執着という概念は不要

 悟り系スピリチュアルという分野において余計な概念というか、かえってない方がスッキリするのではないか? と思う概念に「執着」という言葉がある。

 これは、本書の主張に照らせば大変誤った概念である。まず結論から申し上げるが、宇宙に執着なんぞというものはない。

 この世ゲームをしている人間キャラが、ゲームメイクにおいて便宜上考えだした「創作概念」である。言い換えれば目に見えない物理法則というものがあるように、目に見えない「執着」と呼んで指し示すことができる何かがあるわけではない、ということだ。



●執着とは、何かを得られないことの言い訳として人間が考えだした「逃げ道」である。



 そうだよ。執着だったから得られなかったんだ。そもそもこんな動機ではダメだったんだよ! 執着なんだから、そりゃいくら努力したって引き寄せられないよね!

 こんな感じで、「出発点(動機 が執着だった」 という一点をもって、願っても得られない理由に簡単に仕立てあげるのだ。

 皆さんは、スピリチュアルは進化し、現代においてそれは高まり極まれりと考えている。そういう意識で浮かれているような人も多く見かけるが——


 

●筆者に言わせると、今の時代においてさえまだまだである。



 エゴを必要以上に悪く言ってみたり。

 思考を、「使わないほうがいい」と言ってみたり。

 潜在意識を重要視するあまり、明らかに最前線で頑張ってくれている「顕在意識」 をおろそかにしたり。重要度が低いかのように勘違いしたり——。

 今回取り上げている「執着」という概念も、そういった人間のやらかしたトンチンカン間違いのひとつである。



 願望は、願望に過ぎない。

 人間は「倫理・道徳」「善悪」という独自の価値基準を肥大化させてきたので、ともすれば願望にも「良い、悪い」 の基準を当てはめて判定する。

 たとえば「人を助けたい」「世界を良くしたい」「子どもを幸せにしたい」などは願望としては高尚であり、立派なものとされる。こういうのは執着とは言われない。

 しかし「(自分が)儲かりたい」「~が欲しい(自分を含めた複数人の利益にならない、その人だけを満足させる用途)」、というのは、どこからか「自己中心」というラベルが飛来してきて、貼りつく。

 物欲やギャンブルは皆冷やかに見、大義名分が立派なものには正反対のもののように賞賛する。筆者に言わせりゃ、どっちも同じさね。



●願望は、ただ願望。高尚も低俗もない。

 自己中心も、利他主義もない。



 競馬場で、競馬新聞と赤エンピツもって熱心に賭けているおっちゃんを身近に見ますか?

 本当に、本気だ。純粋に、賭けて当てることを楽しんでいる人もいる。

 お金への執着だとか、自分がカネが欲しいだけとか、エゴだとか。セレブなスピリチュアル人はそういうふうに、自分のよく知らない世界のことを見下すんだろうね。

「カイジ」という、映画にもなった賭け事を題材にしたマンガがある。

 もちろん、主人公やその他ギャンブルに染まった人間たちには、褒められない部分もある。しかし、その瞬間瞬間で彼らは「真剣そのもの」だ。むしろ、日々漫然と会社員やっているような人よりも非常に高い次元で戦っている場合もある。

 悪さもしないで、事なかれ主義でぼやっとした毎日を送っている人より、本質を見る生活をしているかもしれない。もちろん、だからと言って「皆ギャンブルをしてワルやってみ~と賢者テラとかいう狂人が言っている」と捉えるのはお子様の発想だ。



 家族に迷惑をかけるとか、そういうのはまたカテゴリーの違う問題だ。

 ギャンブルにお金を注ぎ込んで家族を困らせる、ということをもって「ギャンブルそのものが悪い」という理屈にはならない。なら、刃物は人を傷付ける可能性があるから刃物は全部ダメ、か?

 ただここで示したいのは「ギャンブル(発展して執着)そのものがいけない、と決めつけてそこから先を考えることを放棄している良い子系自己啓発やスピリチュアルの怠慢」である。

 汚いもの、悪いものは神の敵。触れてはいけない、考えたら汚れるから。

 良いことばかり、善なるものばかりで心を埋めて、悪いものが入る余地を無くしなさい! というのが歴史上宗教がやってきた常套手段である。

 しかし、そのやり方はこの幻想世界ゲームの実情に合わない。むしろ下手っぴいなプレイスタイルである、と申し上げる。



 皆さんの感覚では、執着とは「自分のためだけに何かを必死で得ようとする行為」らしい。

 で、その自分のためだけ、というところに一人でも他人が入り、複数の人のためになるなら逆転して「それはよいことだ」となり、執着と言いう汚名から脱することがある。

 それっておかしい。例えば、ある人が自分ためだけに何かを願ったとする。それは確かに「執着」かもしれない。しかし、その人物が願っていたものを手に入れたことで、満足し穏やかになり、その本人の幸せさ加減が周囲にも伝搬するとしたら?

 お母さんが、前から欲しかったものがたまたま特価でセールしている時に出くわしてゲットしたら、大変に気分がいい。それで、今夜のオカズが豪華になったり、旦那や子どもたちも機嫌の良いオカンを好ましく思いこそすれ、「そんな物欲で気分よくなっているのはニセモノだ!」なんてアホなこと言わんですよね?



 あと、執着で問題にされるのが「それを得られないと気が済まない。得られないなどイヤだ」という部分だろう。この世は諸行無常、思い通りにはいかない。だから得られないことだって現実あるのに、得られないことで気持ちの上で納得ができず、結果不幸になっていく。

 そこを危惧するのが、仏教であり引き寄せの法則系の考え方である。

 筆者もこれまで折に触れて言ってきたが、「求めるが、最終的に得られない場合もあることを覚悟し受け入れる」という姿勢を奨励してきた。言葉を変えれば、「得られなくてもよし。得られれば、なおよし」。

 でもそれは真理として、普遍的公式として言ったのではない。ある種の状態にはまり込んでいる人を救い上げるための方便であり、一面の真実でしかない。



●執着のどこが悪い?

 得られないと気が済まない、くらい思うなんて当然だろ。

 それくらい気合が入らないで、モノにできんのか?



 絶対得てやる! 追いかけるものが何かによっては、それくらいの心構えでないと失礼になるものがある。

 プロ野球選手になってもならなくてもいい。世界的に有名な音楽家になってもならなくてもいい——。そんなスマートすぎる、淡白すぎる気持ちで、てっぺん取れるとでも思ってるんですか? それこそ、命がけでしのぎを削り合う世界。うかうかしてたら、やられまっせ。

 はっきりいって、この世界で生き切るのに執着なしでは話にならない。



 数学で、正の数・負の数というのがある。

 たとえば、+35と-35は違う。ゼロを起点にして、35の分ベクトルが正反対であるから。

 しかし、マイナス・プラスをはぎ取って見たら、同じ35である。これを絶対値という。

 私は、願望実現という道において、このプラス(自分だけでなく他人も幸せにする)とかマイナス(単なる物欲、支配欲、自分の欲望を満たすためだけのもの)という符号を取っ払ったほうがシンプルに生きれると思う。成否のカギを握るのは、願望が健全か否かにはない。絶対値(思いの強さ、懸けたエネルギーの総量)がものをいうのである。

 


●自己中心な動機だから、そもそも叶わないとか。

 これは利他的な思いだから、必ず報われるとか。

 そういう発想は、誰の寝言か?

 それが宇宙の絶対の真理だって、誰から聞いた? どこで見て確かめてきた?

 皆に分かるように、見せてくれ!



 宗教が好きそうな「動機の如何により失敗・成功が支配される説」は根拠のないデマだ。良い動機ならすべてうまくいき、そうでないならすべて悪くなるなど単純化も甚だしい。

 最初は神のため、人のためと教会を建てて出発した牧師が、後に信者になった女子高生に手を出して妊娠させた、という事件があった。

 このケースでは、最初の牧師の動機を疑うべきか? 実は最初からそういうのを狙っていたんじゃないか(教会に来る女性信者で好みなのがいたら立場を利用してモノにしてやろうと考えていた)なんてあなた言える?

 それは、あまりにも酷というものだ。出発点は、やはり晴れやかな、あっぱれな気持ちだったんだよ。

「おおかみのクリームシチュー」という絵本がある。

 狼は、子だくさんの羊の一家を見て、うまそうだから食べてやろうと考える。

 そこで、狼は一計を案じた。料理が得意だった狼は、毎日手料理を羊の家の前に置いて行くのだ。そして太って食べ頃になったら、おいしくいただこうというわけ。

 でも、ある夜狼は羊たちに見つかってしまう。どうしても料理を置いていってくれる親切な誰かさんにお礼を言いたくて、待ち構えていたのだ。

 子どもたちになつかれ、親からも深くお礼を言われた狼は喜んでしまい、それ以後ただ皆のために料理を作ることが生きがいとなる。もう、羊を食べることはまったく考えなくなっていた。

 これなども、「最初の動機は悪くても、よいことに転じた例」である。

「俺たちは天使じゃない」という洋画でも、警察に追われて教会に逃げ込んだ泥棒が、神父志望の求道者のふりをしていったん危機を脱する。でもその後、泥棒は本気で神の道を目指すことになる。



●動機がどうだから、執着だから願望がかなわないとか、絶対に良い結果にならないなどということはない。

 ただ、うまくやったかうまくいかなかったかだけのことである。

 そういうシビアな、明らかな世界の話なのに、得られなかった言い訳として「執着だった」とか言いだす。ただ、求め方が足りなかっただけである。



 はっきり言って、世の人が執着と呼ぶ状態があっても、願望実現は可能だ。

 逆に、いくら動機が立派で素晴らしい意義と目的があっても、ダメなときはダメになる。出発点の動機の立派さなど、結果とほぼ関係がない。

 ものを言うのは、善悪関係なく「どれだけ本気か」ということ。

 世の映画やドラマを見ていたら、善側ってだけで最後は勝たせたりする。いくら悪側が優秀で強大な力があっても、何らかの理由を付けて負けさせる。こんな現実離れした話があるか? 

 でも人は、そういった話を好む。そうあってほしい、そうあってくれないと困るという願望が裏にあるのだが。著書でも書いたが、「正しいか間違っているかではなく、本望かどうか」が重要なのだ。



 だから、何かを望む時に執着かどうか、なんて心配して怖がらなくていい。

 素直な気持ちのまま、求めていい。

 絶対ほしかったら、得るまであきらめないぞ!で突き進んでもらっていい。

 執着の手放し、とか面倒なことを考えなくていい。

 あれはね、たまたまそれでうまくいった人だけが言えること。

 当たり前に考えたら、得たいという執着を手放したり「得られなくてもいい」と考えた瞬間に、「死んでも得てやる」という気合の人に負けるのは分かります? そのへんを、スピリチュアルの住人は分かっていない。



 執着、という概念は、この際忘れましょう。

 本気で欲しいか。そしてそれを目指すことは本望か。後悔はないか。

 ないなら、進め。恐れずに。

 そしてこのゲームを生き残り、ハイスコアを目指せ。

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