故郷は現実

 現在ではさほどでもないように思うが、5年ほど前の一時、『非二元』というスピリチュアルジャンルが小さなブームになったことがあった。

 当時、それまではその飛躍しすぎた内容から日の目を見にくかった非二元論が、キワモノとしてではなくきちんとした理論として不特定多数に受け入れられた現象を目の当たりにして、『非二元の時代が来ている!』と胸を熱くした者もいるかもしれない。(結局一過性だったが)

 非二元とは言い換えれば「一元」であり、あなたはあなたではなく他人すらいない。個が無数に存在するこの世界は幻想で、本来分離というものはなく、すべてはひとつ——。そういう究極の教えの意味と価値に気付き、矮小な「自我」に囚われない目覚めを得ることで、幸せになれるとするものである。



 自我消失……自分は本当は人間ではなかった。いや、すべてだった。

 そしてそのすべてとは「1」、慣れ親しんだ用語を使うとワンネス。さらにマニアな求道をすれば、それは1ですらなくもっと大元で 「ゼロ(無)」だと気付く。

 すべてはひとつ、という認識は我々個体が本来「分離がない」という根源的性質を理解する上での方便であって、実際に生活する真の実情からはかけ離れた表現である。本当はゼロ。そのゼロさえ、我々は「何もないこと」と頭では分かるが、本当には分かりっこない。

 分かった瞬間、あなたはこの世ゲームのエントリー権を剥奪される。ギャル曽根が食べ放題のレストランから入店を断られるようなもの。そう考えると、悟ってしまうということは手放しで幸せなこととも言えない。



 筆者は一応「非二元」を広める側の人間に分類されている。

 否定する必要もないのでそのままにしているが、どっちかというと「非二元などどうでもいい」と思っている。あれは、「だから何だ?」という話。

 トリビアの泉と同じで、「へぇ~」を押しまくれて、あとは日常生活に戻れば忘れ、実地ではほとんど役になってくれない……という代物だ。

 まぁ、おおらかになるというか頓着が減るというか打たれ強くなるというか、その程度のメリットはあるだろうが、覚醒なんて有名人にでもなるんでないとデメリットの方が多い。書いたブログやYouTube配信でも大当たりして、乞われてて講演でもする身分にならない限り、自分の経験を固く口を閉ざすはめになる。

 一般人の立場で、非二元の話を家族や友人に言ってみるといい。そして、結果あなたがどういう立場になるのか、観察してみたらいい。

 筆者が最初そうであったように、リアルではめったに話さず匿名のブログでも立ち上げて言いたいことを言うしかない。それが世に受けるかどうかは、この世レベルでは「運」あるいは「ご縁(めぐり合わせ)」であり、究極次元レベルでは「すでに決まっている」。決して引き寄せではない。

 そんなことをあなたがコントロールできると考えるなら、傲慢である。



 非二元論では、「根源回帰」という言葉がたまに使われる。

 我々の正体は、おおいなるひとつであるから、そこに戻ること。

 厳密に戻るとなると人間じゃなくなるので、一瞥ということかな。そこに気付くというか。

 その気付きさえあれば、この浮世荒波をたくましく生き抜くことが多少容易になる。人間は、自分の利益になること以外はしないということを考えた時、人が「非二元に興味がある、学びたい」と考えるということは、それをすることでメリットがあると考えているからである。そのメリットとは、おそらく「幸せになること」であるはずだ。

 または「よりよく生きることができる」。人生の達人になる、というくらいのことだろう。でもがっかりさせるといけないので、このことは言っておこう。



●非二元の解き明かしそのものに、あなたを幸せにする力はない。

 それを知ったから、幸せになるということはない。



 悟ったから、もうその境地に来た以上今後何があっても幸せ。ブレない。

 もしそう言える覚者がいたら、サギである。

 百歩譲って本当だったとして、私ならそんな人と付き合いたくない。あなたの身近にいないから、実感わかないだろうけど——



●本当の愛の体現者、人格者(完璧な人)がいたら、心地よいどころではない。

 高確率であなたはイラつく。一緒に暮らすと、息がつまる。

 最後には、殺意すら覚えるだろう。



 歴史上、偉大な精神的指導者や英雄は、最後に他者に殺されるという結末が多い。たとえ最後は他殺ではなくても、誰かに悪意を持たれ、貶められるという経験をすることも多い。

 イエス・キリストが殺されたのも、イエスに絶対に非がないとしておきたい人は「俗人のねたみ、そねみ」「無知や誤解からくる愚かな選択」のせいだとしたがるが、やっぱり一部の人には「本当にうっとおしかったんだろうと思う」。

『白川の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき』

 こういう川柳が江戸時代に生まれた。我々は、魚が水の中に生きるのが自然なように「両極ではない、その間のグレーゾーン」に生きることが自然なようにできている。極端にクリーンを目指すと、そんなあなたを理解してくれる人、応援してくれる人はいいが、そんな必要を感じない人々の目には奇異に映り、その言動がいちいち「俗に生きる自分たちへの当てつけ」みたいで癇に障る。

 そうして殺された聖人もいる。本人に悪気はないが、純粋すぎて知恵不足であった。(※そういう意味では、マザー・テレサは稀有な例外である)

 もちろん、「生命を維持すること・自分にとって快な状態を保つこと」に執着することを突き抜けた魂には、周囲がどうで何を仕掛けてこようがどうでもいいことかもしれない。でも、私はそうはなりたくない。

 生きていたいし、命がどうでもいいことはない。



  アメコミヒーロが主人公の「バットマン」という映画の中では、「命が惜しくない、という境地は強さに思われているが、実は弱さ」であるというメッセージが込められた内容があった。筆者はそれにまったく同感である。

 生きたい、死にたくないをはじめとして、人間に備わった基本的な願望や欲求は、弱さではない。逆に強さである。本気度の高い宗教やスピリチュアルでは、こういったものを「手放す・あるいは超える」ことを目指すものがある。彼らはそれが強さであり本質であると思っている。だからこそ、色々なものを投げ打ってでもその道に没頭できる。

 でも、申し訳ないがそれは実は「弱さ」である。



 筆者は、確かに非二元という教えの告げるところを垣間見、一般的な話を前提とすれば「悟った」部類に入る。(こういうことを言うと、自分で悟ったとか言うような人間は程度が低い、ニセモノだとかいう幼稚な議論になるのだろうな。小学生が「ボクは小学生です」ということの何が悪い?)

 でも、他の非二元マスターのように「広めよう」とは思わない。ましてや、非二元が人を幸せにするとは思わない。

 もしあなたが幸せになるとすれば、それは「非二元を知った」こととは関係のないところでなされたことだ。あなたがスポーツ万能でも、音楽の笛のテストで満点を取るためには、全然別分野の神経を使わないといけない。作曲なら、なおさらのこと。



●幸せになるために、非二元は必須ではない。



 もちろんそれを知った上で、踏まえた上で地に足を付けて生きる、ということならよい。でも、私は個人的にそれすら要らないと思う。

 行って戻ってくるなら、最初から行かなくていい。

 私は著書や講演の中でも言ってきた。悟りとは「360度回ることだ」と。

 その回ることに意味があり、回らないのと視点と景色が同じでも、見え方が違う。感じるものが違う、と。

 でもそれは、私がたまたまそういうシナリオの人生だったから。それが自然な流れだったから、結果論的に良かったというだけで——



●非二元を経由して戻ってこなくても幸せなら、その人はそれでいい。



 それをお節介に、フツーに生きてて幸せな人にわざわざ声をかけて、「その幸せは本物じゃないんだよ。幻想なんだよ。自分は本来は個ではなく全体、という自己消失を経てこそ本物の幸せがつかめるんだよ!」とあおるのは、ちょっとやめたほうがいい。

 筆者が本書の執筆を続け、動画配信もしているのは、非二元の教えを広めて皆さんに幸せになってもらおうというのでは全然ない。ただ、言いたいことを言っている。あとは、幸せになるためのごく当たり前のことを言っている。

 もし、私の発信の内容に他では言わない独特のものがあるとするならば、それは私の意見がユニークなのではない。当たり前なのに誰も言わないだけ、ということも多い。もしくは皆さんが、狂おしいほどの勘違いをなさっているか。

 これからは非二元の時代か? など、私からしたらとんでもない。

 少子化時代の幼児教育産業のように、はっきり「斜陽産業」だと思う。もし仮に人気が出ても、それは非二元の内容そのもののおかげではなく、ただの発信者個人の魅力のせいである。



 勘違いをしないほうがいい。

 くうは、非二元の領域は、浦島太郎にとっての竜宮城である。ウェンディにとってのネバーランドである。

 一瞥はするかもしれないが、いつまでもピーターパンと遊んでいたら不都合が生じる。竜宮城でいつまでも「タイやヒラメの舞い踊り」を見ていたら、お爺さんになってしまう。

 我々の軸足があるのは、常に地上。我々の故郷ふるさとは現実。

 ネバーランドも竜宮城も、そこは我らのつい住処すみかではなく、人はあくまでもゲスト。

 ゲストはゲストらしく、数泊したらとっとと帰りなさい!



「回帰」という言葉を使うのは、その帰る先である「くう(非二元)」が、我々の出所であり正体だとするから。でも、そう考えるのは当たってはいても得策ではない。

 回帰ではない。むしろ幻想のほうが本当の故郷で、あちらへは「おでかけであり旅行」なのだ。

 二元性キャラとして生まれた我々は、幻想視座とはいえ「非二元とは相容れない存在」。それを本当に「理解した」という人がいるなら、「宿題はやったんですけどノートを忘れました」って言ってる小学生のようなもの。実際やってないのに、やったと言えるんだから。

 で、そうかそうかOKよと先生(一般大衆)が信じてくれるから、人気者になる。でも、そんなことを繰り返しているといつかはこう言われる。



●じゃ、今からすぐ家に帰って、ノートを取ってきなさい。



 ここ(本書)は、非二元に分類されるけど推奨していないというヘンなところである。それを前提に今後ともお付き合いください。付き合いきれない方、出口はあちらになっております。

 あなたの、幸せへの旅の健闘をお祈りします。

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