スピリチュアルは商業路線に向かない
福山雅治が、あるトーク番組で次のような話をした。
●デビューした時は売れたいって思っていなかったと思います。
売れるっていうものが(どういうことか)分かってなかった。
途中から売れないと続けられないんだっていうことが分かってきた。
最初は好きなことを好きな風にやった結果、売れたり売れなかったりがあるんだろうなと思ってたんですけど、ある程度ビジネスで成立するようなそこそこの形がないと続けられないんだっていうことを途中から気付いて——
……そのように、メジャーで音楽を続けることについてのシビアさを語った。
つまりは、こういうことだ。
純粋さ、という世界が一方であって。
そこでは、個々人が100%素直に自分の気持ちを出し、表現をする世界。
そうして生れ出てきたモノ。音楽でも文学でも、芸術でもいい。
それらは、他人の目がどうとか、評価がどうとかいう視点からの干渉によって価値が変わることはない。ただただ、自分が満足できているかこそが重要。
そして、この世界は『二元性世界』と呼ぶだけあって、その対極の世界が存在する。それすなわち今述べたのとは逆で——
●あなた以外の無数の個体の、平均的な趣向や要望に沿ったものでないと、価値あるものとは認められない世界。
そもそも、この世界には「思い通りにならない」という苦を、物好きにも味わいに来た。だから、「理想と現実」というギャップのあるふたつものでこの世界ができていることに関しては、もはやあきらめるしない。開き直るしかない。
だから先ほどの話で言うと、福山雅治にも自分なりの、素直さ100%の音楽性というものがあるだろうと思う。
自宅で、防音室でも作るかスタジオを借りるかして、自分が気に入った好きに作曲した曲を歌い、売りもしないしただ自己満足するだけ。これなら、その純粋世界だけで生きられる。
あるいは、売りはするけど、メジャーにならなくてもいいから「自分の100%の表現を好きと言ってくれる、それがいいと言ってくれる一定数のファン」だけを相手にし、利ざやは少ないがある程度ストレスなく、自由奔放に生きる手もある。
だが、世間のメジャーとなると話は別だ。
アーティストの望むと望まないに関わらず、ある法則性の支配する世界で生きることを強制される。それは「パワーバランス」の世界だ。そこでは、あなたの現状での「位置づけ」にふさわしい振る舞いが求められる。それをはみ出すことは許されず、もしそんなことをしたらランク付けが下がるか、もしくはその世界を出て行かなければならなくなる。
「売れないと、メジャーでは続けていけない」という福山のこの一言は、重い。
実は、スピリチュアルという業界も例外ではない。
こいつは、商業路線に乗っけるのには向かない。なぜなら「純粋さ」のほうが大切な度合いが、芸能・芸術より強いからだ。
そもそも、個人の意識上の体験や、そこでその人なりにつかんだ目に見えない精神世界の真理など、他人に何と思われてもいいし売れなどしなくていいからそのまま表現したいというなら、何ら問題はない。
ただそれが、世間の大勢を対象に、好ましく思ってもらいお金を落としてもらおうと思ったら、純粋さそのままではゆるされない。
必ず、他者の意見を受け入れて、修正をする必要に迫られる。あなた一個人の100%ピュアな思いや表現など、世間の要求とピッタリ合うことはまずない。
仮に合ったとしても、それは交通事故のようなもので、偶然である。売れても最初のうちだけで長続きしない。
あるいは、世間の気まぐれである。死後に価値が認められる画家や音楽家なども、彼らの身勝手さと奔放さに翻弄されたのである。
個人だとまた違うが、その個人が集まって作る集団というものは、ひとつの命のようなものを持ってしまう。そしてそれは、「個々人の純粋さの平均値・あるいは偏差値」という怪物を生みだしてしまう。
だから同じ原理で、スピリチュアルという世界ですら、メジャーで金儲けしていこうと思ったらその人物のもつ純粋さだけではやっていけない。正直さだけではやっていけない。
あるい程度、ビジネスマン的素養も必要とされる。それが我慢ならない者は、そもそもスピリチュアルで有名になろうとは望まない。
(本人が望まなくても祭り上げられ、担ぎ上げられるという例外はある)
なぜなら、ある程度の仮面は被らないとやっていけないからである。
スピリチュアルは、いったん商業路線に乗せられてしまうと、一人でも大勢の興味を引くようにするために、大味にされる。マニアック(人のことなど考えず、自分100%を出したもの)なら好む人は好むが、賛否がはっきりしてしまう。それをやり続けていたのでは、メジャーとして売れ続けるには危なっかしい。
とはいえ、売れているスピリチュアル・出回っているベストセラースピリチュアル本に意味がないとまでは言わない。それだって、枝葉末節を除いた骨子の部分では本質を突いた部分があるから。でも、かなりの程度『手術痕 (しゅじゅつこん)』が残ったものになっている。
大味は出せても、その発信者の本当の魅力は、生で会ってみないと分からない。本やブログ、録音物では十分に感じ取れない。
世間において「主観により価値基準の異なる無数の個の集まりが生みだす、流動的平均値が常に望まれるという宿命」には、何者も逆らえない。
宗教的真理・スピリチュアル的真理ですら、この「世間」には勝てない。勝とうと思えば勝てはするが、平均レベル以上の豊かな生活は手に入れられなくなる。
よほどの求道者でもない限り、そこまでして純粋さを貫くことにさほど意味はない。いろいろと犠牲を払ったり、嫌われたりしてまで自分の思いやプライドを守っても一銭の得にもならない。それではメシが食えない。
イエス・キリストも、自身の決して薄めず妥協しない表現でのメッセージでは、世間に通用しなかった。でも、世間に迎合することをよしとせず純粋さにこだわりすぎた彼は、最後は世を惑わす者として処刑された。
で、愚かな民衆は彼の死後、後世になってやんややんやと褒めちぎった。やっぱりあの人正しかったよね、すごかったよねって。
まったくいい加減なものである。個々人ではそうでもないが、集団を形成した時、まったく違う顔形と手足を持った「怪物」が生まれてしまう。だから、集団というのは一歩間違えば怖いものになる。
●だから、ひとりひとりだけを見ていけば、それほど悪い人もいないのに。
ちょっと偏った事情を抱えているという程度で、何とかしようがあるというのに、集団になると、その個々の事情が黙殺される。
そして追い詰められた彼らは、彼ららしくないことを始める。
それが、犯罪である。国家規模では、それが戦争になる。
ある程度の集団で社会を形成するとなると、どうなるか。
たった二人だけの世界ならば、その世界は平和だ。合意も容易。意思疎通も容易。だって、相手が目の前にいるんだから。よっぽど二人の相性が悪くない限り。
まぁ、5人、10人……くらいまでならば、その集団内でうまくやっていくのは比較的難しくはない。
でもそれが、数万人になったら? ひとつの大国の人口のように、億とかになったら? もう、同じ集団を形成するほとんどの人の顔が分からない。その人間性も分からない。
平均値を出すのに、割る数が膨大になればなるほど、一個人の思想信条・趣味の100%の合致からは遠ざかる。その遠ざかったものを、我々は「有名だから」とありがたくお金を払って受け入れているのである。
何を好むかに義務はないので、自分の中とのズレが生じた分の大小で、はやく飽きるかちょっと長続きするかが決まってくる。ただそれだけの話。すべての人にとって絶対的によいもの、などというものは存在しない。
筆者は、というと器用な方ではないし、売れることを念頭に言動を考えるのもイヤなので、今のままでいいやと思っている。いや、もうちょっとオカネは欲しいかも? 現在の自転車操業状態がいつまで続くか分からないが、できるところまでやりたいと思っている。
最近の本当の実感は、「スピリチュアルは商業路線に向かねぇ……」 ということである。もちろん、受け手にとってというよりも発信者にとって。
油断すると、毒されます。ズラされます。
別に「スピリチュアルでお金を大量に儲けてはいけない、有名になり過ぎてはいけない」というのではない。ただ、向かないと申し上げているだけ。商業路線とは相性が悪いですよ、というだけ。
それを狙うなら多少、苦痛を伴う旅路になりますよとは警告しておこう。
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