非二元の議論を終わらせる

 今回はまぁ、雑談程度に考えて読んでください。

 そろそろ、非二元にお金を落とすの、やめません?

 そもそも、非二元とはどういう意味でしょう。

 


●二元に非(あら)ず

 つまり、ふたつではない



 ふたつ(以上の数)がない、ということはひとつで、分離がない。

 分離がないものが分離でないものであるために、そのことが守られるために絶対必要な条件は?



●関係性というものが一切もてないこと。



 関係した瞬間、それとこれ、でハイ『2』の出来上がり!

 残念ながらこの世界では、関係性を持たずして何物も存在することができません。

 たとえば、非二元を表す代表的な言葉として『くう 』という言葉がある。

 空は確かに、自他の分離のないゼロの世界。なのに、それを我々は「空」という名前を付けて呼ぶ。

 そして、空という言葉を聞くと、そこに何らかのイメージを持って思考に登らせることになる。ひどいときには、何らかの無色の「空間」を思い浮かべたり、真っ白で何もないさまを想像してみたり。


 

●空は、「い」とは違う。

 この世界では、「ある」を前提とした「ない」しか考えられない。



 非二元は、ただただ「ない」。

 非二元の世界は「ふたつでない」のだから、自他がそれ自体にあってはいけない。

 さらに言うと、その非二元と何かが「関係を持ててしまってはいけない」。

 だから、非二元を自他(分離)のないワンネス、すなわち「全体性」として議論し、そこと関係が持てる個人がいる(全体性からのメッセージを受け取れる)というのはおかしい。

 覚醒者であろうが、その全体性とやらと関係が持ててしまうなら、その相手は「非二元ではない」ことになる。



 これは筆者だけの持論になるが、百歩譲って我々個の幻想を超えた、すべてを包含する「全体性」というひとつの有機体のようなものがあったとしよう。それ以上に統合できない、一番上の意識の総体があったとしよう。

 でも、それと特定の個人が何らかのやり取りができるなら、それが全体性という大いなる存在だということは認めてもいいが、ただ「非二元」ではなくなる。



 私がこだわるのは、非二元は「ふたつではない」と言いながら、非二元を幻想の個人が関わり合いを持てる対象として話しており、そのメソッドをお金を取って真理かのようにやっているので、文句を言いたくなるのだ。あちらさえ『ふたつでない』存在と定義できたら、あとはそれと人間が関われようが問題がない、というスタンスが気に入らない。



 筆者の言う非二元とは、あちらさえ「ふたつでないひとつ」であればこちらの覚者がジャンジャン交流できる、というものではない。

 アンタッチャブルな、この世界のすべてが絶対に関わりにすらなれない、というところまでの勢いで「ふたつでない」なのだ。ふたつでない非二元を、我々が取り組む対象にした時点で、それはもう非二元ではない。

 全体性からのメッセージなどありえない。なぜなら、それが非二元なら関係自体がこちらの意志で持とうとすることなどできないからだ。また、向こうから干渉してくることもあり得ない。



 確かに、「覚醒体験・一瞥体験」などというものがあることは認める。現に、筆者もそれと思われるものをしたから。

 でもそれは、言葉ではどうしようもないものである。どじょうかうなぎみたいで、つかまえようとすると指の間からスルリと抜けていく。

 非二元とは関係性が持てないはずなのに、どうしてそういう「非二元を垣間見たと思われる現象が起きるのか」。それは謎なので、ただもらったもんはありがたく受け取っておけばいい。足長おじさんの正体をわざわざ追求するようなマネは、ヤボというものだ。

 分からんものは分からんままにしておくことで、己の「分離個体」としての分限をわきまえる。日々、「私」として周囲の人たちと共に生きることを本分として、与えられた時間の果てまで生きる。それでいいじゃないか、と思う。

 もちろん、この世界では自由だし、非二元に構う選択もありだ。だが、このような部分に学問的な「真理」があるなどと思わないほうがいい。

 


 非二元は、確かにある。その言葉が指し示すものはある。

 でも、我々がこの人間ゲームをしている間は、関わりを持つことができない。

 非二元が言うように、我々の正体がそもそもそれ自体なんだけど、「そんな知識が意味のない世界」に、個として存在している。

 ふたつではない世界を、ふたつでしかない世界の住人が扱う。対象化した時点で、もうアウト。

 でも非二元メッセンジャーは言うだろう。「言葉の限界性は分かっている。でも、こうとでも言わねば(対象化して話さねば)伝えようがないのだ」 と。

 あまり、無理しなくていいんじゃないか? あと、その全体性が「愛」とか言うの、恥ずかしいからやめて。それは、こちらの次元側の願望が投影されているだけだけだから。

 そういう、何か限定的性質として定義できてしまう属性を、非二元がもっているのか? じゃあ、その性質を非二元がもつことは、誰が決めたの?

 非二元のさらに上に「設計者がいる?」 全体性を「愛」だとしたやつが。 

「難しいことを考えてはいけません。ただただ、すべてが愛なんです!」という議論に逃げ込む手段もある。でもそれだったら、戦争から殺人から、すべて愛の表れだという話になる。

 この世界がただ「愛じゃない」という事実は間違ってはいないしその通りだが、今そういうことで苦しんでいる個体にこの正論を言い放つのには、差し障りがある。ゆえに、非二元は突き詰めると「救いがない」話になる。



●全体性とやらからのメッセージは存在してもいいが、「非二元」 ではない。

 受け取れる、ということは相手は二元に属する。それを謙虚に認めたほうがいい。

 非二元メッセンジャーの受け取るメッセージは、すべて何らかの霊的存在個体からのものである。

 


 関係性が存在できない非二元を、こちらが関係性をもって語る所に、限界がある。

 非二元を(真剣に求道している筋金入りの探究者でないかぎり)一般人が興味を持ったり分かった気になるのは、お子ちゃまの遊びだと言っておこう。

 お子ちゃまの遊びだと自覚して、それでもいいと思ってやっている分にはいいが、その集団の中で優劣を付けたり、何が真理か何が正しいか、という議論を大真面目にやっていたら滑稽である。

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