本当のところ正解って?

 筆者がまだ、福祉職員として働いていた頃。

 収益の一部が障がい者福祉に役立つということでうちの施設が協力することになり、まったく畑違いの「絵画展示会・即売界」のスタッフをさせられたことがあった。会場の目玉商品はシャガールの絵だが、ケタ違いの値段で一体誰が買うんだ? と思った。

(展示会の期間中にその絵が売れたかどうかは、途中でこの業務から解放された私には分からない)

 客の入りの少ない時間に、警備もかねて絵を見て回った。そこでふと、ある絵の前で足が止まった。それは、女性のうしろ姿を描いた洋画だった。



 それは「リトグラフ」と言われるタイプの絵だった。分かりやすくは、版画である。だから世界にひとつというわけではなく、ロットナンバーが絵についている。

 たとえば、その版画が世の中に60枚あるとしたら、この絵はその60枚あるうちの48番目だ、とかいうことが証明できる鑑定書のようなものがついてくるらしい。

 まるで女性にひと目ぼれするように、私はその絵の前に釘づけになった。

 全然華やかな絵ではなく、むしろ灰色を基調にした、お家の中で普段着で椅子に座っている女性の疲れた風な後ろ姿を描いたものである。人によっては「こんな絵のどこがいいんだ?」と思うだろうが、自分でも説明が付かないが猛烈にこの絵に心惹かれた。



 私があまりにもボーッっとその絵を見続けているので、私のように福祉畑からかり出されたスタッフではない、絵画専門家のスタッフが私に寄ってきた。

「この絵が、気に入られましたか?」

 その男性は、親切にもこと細かにその絵の画家の経歴や、絵が描かれた背景などについて語りだした。

 ごめんなさい、今では絵のタイトルも画家の名前も思いだせない。だから、キーワードでの画像検索でもその絵を探しようがない。一目見たら、分かるんだけどね……

 おとなしく話を聞いていると、そのスタッフは私が絵を買うものと仮定して、一括ではいくら、分割では何十回ローンで月々いくら、という具体的な話を始めてしまった。その絵は、確か一括で買えば68万円したと記憶している。

 まぁ、適当な中古車を買うのと似たような値段なので、ちょっと思い切りが必要な買い物ではある。でも私は、ものすごくその絵が欲しくなった……のだだけれど、結局「買う」までには至らなかった。

 煮え切らないムズかゆい思いを抱えながら、スタッフとしての仕事の期間中、ため息をついてはその絵を眺めるだけで終わった。それっきりその絵のことは忘れていた。やはり当時月給15万円の身には、現実的に辛いお値段だったのだ。



 で、もし今その絵が手に入るなら買うか? と聞かれたら、答えは「ノー」だ。

 あの時は、多分一種の熱病に侵された感じだったと思うのだ。

 恋愛に似ていて、一時はのぼせ上ったように好きになるのに、時間が経って落ち着いてみると「どうしてあんな人を好きになったのだろう?」みたいな。

 68万が今でもつらい値段だから、ということではなく(いや、やっぱり辛いかも)、本当にもう欲しくないのだ。



 人間は、死ぬまで一本の道しか結果として歩けない。

 一冊の本をおしまいまで読むような感じで、そこに結果として「もしも」はない。

 だからこそだろうが、私たちはよく考えてしまう。

「もし、あの時ああしていたら? あれを選んでいたら?」と。

 隣の芝生は青いというが、人は自分が選んだものよりも、もしかしたら選ばなかったもののほうがより良かったのではないか? という妄想に取りつかれることがある。なぜそんなことになるか、というと「既知のものと未知のもの」との差がそうさせるのである。



 人は、分かっているものよりも分かっていないものの方にエネルギー的に引っ張られる。

 分からない、ということは「もしかしたら、今よく分かっているものより良いものかもしれない」と考える余地があり、あなたを誘惑してくる。人間が何でもかんでも「分かろうと頑張ってしまう」のも、「知らないことが気持ち悪い・すわりが悪い」生き物だからである。

 だから筆者も、ちょっとは考える。もし、あの時思い切ってあの絵を買っておいたら? と。そして家に絵がある架空の状況を夢想する。

 お気に入りの、本物の「絵」が家にある。毎日、気が向けばいつでもそれをうっとり眺めることができる。もしかしたら一生の心の友、心の支えとしての存在になっていたかもしれない。

 でもやっぱり、68万もローンを抱えたら(一括で買えるか!)心豊かになるどころかその絵を見るたびに支払いのことが連想されて、苦々しげな気分しかしない……というオチだったかも? とも考える。



 分からないものは、分からないのだ。

 唯一確かなのは、私はあの時気に入った絵を思い切って買わなかったということである。そして今、もうその絵のことは何とも思わない、ということである。

 買ったほうが良かったのか、買わないで良かったのかは、生きているうちにはもう分からない。

 人生で、どうしたらよかったのか? それにいちいち正解などない。

 明らかな、マイナスな失敗に関しては確実に「ああしないほうが絶対によかった」と思えるだろう。

 でも、それすら私たちの矮小なエゴ主観の分析に過ぎず、もっと拡大した宇宙規模視点では、全然違う見通しができる場合もある。

 何が最終どう転ぶかなんて、海外ドラマのように最後までもつれて分からないもの。インスタントに、目先の結果だけを見て「いい悪い」「正解不正解」を論じても、余計に疲れる。



 この宇宙は、永遠の時間のヒマ潰しに、すべての可能性を味わう用意がある。

 あらゆる分離した個は、すべての個としての主観、またその個の選択によって生じた無数の可能性についても、あらゆる平行宇宙次元を使って体験することになる。永遠という時間を舐めてはいけない。

 永遠と言っても、皆さんは単に「終わりが来ないこと。いつまでも時間が続くこと」と思ってるだろうが、ちょっと違う。



●永遠とは、すべてが常に始まり、最中であり、終わりを迎えており——

 同時発生し続けている様を言う。

 ずっと続く、という直線の延長で時間の永遠性を考えるのではなく、ループ (無限に繰り返す)という円環で考える方がよい。



 まぁ、いつかは知らないが、私はきっと「その絵とじっくり付き合っている可能性の次元」も味わえる。だから今は、焦らないで「今でしか味わえない目の前の可能性」を楽しむとしよう。

「もしも」の世界は分からない。その分からないことを、分からないままそっとしておけることもまた、幸せへのひとつの道である。

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