どっちでも好きな方でよろしいがな!

 スーパーやコンビニ・あるいは駄菓子屋で売られている 『お菓子』。

 その歴史は長く、どれだけの新商品が生まれ、消えていったことか。

 その一方で、ポテチやポッキー・きのこの山など、時代を超えて消えることなく、安定してロングセラーを誇るお菓子もある。

 ちなみに筆者が好きなのは「森永の小枝」「フルタセコイヤチョコレート」「マスヤのおにぎりせんべい」である。別に、皆さんにプレゼントしてくれと催促しているわけではない。



 お菓子で食っていくメーカー側は、それこそ必死で売り上げをあげるべく、日夜必死の工夫している。

 その工夫のひとつに、既製品の「味を変える」ことで売りだすということがある。

 例えて言うと、「ポッキーメロン味」とか、「カールのめんたい味」とか。もともと人気の定番商品に、ちょっと変わった味付けをして期間限定で売ってみたりね。

 その昔、じゃがりこの「たこ焼き味」なるものが売っていたことがあった。

 たこ焼き味が存在したことがあるものとしては、他にも「プリッツ」「カール」「うまい棒」「おっとっと」などがある。探せばもっとあるのだろうが、キリがないのでこのへんで。



 筆者は、人間キャラとしては次のように考えるタイプである。



●たこ焼き味のお菓子をわざわざ食うくらいなら、本物のたこ焼きを食べる方が絶対いい。



 だから、あえてお菓子の何々味を好んで食べる人の気持ちが分からない。

 焼きそば味だろうがカルビ焼き肉味だろうが、所詮お菓子風情が本物に及ぶはずがない。お菓子ならお菓子らしく、「甘く(あるいは塩味で)作ってろ!」と思ってしまう。

 こういうのは、「合理主義」に分類される考えなのだろうか。しかし、筆者の奥さんなどはまったく違う趣向の持ち主である。



●面白いやん。

 本物がええとかそういう次元の話、つまらん。 

 お菓子はお菓子として考えて、割り切って楽しまれへんの?



 恐らく、お菓子好きだけでなく大勢に支持されるのが、こっちの発想だと思う。

 堅苦しく、本物にはかなわないとか言ってたら、な~んも工夫できなくなる。

 お菓子はお菓子として、いろんな味付けバリエーションを、遊び心で楽しむ。

「うわっ、マジたこ焼きの味がするよ!」なんて驚けて、楽しければいい。そういう「ネタ」になれば十分にもとは取れるのであって、決してグルメ評論家張りに本物の味には遠く及ばない、なんて言うのは空気読まないのも甚だしい。野暮ったい。

 筆者は下手をすればそっちの人種に入るので、気を付けたい。



 話をスピリチュアルに転じよう。この幻想世界はなぜ生まれねばならなかったか?

 先ほどまでの話は、その解き明かしのキーポイントとなる。

 つまりあれだ。お菓子の何々味を試してみたくなるのと同じ種類の欲求だ。



●完全な世界という名のお菓子の、「完全じゃない味」ってどんなのかな?

 絶対というお菓子の、「相対味」ってどんなんかいな?

 永遠というお菓子の、「有限味」ってどんなもんじゃらほい?

 ただ在るがままにある、とは違う「諸行無常(万物流転)味」って美味しいかな?



 もちろん、この世界を生み出した何某かの創造意識は、本家(そもそも何も作りださないこと。だって、もともとがただ在るだけで完全なんだもん!)が一番いいと分かっている。

 でも、それだと完璧かもしれないが面白くはない。

 ポッキーが大ヒットして、それを定番商品として売っておけばまずは儲かる。しかし、その安定に安住して、何も挑戦しないのでは、作る側の「職人魂」がすたる。

 そこはコケるリスクも承知で、新しい味を世間に「これどや!」と発表する。その飽くなきチャレンジの成果として、色々な味を出した結果「これは合うわ~」という、定番味をいくつか生むことにも成功する。

 


 我々の生きる世界自体が、そもそも「くう」と呼ばれる本家 (唯一の実在、というかなんもないというただひとつの真実) の、別味付けバージョンなのだ。

 やたら気合の入った宗教やスピリチュアルは、自分の正体が本家だということの名残なのか、やたら悟ろうとする。くうに、一元性に回帰しようと考える。

 それはたとえて言うと「お菓子のすき焼き味なんてニセモノじゃないか。本当のすき焼きを食うほうがいいじゃないか」と言うのに似ている。

 幻想だろうが何だろうが、我々はこの世界に生きている。だから、「~味なんて本物じゃない!」なんてことまぁ言わずに。

 人間キャラとしての自分を受け入れて。ブツブツ言ってもとにかく今この世で生きるしかしょうがないのだから、その~味をあえて、お菓子として楽しみましょうよ。

 本家との比較は、ヤボというものですよ!

 あるコーヒーにこだわる人が、「缶コーヒー」の存在をゆるせなかった。

 でも、親しい友人に飲めと渡されたりして、無視もできず仕方なく口にしているうちに、何だかそれはそれでいけるようになってきた。そこで、真面目な彼は考えた。

 コーヒー好きとして認められないが、それでも缶コーヒーを少しはいけると思うようになった自分を納得させる方法は?



●『缶コーヒー』という名の、コーヒーとは違う種類の飲み物



 そうカテゴライズすることで、割り切った。

 我々も、この変化に翻弄される何でもありの世界にもまれ、嫌気がさすこともある。でも、それはそれ。完全な世界が恋しくなっても、今はこの有限世界に「ハケン」させられている身。空気を読んで、おとなしくちゃんと仕事しよう。

 この世界を幻想と看破し、幻想を超えた本質に迫ろうとするスピリチュアル指向の人も、この世界の幻想どっぷりに、現実をリアルとして、死んだら終わりとしてがむしゃらに生きる人も。どっちがより良いとか正しいとか、別にないんよ。どっちでも好きな方でよろしいがな。

 スピリチュアル側の住人は、自分の方の立場を広めたいみたいだけども。でもやり方がまずいと、それは一般人にとってただの「大きなお世話」になってしまう。



 これからも、筆者は個人的にお菓子の~味を楽しむことはほぼないだろう。だって、それが自分に合ってるから。自然体だから。

 そうして、新しい~味が出たらチャレンジせずにはいられない奥さんを微笑ましく見守りながら、生きる。

 そうやって、どっちの立場も主張しすぎず、自分のしたいふうにできて尊重されることが一番。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る