時間の中で、相手に言う言葉に責任が持てるからである。

 しかし、もう最後の相手なら、こちらがあえて波風立てず気持ちよく別れたほうがいい。それも、思いやりのひとつである。言っていることが正しくても、その後責任を持てない「言い逃げ」なら、無責任はこっちである。言い逃げになるくらいなら、下手に何か言わないのがよい。

 たとえこちらが指摘しなくても、そのことが的外れでないなら、他の誰かも同じことを感じるはずだ。その誰か、別れて二度と会わないだろうその人がこれからも関係を持っていくであろうその人に任せればいい。だって、その人は付き合い続けていくのであるから、指摘に責任が持てる。



 筆者は少なくとも個人的に、そういうスタイルである。ちょっと縁があっただけでもう会わないような関係なら、多少相手に関して何か思っても全部言わない。社交辞令で、気持ちよく場を過ごして別れる。 

 しかし、継続して関わることになりそうな相手や、仕事であれ交友関係であれ長期間のパートナーとなりそうな人物になら、できるだけホンネを言い合えるような関係の構築を図ろうとする。

 ただし、筆者がその例外と定めるのが「個人セッション」。これは二度と会えなかろうが、全力でものを言う。もうひとつの例外は、たとえ会うことはなくても、強い影響力を持って何か言う「有名人」。これは、人を惑わす恐れのある下手な物言いに関して、個人的関係などなくとも遠慮なく糾弾する。



 皆さんは、洋画で『コーラスライン』という映画を見たことがあるだろうか。

 ブロードウェイの劇場で、コーラスラインのオーディションに参加するダンサーたちを描いた古い名画。

 主人公は、マイケル・ダグラス演じる鬼プロデューサー。

 何百人の若者がオーディションを受けに来るが、どんどん落とされていく。最後に残った17人の中から、8名だけが選ばれる。

 その17人のしのぎの削りあいが凄い。こここそが映画の見どころである。

 で、ネタバレになってしまうがごめんなさい。鬼プロデューサーは、最後の最後に最終選考の結果を発表していく。彼は、「今から呼ぶ者は一歩前へ出ろ」と指示し、一人ひとり名前を読み上げる。

 映画を見る者は、名前を呼ばれた者が合格者だと普通思う。でも、意外な一言が最後に待っていた。



 ……以上の者、お疲れだった



 ここで言う「お疲れ」とは、不合格だから帰っていいよ、という意味である。

 つまりは、合格者の名前を呼んだのではなく、不合格者の名前を呼んだのだ。

 なんで? である。

 大変に、リスクの大きい行動である。合格と思わせといて一瞬で突き落とすのだ。そりゃ、ショックというか、精神的ダメージを受ける者も出るだろう。

 でも私は、ここに究極の「社交辞令という名の思いやり」を見た思いがする。



 鬼プロデューサーは、予選の段階ではホイホイ落とせた。

 甘えている者や勘違いさん、技術のお粗末さで論外な者。そんなものはどうでもいい。しかし、最後に残った17名は本当に「接戦」だった。

 一人ひとり、ダンスに懸ける思いを語らせることで、プロデューサーも彼(彼女)らの一人ひとりと、人生を共有してしまった。この中から半分を落とさないといけない義務は、鬼と言われたプロデューサーですら、辛い決断となったに違いない。

 彼があえて不合格者の名前を呼んだのは、彼ら一人ひとりを忘れないようにしたかったのではないか、と思う。使ってはやれないが、お前たちは本物のダンサーだ。落とした責任として、オレはお前たちというダンサーが確かにいたことを、決して忘れない——。



 この場合、すぐに真相がバレちゃうので「社交辞令」とは言いにくいだろう。

 でも、「思いやりのある社交辞令」に通じるスピリットがそこにはある。

 鬼プロデューサーは、ゆるされるなら落とした9人とも仕事がしたかったのでは、と私は感じた。だから実際にはお別れでも「お前たちとも組みたい気持ちは本当だ」ということが伝えたかったと思う。

 ある意味、どうしても人数を絞らないといけない立場でできた「合格宣言」だったのではないか?

 去りゆく敗者への思いやり。でも君たちは本当の敗者、ではない。戦いには負けたが、それでも君たちは自らの価値を十二分に発揮したことを認める——。



 心にないことを口にする。その手法は、確かに失敗が起きた時のリスクが大きい。でも、それはそれで、大事な場面もある。それで物事が円滑に進むこともあり、人が無駄に傷付く機会を減らすことにも役立つ。

 くれぐれも言うが、責任を持てないなら、たとえホンネでも正しくても、下手にネガティブな内容を人にぶつけないほうがいい。素直さや率直さも、使い方を誤れば凶器になる。

 なんでもかんでもホンネ、というのもまた行き過ぎである。

 この世界において潔癖すぎるスピリチュアルなどは、せっかくの人生の機微や奥ゆかしさを台無しにするので、迷惑なだけである。

 ウソや社交辞令も、TPOによっては全然「有り」なのである。 

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