だってしょうがないじゃない

 生きていると、色々とうまくいかないことはある。

 そのうまくいかない内容が、まともな日常生活が成り立つ範囲でのことなら、何とか我慢する方向になる。それに前向きに取り組もうなどというのは、偉いとほめるよりもそれだけ「恵まれている」という方が正確だ。そういう余分な気力を捻出できるのだから、精神的セレブである。

 成功して本を出したり講演会に忙しく、ある意味望み通りの人生を手にしておられる方は「なんでみんな僕の言ったようにしない(できない)んだろう?」と不思議がってはいけない。皆、あなたみたいにヒマではないのだ!

 あなたよりもっと「健康で文化的な最低限の生活」の維持にかける時間と労力がかかるのだ。無茶を言ってはいけない。



 オレオレ詐欺。迷惑メール。天ぷらを揚げていても遠慮なくやってくる訪問販売に宗教勧誘。

 世界規模で考えたら、民族紛争。テロ。経済格差拡大。教育問題、環境問題。

 皆頑張ってはいるが、なかなか問題はなくならない。

 もちろん、問題(変化)のない世界がイヤで、「問題を味わうため」にこの世界に来た面もあるので、仕方のない側面はある。根絶不可だが、我々の幼い目に「減った」ように見せることくらいならできる。

 そのためには、ひとつ理解しておくべきキーワードがある。

 それは、たった三文字『だって』という言葉である。



 なんで、人を騙して、迷惑かけてまでお金を稼ごうとする人がいるのか。

 それは、(もちろん本人のものの見方が狭いせいもあるが)「だって……」 という思いが根底にある。それが免罪符のようなものになって、多少のことには罪悪感を超えて手を染めることができるようになる。

 この「だって」は、なかなか手ごわい。

 この世界には、次のような叫びが渦巻いている。近年世界(日本)全体の意識が高まっているという輩は、どこを見てそう言っているのか?



●だって、こうでもしなきゃ生きていけないんだ!

 ほかにどうしろって言うんだ。教えてくれよ。

 ……ほら、何も言えないだろ? だったら、放っておいてくれ。

 オレだって生きたいんだ。生きる権利があるんだ。

 そのためには、これをしなきゃいけないんだ——



 勘違いしちゃいけないが、悪人は悪いこと自体が好きなんじゃない。

 ヤクザだって、ケンカが純粋に好きなわけじゃない。四六時中やってない。

 マフィアのボスだって、抗争そのものが好きなわけじゃない。物事がうまくいくなら、メリットがないのにわざわざ好き好んで争い事を作りださない。

 とにかく人殺しと銃乱射が好きという組織があれば、そんなものすぐに潰れる。

 悪人と他者から指さされる人たち、他人を騙したり迷惑をかけてまで生きねばならない立場の人が、心から好きでもないそういう生き方をするのは、意識の奥底に水爆級の『だって』が眠っているのである。

 由緒ある大きな湖の底に眠っている、龍のように。



 この世界では、他人の気持ちは分からないようになっている。

 総理や、国を治める政治のトップといえど、国民ひとりひとりの現状や辛さなど把握していない。

 人間が古来より存在すると考えてきた「神」なら、世界中ひとりひとりのことをしっかり見ていて、面倒を見ていてくれているような気がするが、実際世で起こる悲劇を見てもそんな全知全能で愛の神様は「開店休業中」に近い状態である。まったく頼りにならない。



●この世界の不幸の元凶は、あえて言うと大小無数の「だって」である。

 真の知恵とはこの「だって」を汲み取り、少しでも我がことと感じてみること。

 そこからできる何かがある、ということ。



 現代社会は皆、余裕がなさ過ぎて他人の「だって」など見向きもしない。

 自分のですら聞いてもらえないのに、他人のを聞く余裕もない。

 人間、自分の身に直接降りかかるのでなければ、直接仲の良くない他人にどういう問題があっても動こうとは思わない。損か得かで考え、大して得にならないと判断したら「こっちだって忙しいんだ!」となる。

 おや、やはりここにも「だって」が登場するな。



 人間同士は基本「分かり合えない」。この世界には分離を体験しに来たのであって、分離は文字通り分離である。どっかでちょっとでも繋がっていたら、それはもう分離ではなくなる。

 だから、よくスピリチュアルで「個人同士の意識は奥底で繋がっている」というメッセージがあるが、忘れたほうがいい。そういう甘いメルヘンでは、生き抜いていけない。ゆえに本当の意味で他人を分かってあげることは不可能だが、次のことならできる。



●想像力を働かせて、限界はあってもできるだけ相手の事情と望みを推し量る。

 自分がその立場だったら、やっぱりこうしてほしいだろうなぁ……ということに考えが及ぶようになれば、損得次元で考えていた時よりははるかに、他のために動けやすくなる。フットワークが軽くなる。



 お互いの「だって」に寄り添い、どうやったらその「だって」というモンスターが納得して解放されるか? これを解決することが、この世界で人間がやるべきことなのである。

 それは、スピリチュアルでよく言う「ブロック解除」とか 「浄化」とか「インナーチャイルドの解放」だとか、そんな大仰なものである必要はまったくない。趣味でそういうものの選択はあっていいが、一番やっちゃいけないのは「この方法でしか解放されない」「これが唯一の浄化の道だ」などと、自分の方法こそ一番だと宣伝してしまうことである。

 特別な教育などなくとも、資格などなくとも、誰でもできる。

 ただ唯一の資格があるとしたら、「人間であること」。



 スピリチュアルも、真理や法則を説くだけでなく「こう生きましょう!」って言うだけでなく、ひたすら誰かの「だって」を聞いてあげる、付き合ってあげるだけのものがあってもいいんじゃんないか。

 だってが渦巻くこの世界に、お説教のほうが沢山あっても仕方がない。

 話に耳を傾ける側が、もっと必要なのかもしれない。

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